第74話:「逃走する残党」
カイロが近づいてくる気配がした。
足音はしなかった。気配だけが、ゼノリスの隣に現れた。
「ゼノリス様」
声は低く、感情を抜いた報告の声だった。
「港湾の南倉庫から、馬車が荷台に物資を積んで二台出ています。護衛として兵士が六人ついています」
ゼノリスは扉の隙間から覗く老いた目から視線を外し、南の方へ目を向けた。倉庫街の石造りの建物の間から、馬の蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。乾いた石畳を叩く音は、速かった。
「追ってください。物資は民のものです」
カイロが頷く前に、セラが走り出していた。石畳を蹴る音が短く鳴り、その音がすぐに遠くなった。カイロがそれを一瞬だけ目で追い、ゼノリスへ視線を戻した。
「……了解しました。また報告します」
それだけ告げて、カイロも走った。音がなかった。石畳の上を走っているはずなのに、靴底が地面を踏む音がしない。数歩で建物の陰に消え、そのまま気配が消えた。
ゼノリスは港の中央通りに残った。
波の音が戻ってきた。馬の蹄の音は、もう聞こえない。施設の入口の方でガルムの声が低く響き、捕らえた兵士たちを誘導している足音が続いた。潮の匂いが朝の空気に混じり、通りに静けさが戻ってきていた。
ゼノリスは二人が消えた方向を見ていた。
◇◇◇
馬車は街道の石畳を南へ向かっていた。
二台の荷馬車が縦に並び、前の馬車に二人、後ろの馬車に二人が乗っている。残り二人が馬車の両脇を馬に乗って走っていた。カイロは後方の建物の影から、その配置を把握していた。
気配を殺したまま、建物の壁に沿って距離を詰める。
石畳の継ぎ目を踏まないように足を運び、影から影へ移動する。街道の左側の建物の軒が、朝の光を遮って帯状の陰を地面に落としていた。その陰の中を、音もなく進む。
前の馬車まで十数歩。後ろの馬車の御者が時折背後を振り返るが、カイロの姿は見えていない。
馬車の速度が上がった。
御者が馬を急かしている。手綱を叩く音と、馬の息が荒くなる音が届いた。街道の先に港の南門が見える。そこを出れば街道は森の中に入る。建物の陰が使えなくなる。
カイロは判断した。
後ろの馬車の荷台の端に指をかけ、音もなく乗り込んだ。積み上げられた木箱の陰に体を収める。箱の表面に焼き印が押されていた。数字と記号の羅列。港湾の税収記録の封印だ。
前方でセラの声がした。
「止まれ!」
馬が嘶いた。前の馬車が急停止し、後ろの馬車の御者が手綱を引いた。カイロは荷台の揺れを膝で吸収し、体勢を保ったまま木箱の陰に収まっていた。
「なんだ、女か! どけ!」
「邪魔だ! どけ!」
複数の声が重なった。カイロは荷台から前方を確認した。セラが街道の中央に立ち、両足を肩幅に開いている。
その正面に、前の馬車から降りた二人の兵士が剣を抜いていた。馬車の脇を走っていた二人も馬から降り、距離を詰めてきている。
セラを挟む形になる。
カイロは木箱の陰から荷台の端へ移動した。後方の二人の位置を確認する。左側の男が剣を抜きながらセラの背後に回り込もうとしていた。右側の男が続こうとする。
カイロは荷台から音もなく降り、左側の男の背後に立った。
左側の男が振り返る前に、カイロは首筋の一点を指先で押した。
男の膝が音もなく抜けて石畳に崩れ、その体を右腕で支えながら静かに横たえた。
右側の男がその音を聞いて振り返り――カイロの姿が見えなかった。男が首を巡らせた瞬間、背後から同じ一点を押すと、男も声を上げずに崩れた。
◇◇◇
前方では四人の兵士がセラを包囲していた。
先頭の男が剣を構え、「勇者様のためだ!」と叫びながら踏み込んだ。
セラはその一歩を待っていたように半歩横にずれ、踏み込んできた男の剣腕を引き寄せながら体を回した。引かれた勢いで男が前のめりに崩れ、その背中が石畳を叩いた瞬間、左から別の男が横薙ぎに剣を振ってきた。
セラは屈んだまま一歩前へ踏み込んで刃の下をくぐり、立ち上がる勢いで男の顎を肘で突き上げた。
男が後ろへ吹き飛び、馬車の車輪に背中を打ちつけて崩れた。残り二人が顔を見合わせ、剣を向けたまま動けなかった。
セラが正面を向いた。
残り二人の視線がセラの両拳に落ちた。剣を持つ手が、小さく震えた。二人の剣が、下がった。
その隙にカイロは後ろの馬車の御者台へ回り込み、二人の首筋を順に押した。声も上げずに二人が石畳へ崩れた。
前の馬車の御者台では一人が手綱を捨てて飛び降り、もう一人が馬ごと逃げようとした。
セラが馬の手綱を掴んで止め、飛び降りた男の前に立った。男の足が石畳に縫いつけられたように止まった。カイロが背後から首筋を押すと、男が音もなく崩れた。
十人、全員が倒れている。
◇◇◇
カイロが港の南街道をゼノリスのもとへ戻ってきた頃、太陽は建物の上端を照らし始めていた。
「物資の確認が取れました」
カイロが荷台の横板を開けた。木箱が積み重なり、その間に麻袋が詰められていた。
「港湾の税収記録と一致します。民から搾取した物資です」
カイロが木箱の端を開けた。乾いた穀物の匂いが漏れた。
ゼノリスは荷台に歩み寄り、麻袋を一つ持ち上げた。ずしりとした重みが掌に伝わった。どこの倉庫から、いつ、いくら取ったか。その記録が、この重さの中に詰まっている。穀物の匂いが、朝の潮風に混じって広がった。
ゼノリスは袋を荷台に戻した。
「兵士たちは?」
「兵士たちは捕らえ、管理官などと同じように港湾都市の収容施設へ移送しました」
セラが荷台の反対側から声をかけた。
「勇者様のためだって、最後まで言ってたよ……」
カイロは答えなかった。荷台の蓋を閉め、金具を留めた。
ゼノリスは一度だけ、セラの方を見た。セラの目は荷台ではなく、兵士たちが倒れていた街道の方に向いていた。
ゼノリスは荷台から手を離し、街道の先に目を向けた。
港の方から波の音が届いた。倉庫街の石畳に朝の光が差し込み、建物の影が長く伸びていた。
「これを民に返します」
静かな声だった。荷台に向けたままの目が、動かなかった。
「それが、最初の一歩です」
港の北の方角から、空気がかすかに震えた。青白い光が、建物の屋根の向こうで一度瞬いた。




