第73話:「搾取者の末路」
管理官が窓に向かって走った。
革靴が床を叩く音が鋭く、机の端に手が当たって帳面の束が崩れた。窓の桟を両手で掴み、外へ身を乗り出した男の背中がゼノリスの視界に入る。朝の光が窓枠から差し込み、男の絹の上着の刺繍を白く照らした。
「全員集まれ! 上だ、上へ来い! 魔王軍の残党が入り込んだ! 殺せ!」
声が港湾の石畳に落ちて広がった。潮の匂いが混じった朝の空気が窓から流れ込み、散乱した帳面の端を揺らす。
外の路地で、靴音が動き始めた。甲冑の金具が擦れる音、複数の足音が施設へ向かって集まってくる。
ゼノリスは扉に背を向けたまま、その音を聞いていた。
管理官が窓から身を引いて振り返った。
ゼノリスが動いていないのを見て、男の目に色が混じった。怒りではなく、勝算の色だった。机の端から手を離し、背筋を伸ばした。
ゼノリスは窓から視線を外し、音もなく扉の脇へ身を寄せた。
扉が蹴り開かれた。
飛び込んできた先頭の兵士が部屋の中央へ視線を走らせた瞬間、ゼノリスは扉の蝶番側の死角から一歩踏み出し、男の首筋の一点に指先を押し当てた。
男の膝が音もなく抜けて前のめりに崩れるのを左腕で支え、床に寝かせる。呼吸は続いていた。
続いて入った二人目が剣を抜こうとした。
ゼノリスは男の手首を内側から押し上げ、刃が天井へ向いて柄が掌から離れた。
床に落ちた金属音が部屋に響いた。空いた胴体の中心に掌底を当てると、男が後退して扉に背中をぶつけ、そのまま崩れ落ちた。
廊下からまだ足音が続いていた。外の路地でも、複数の声と靴音が重なっている。
ゼノリスは管理官に視線を戻した。男は窓を背にして立ったまま、口だけが動いていたが、声は出ていなかった。
◇◇◇
セラは叫び声を聞いた瞬間、走り出していた。
施設の東側の路地、石畳の先に守備兵の影が重なっていた。
管理官の声に引き寄せられた兵士たちが施設へ向かって動いている。その流れの横に、老婆の姿が見えた。路地の奥の建物の陰に、杖を突いた老人が背を丸めている。兵士たちの足が、そちらへ向きかけていた。
セラは守備兵の先頭と路地の出口の間に、体ごと割り込んだ。
先頭の男が足を止めた。
セラを一瞬だけ見て、男の顔には安堵と同時に、底の浅い侮蔑が浮かんだ。その顔のまま槍を構えようとした男の肘を内側から押し上げ、穂先が石壁へ向いた隙に膝を払った。
男が崩れる勢いを背中で押して施設の入口へ向け、後続の兵士たちをそちらへ誘い込む形を作った。
彼が倒れ込む音を背にして、セラは瞬時にその場を離れた。
施設の東窓から廊下へ飛び込む。
鉄と汗の匂いが鼻を打った。廊下の先に五人、全員がこちらへ向いた。後方の男の指先に術式の光が粒のように揺れ始めていた。
セラは詠唱が声になる前に三歩で距離を詰め、肩を男の背中に叩き込んだ。
男は壁に顔から突っ込んで崩れた。その衝撃で前の男が振り向いた瞬間に脇腹の金具の隙間へ右拳を打ち込むと、甲冑の内側まで通った衝撃で男が膝から折れ、残り三人が向き直った。
先頭が槍を横構えに広げて廊下の幅を塞ぎ、後ろの男が詠唱を続けている。術式の光が指ではなく手のひら全体に広がっていた。術式の組み上がりが速い。
その時、廊下の奥の空気が変わった。
詠唱者の手のひらの光が、突然ぶれた。指の間から光が漏れ、術式の構造が崩れていく。男が自分の手を見て動きを止めた。廊下の空気が、じわりと重くなった。
シルヴァだ、とセラは直感した。
詠唱者が一歩後退した。先頭の槍がセラへ向かって突き出された。セラは半歩内側に踏み込んで穂先の軌道を外れ、柄を両手で引き寄せながら体を回した。引かれた勢いで男が前のめりに崩れ、その背中を足で踏み込んで床に押し伏せた瞬間、廊下の奥で短い音がした。
鉄が石を擦る、ごく小さな音だった。
残り二人が同時に振り返った。廊下の奥には誰もいない。互いに顔を見合わせ、握った剣の柄に力が入り――そのまま抜けた。
二人が剣を下げた。
セラは倒れた兵士たちを確かめた。呼吸は続いている。
施設の入口の方でガルムの盾が低い音を立て、それから静かになった。
◇◇◇
廊下の足音が、止んだ。
管理官がゼノリスへ視線を向けた。窓を背にして立ったまま、その目が扉の方へ泳いだ。廊下から声が来ない。甲冑の音が来ない。男の喉が上下に動き、唇が開いたが言葉が出なかった。
扉が開いた。
カイロが入ってきた。管理官が半歩後退して窓枠に背中をぶつけた。逃げ場が、なかった。
「終わりました」
カイロが短く告げ、壁際に退いた。
ゼノリスは机に歩み寄り、散乱した帳簿の中から一束を取り上げた。
端が折れ、インクの染みがついた紙だった。数字の羅列。港湾の税収記録、徴収額、そして民への支払い記録――支払われなかった、という記録。束の厚さは、年数の重さだった。
管理官の目がその束を追った。
「勇者様の名において命令する! 貴様らは反逆者だ! 勇者様が聞けば、貴様らなど――」
ゼノリスは帳簿の束を机の上に置いた。
音は静かだった。それだけだった。だが管理官の声が途切れた。
「あなたが民から搾取した記録は、すべて証拠として残っています」
ゼノリスは帳簿から目を上げず、続けた。
「何年分あるか、数えました。徴収した額と、民に渡った額の差も。どこへ消えたか、あなたの屋敷の帳簿と照らし合わせれば分かります。裁きは逃れられません」
管理官の背中が窓枠から離れた。一歩踏み出し、もう一歩――膝が折れた。床に両膝をつき、絹の上着が床に広がった。
「た、頼む……っ、命だけは……妻がいる、子もいる、私はただ辺境伯様の命令に従っただけだ、逆らえなかった、逆らえば私の家族が……っ」
声が裏返り、床に手がついた。指先が床を引っ掻いた。
ゼノリスは帳簿から視線を上げ、床に這う男を見た。
絹の上着の背中。民が一年かけて稼ぐ額を一着に使った布。その下で震えている肩。
「民の苦しみに比べれば、あなたの恐怖など軽いものです」
静かな声だった。怒りも侮蔑も、その声には混じっていなかった。
「あなたの家族のことは、裁きの中で考慮されます。しかしここで奪ったものは、あなたが差し出さなければ民には戻りません」
管理官が顔を上げた。目が赤く、鼻の下が濡れていた。何かを言おうとして口が開き、閉じた。
ゼノリスは帳簿の束を手に取り、カイロへ渡した。
「証拠として保管してください」
「了解しました」
カイロが帳簿を受け取り、管理官の腕を掴んで立たせた。男は抵抗しなかった。足に力が入らないように、カイロに体重を預けたまま連れられていった。
扉が閉まった。
執務室に、朝の光だけが残った。窓から差し込む光が帳簿の散らばった床を照らし、インクの染みを白く浮かび上がらせていた。潮の匂いが、まだ空気の中にあった。
◇◇◇
港の中央通りに出ると、波の音が戻ってきた。
石畳は朝露で濡れていた。靴底が踏むたびに、かすかな音が立つ。東の空が白んでいた。雲の縁が薄く橙色に染まり、港の水面がその色を受けて揺れている。
通りに人影はなかった。
建物の扉は閉まったままだった。
ゼノリスは通りの中ほどで足を止めた。
一軒の扉が、音もなく細く開いた。隙間から目が覗いた。老いた目だった。ゼノリスと視線が合うと、目が細くなった。怯えではなく――確かめるような目だった。
隙間が、少し広くなった。
別の建物の窓の鎧戸が、内側からそっと押し開けられた。子供の顔が半分だけ覗き、母親の手がその肩を引いた。それでも子供は窓から離れなかった。
ゼノリスは動かなかった。
通りの先で、セラの声がした。カイロとガルムの低い声が続いた。仲間たちが集まってくる足音が石畳に響き、それが遠くなるにつれて、港の波音が大きくなった。
老いた目が、扉の隙間からゼノリスを見ていた。
ゼノリスはその目に向かって、軽く頭を下げた。
扉が、もう少し開いた。
そのとき、港の南の方から、馬の蹄が石畳を叩く音が聞こえた。




