第72話:「解放の狼煙」
岸壁の石畳は、まだ夜の温度を残していた。
カイロは影の中で静止した。膝と爪先だけが地面に触れている。呼吸は腹の底で止め、肺に空気を蓄えたまま、岸壁の突端を視線だけで辿った。
桟橋の突端に吊るされた燈籠が、海風で揺れた。炎が左へ傾き、また戻る。その揺れが作る影の死角に、カイロはいた。
検問所の詰め所から、人の声が漏れた。
「……今夜も何もなかったな」
「当たり前だろ。こんな夜明け前に動く馬鹿がいるか」
欠伸。椅子が軋む音。一人が立ち上がり、出入り口の方へ歩いてくる。
カイロは動かなかった。
兵士が詰め所の木戸を押し開け、外へ出た。伸びをして、空を仰ぐ。藍から白へ、空の端が変わり始めていた。波の音が低く続いていた。
兵士が欠伸の途中で固まった。
気づく間もなく、カイロの指が首の側面の一点を押した。兵士の体が前のめりに倒れる前に左腕で受け、音を立てずに地面へ寝かせた。呼吸は続いている。眠っているように見えた。
詰め所の中に、もう一人。
木戸を静かに押し開けた。椅子に座ったまま居眠りを始めた兵士の首筋に、同じ要領で指を当てた。男は頭を傾け、そのまま動かなくなった。
カイロは立ち上がり、詰め所の奥の棚を確認した。鍵の束。警戒鐘の紐。鍵束は回収した。
二十三の鼓動で、すべてが終わった。
カイロは詰め所の外へ出た。港湾の北側へ目を向け、シルヴァが指定した封鎖地点を確認した。路地の角に立てかけた石に、短い引っ掻き傷を入れる。合図だった。
◇◇◇
正門の前に立ったとき、セラの足の裏は地面の微かな震えを拾っていた。北の方角で、何かが動いた気配。カイロだ。
門の向こうに複数の足音。三人、いや四人。乾いた石畳に、甲冑の擦れる音が混じっていた。正門の守備だ。
セラは両手の指を順に握り込み、また開いた。
夜明けの空が白い。海から来る風が、青みがかった光を連れてくる。港湾の建物の輪郭が、ぼんやりと形を取り戻しかけていた。
門が開き始める前に、セラは走り出した。
半開きになった隙間に肩から体を入れ、内側へ転がり込む。
守備兵の一人が「何だ!」と声を上げた瞬間、セラは立ち上がりながらその男の胸板に掌底を叩き込んでいた。
衝撃が甲冑の内側まで通り、男が壁へ飛んだ。石壁に背中から当たって崩れ落ちる。
残り三人が槍を構えた。
「魔族の手先か! 討て!」
セラには聞こえていたが、聞いていなかった。
一番手前の兵士が槍を突き出すより早く、セラは内側に入り込んでいた。
槍の柄を腕で払い、前に詰め、肘を顎の下へ入れる。男が地面に膝をついた。
後ろの二人が動いた。その一人が急ぎ口で詠唱を始めた。術式を組む声が上がる。
セラは詠唱の完了を待たなかった。
魔術師との距離を二歩で詰め、右の拳を腹に入れた。
一息分の詠唱が消えて、術式が霧散した。術式陣の欠片が空気に散る。魔術師が膝から崩れ落ちる前に、セラはすでに最後の一人へ向いていた。
男は槍を構えたまま、動けなかった。
セラが一歩踏み出すと、男は槍を地面に置いた。
「……降参だ」
セラは止まった。肩で息を整え、倒れた三人を確認した。全員、生きてはいる。守備兵の降参した男に視線を向ける。
「動かないで」
男は深く頷いた。
背後の路地から、人の声がした。住民たちが物陰から顔を出し、戦闘の余韻が残る広場を見ている。子供が一人、母親の服を掴んで半分隠れていた。子供の目が、セラと目が合った。
セラは手を上げかけて、止めた。手甲の拳がまだ震えていた。戦いの熱が、指先から抜けきっていなかった。
この手を見せるのは、まだ早い。セラは拳を腰の後ろに回し、子供に向かって小さく頷いた。
◇◇◇
カイロの合図から四十秒。
シルヴァは北の検問所の外壁に背を預け、杖の先端で石畳に術式の補助線を引いた。視線は正面を向いたまま、指先の感覚だけで線を完成させた。
検問所の内側から、人の足音が二つ。
シルヴァは立ち上がり、杖を前に突き出した。術式の光が路地に広がる。青白い光の膜が北の出口を覆い、壁のように固まった。
【遮断】の術式が成立したことを確認し、杖を下げた。
「……これで北は塞ぎました」
誰に向けて言ったわけでもなかった。
検問所の奥で、兵士が壁に手をついて出てきた。シルヴァが展開した術式の光を見て、一歩引いた。
「な、何だこれは……」
「通れません」
シルヴァが告げた。
男が剣を抜いた。シルヴァは動かなかった。男が一歩踏み込むと、光の膜から微かな圧力が漏れ出して、男の足が止まった。空気が重くなったように感じられる、それだけで十分だった。
男は剣を持ったまま、後退した。
「……次は、東ですね」
シルヴァは小さく呟いた。
◇◇◇
ガルムが路地に入ったとき、突き当たりに五人の民が固まっていた。
背を壁に貼り付け、膝を抱えている者。両耳を塞いでいる者。壁の角に頭を押し付けた老人。
ガルムは盾を左腕に構えたまま、一度立ち止まった。盾を持たない右手が、無意識に下がった。武器を向けていないことを示すように。
「怖がるな」
低く、短く言った。
民の一人が顔を上げた。ガルムの体格と鎧を見て、一瞬だけ目を見開く。
「逃げ場を作る。わしの後ろについてこい」
ガルムは振り返らずに路地を歩き始めた。盾の縁が石壁に当たり、鈍い音が鳴る。後ろで、足音が続いた。一つ、二つ、増えていく。
路地の出口の手前に、守備兵が二人立っていた。
両者が盾を見て構えるより前に、ガルムは足を止めずに進んだ。
肩から盾を押し当てると、二人の体が左右に弾け飛んだ。骨は折れていないと思う。
広場に出た。背後の民が路地の出口で立ち止まるのを感じた。
「こちらへ」
ガルムは広場の端、建物の影を指した。低い声だったが、遠くまで届いた。民が走り始めた。老人の腕を若い男が支え、母親が子供の手を引いた。
ガルムは広場の中心に立ち、背後に民を置いたまま、来た道に向き直った。
民が建物の影に収まったのを背中の気配で確認し、正面を向き直す。港の方から複数の足音が近づいてきていた。武装した四人の兵士が角を曲がり、広場に出てきた。
先頭の男がガルムを見て、足を止めた。
ガルムは動かなかった。盾を前に出し、足を肩幅に開いて、ただそこにいた。
兵士が槍を構えた。
「ど、どけ。でなければ――」
「来るなら来い」
ガルムが低く言った。
先頭の男が一歩踏み出した。踏み出した足が、地面を踏む前に止まった。ガルムの目が、射抜くように男を捉えていた。二歩目が出ない。男の後ろの三人も、足が動かなかった。
沈黙が広場に落ちた。波の音が、遠く続いていた。
先頭の男が槍の柄を握り直した。汗が柄を滑る。それだけで、ガルムには分かった。
「退け」
短く言った。
男は一歩、後ろへ引いた。後ろの三人が続いた。誰も剣を抜かなかった。四人が角を曲がって消えるまで、ガルムは動かなかった。
背後から、息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、建物の影から民が一人、顔を出していた。中年の男で、目が赤かった。
ガルムは何も言わなかった。男と目が合い、一度だけ頷いた。
◇◇◇
シルヴァは東の検問所の石壁に指先を当て、目を閉じた。
壁の内側から魔力の流れが伝わってくる。薄い。守備の術式が一枚、外壁の内側に張られていた。大した密度ではないが、構造は整っている。
目を開けた。
杖の先端で壁面に補助線を二本引き、術式の接続点を探る。指先に、ざらりとした石の感触と、その奥から染み出す魔力の振動が混ざって届いた。接続点は壁の右上、角から四十センチ。
杖をそこへ当てた。
術式が書き換わる感覚は、音ではなく圧力で来る。シルヴァの掌に微かな反発があり、すぐに解けた。内壁の守備術式が霧散した。
東の検問所から怒鳴り声が上がった。
「結界が消えた! 魔術師か? 外に出ろ!」
シルヴァは杖を前に突き出し、東の出口を塞ぐ封鎖の術式を組み始める。
詠唱はない。頭の中で術式の構造を展開し、杖が光の軌跡を空中に描いた。青白い膜が出口を覆い、固まる。
内側から兵士が体当たりをした。膜が揺れ、すぐに元の硬さに戻った。
「これで東も塞がりました」
シルヴァは杖を引き、指の感覚で魔力の消耗を確かめた。三割ほど使った。まだ余裕はある。
◇◇◇
港の中央通りに人影はなかった。
ゼノリスは石畳の上を歩いた。革底が乾いた石に触れるたびに、微かな音が響く。朝の光が水面に反射し、白く揺れていた。塩と魚の匂いが、海風に乗って鼻を過ぎた。
通りの両側に建物が並んでいる。扉が閉まっている。窓に人影が見えた。
民だ。
怯えた様子でゼノリスを見ている。
ゼノリスは歩みを止めなかった。
通りの突き当たりに、港湾管理施設がある。石造りの二階建てで、正面に扉が一枚。扉の前に兵士が二人立っていたが、ゼノリスが通りを歩いてくるのを見て、一人が建物の中へ消えた。
残った一人が槍を横一文字に構え、その場に釘付けになった。それは退路を断つための障壁というより、ただの臆病な盾だった。
「……止まれ。ここから先は――」
ゼノリスは足を止めず、兵士の槍の柄を片手で押しのけた。槍を持つ手ごと外側へ押されて、兵士の体が傾いた。そのまま扉を引き開け、中へ入った。
廊下が短く、奥に階段があった。二階から足音が降りてくる。複数の人が、急いでいる。
階段の踊り場で、三人の兵士が剣を抜いて待ち構えていた。
ゼノリスは【至極の理】を向けた。三人の頭上に、漆黒の星が浮かんだ。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
ゼノリスは一歩、踏み込んだ。
先頭の兵士が剣を振り下ろすと同時に、ゼノリスはその右腕を内側から押し上げた。
剣が天井を叩き、石の粉が落ちる。空いた胴体に掌底を入れると、男が後ろへ倒れ、残り二人に激突した。三人が折り重なって階段に崩れ落ちた。
踊り場を越え、二階へ上がった。
廊下の突き当たりに扉が一枚。中から声がした。
「く、来るな! 辺境伯ボルドス様の名代として、この港湾の管理を――」
ゼノリスは扉を開けた。
執務室だった。机の前に男が立っていた。威厳あるはずの顔が青ざめている。身に纏っているのは、辺境伯の紋章を金糸で贅沢に刺繍した、絹の上着だ。机の上の書類が散らばり、一枚が床に落ちていた。
男がゼノリスを見た。喉が動いた。
ゼノリスは男の頭上を確認した。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
星の色に敵意はあった。だが、恐怖の色の方が濃かった。
「き、貴様……魔王軍の残党か! こんなことをして、ただで済むと思うな! 辺境伯様が――」
男の声が続いていた。ゼノリスは男が言葉を尽くすのを待ち、その余韻が消えた後で、静かに口を開いた。
「この街の搾取は、今日で終わりです」
男の口が止まった。
窓の外から、波の音だけが届いた。




