第71話:「夜明け前の準備」
焚き火が、低く燃えていた。
炎は膝ほどの高さしかなかった。それでも、周囲の闇を押しのけるには十分だった。木の根が浮き出た地面に、五人がそれぞれの間隔で座っている。火の粉が一つ、舞い上がり、すぐに消えた。
カイロが地面に略図を広げた。
港湾都市の区画が線で記されており、桟橋の位置、商会の建物、検問所の場所に印が打たれていた。炎の揺らぎで、線の輪郭が微かに動いて見えた。
セラが身を乗り出した。膝が地面から浮き、両手を前についた。
ガルムは腕を組んだまま、わずかに顎を前へ傾けた。
「港湾都市の内部構造と、制圧のための条件を共有します」
カイロが口にした。夜の森に、言葉だけが静かに落ちた。
「管理官は辺境伯の配下ですが、商会との連絡線が細い。本部からの使者が来るのは週に一度、決まった曜日のみです」
カイロの指が、略図の一点を押さえた。
「その使者が来ない日は、管理官が単独で動きます。朝の港湾巡回と、夕方の収支確認。行動は固定されている」
セラが口を開いた。
「つまり、使者が来ない日を狙えば――」
「商会への連絡が最短で丸一日、届きません」
カイロが引き取った。
セラは黙った。視線を略図に落とし、指先で膝を一度叩いた。
ガルムが口を開いた。
「作戦は、その日か」
「はい」
カイロが答えた。
火が揺れた。風が一瞬、木の上を通り過ぎた。葉が擦れ合い、遠くで枝が軋んだ。
ゼノリスは略図を見ていた。炎の光が、線の上を滑った。桟橋から伸びる道。検問所の位置。商会の建物が街の中心に据わっている。
管理官を制圧し、一日の空白を作る。その間に、実効支配を確立する。
シルヴァが、外套の内側から別の紙片を取り出した。略図より小さく、術式の記号が細かく書き込まれていた。炎の光に翳し、一度確認してから、膝の上に置いた。
「検問所の構造については、追加で分析しました」
シルヴァが口にした。
「北と東、二か所に検問所があります。増援はそこを通ってしか来られない。二か所を同時に封鎖できれば、管理官への支援は完全に断てます」
セラが顔を上げた。
「封鎖って、どうやって?」
「魔術で結界を張ります。通行を物理的に遮断する。時間は半刻もあれば十分です」
シルヴァが淡々と返した。
セラは一瞬、シルヴァを見た。それから前を向き、口を閉じた。
「一日の空白。二か所の封鎖」
ゼノリスが言葉にした。略図から目を離さずに、確認するように口にした。
「その条件が揃えば、制圧は現実的になります」
カイロが続けた。
「問題は、管理官に気づかれる前に動けるかどうかです。朝の巡回が始まる前に、各自が位置につく必要があります」
夜の森が静かだった。焚き火の音だけが、低く続いていた。
ゼノリスは略図から目を上げ、四人を見渡した。
セラが膝の上の拳を、わずかに握り直した。ガルムは顎を引いたまま、動かなかった。
「明朝、動きます」
ゼノリスが告げた。誰も口を挟まなかった。焚き火の炎が一度大きく揺れ、灰が散り、また静かになった。
ゼノリスは四人を見渡した。
「役割を確認します」
ゼノリスが口にした。略図の上に視線を戻し、検問所の印を指で示した。
「シルヴァ。北と東、二か所の封鎖を頼めますか」
シルヴァは外套の内側の紙片を指先で押さえたまま、静かに答えた。
「問題ありません」
「カイロ。管理官の朝の巡回に合わせて、先行してもらいます」
カイロは答える代わりに、略図の上に指を滑らせた。桟橋から管理官の巡回路をなぞり、途中で止めた。止めた場所が、仕掛ける地点だった。
ゼノリスはセラを見た。
「セラ。正面から突入し、守備兵の注意を引いてください。セラの動きで、敵の目を集める」
セラは一瞬、目を見開いた。それから口を引き結び、背筋を伸ばした。
「任せてください! 私が引きつけます!」
セラが答えた。声に力があった。
「ガルム」
ゼノリスが呼んだ。ガルムは腕を組んだまま、顎を上げた。
「民の避難路を確保し、守ってください。セラが注意を引いている間に、民を安全な場所へ」
ガルムは一度だけ、深く頷いた。
「わしの盾に任されよ」
短く、重かった。
焚き火が低く燃え続けていた。五人の影が、地面に伸びて揺れた。
「私は管理官のもとへ向かいます」
ゼノリスが続けた。
「全員が位置につき次第、動きます。それまでは、各自の持ち場を離れないでください」
誰も口を開かなかった。
セラが拳を膝の上で握った。カイロが略図を丁寧に折り畳んだ。シルヴァが術式の紙片を外套の内側に戻した。ガルムは腕を組み直し、目を閉じた。
ゼノリスは五人を見渡した。
「以上です。各自、お願いします」
ゼノリスが締めくくった。声は低く、短かった。
誰も立ち上がらなかった。焚き火が揺れ、炎の先端が細くなり、また戻った。五人の影が地面の上でわずかに動いた。
明朝だ。この火が消えたら、次に目を開けるときには、もう始まっている。
◇◇◇
炎が消えていた。
燃え尽きた薪の上に、灰白色の塊が残っていた。熱はまだそこにあった。掌を近づけると、じわりとした温もりが伝わってきた。
空の色が、黒から濃い藍へ変わり始めていた。木々の輪郭が、少しずつ形を取り戻していた。鳥の声はまだなかった。
ゼノリスは立ち上がり、外套を肩に掛けた。
カイロはすでに荷を背負い、木の幹に背中を預けて立っていた。シルヴァが杖を手に取り、術式札を外套の内側で確認した。
セラが革製の手甲を両手にはめ、指を一本ずつ曲げて確かめた。ガルムが盾を左腕に通し、ゆっくりと立ち上がった。膝が低く鳴り、鎧が軋んだ。
五人が揃った。
ゼノリスは森の外縁へ目を向けた。木々の隙間の向こう、空の端がわずかに白み始めていた。港の方角だった。
「さあ、行こう」
ゼノリスが告げた。
最初の一歩を踏み出した。足元の枯れ葉が、乾いた音を立てた。カイロが続いた。シルヴァが続いた。セラが続いた。ガルムが最後に続いた。重い足音が、他の四人の足音に加わった。
五人は森を出た。
空の白みが、一段と広がっていた。木々の向こうに、街の輪郭が滲んでいた。波の音が、遠く届いた。
街は、まだ眠っていた。




