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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第70話:「戻るべき場所へ」

 背中に、まだ視線が残っていた。


 老人の目だ。あの門柱の前で外套を握っていた手、爪の縁に染みた黒い汚れ。声にならなかった唇の動き。しばらく歩いても、それが肩の後ろに張りついて離れなかった。


 ゼノリスは振り返らなかった。前を向いたまま歩いていた。


 カイロが三歩先を行く。シルヴァが左後ろ。三人の足音だけが、朝の静かな道に続いていた。


 港の輪郭が、背後でどこかに消えた。


 そのとき、視界の奥に別の光景が重なった。


 広場の明かり。石畳の上に広がった人の波。その中心で、銀色の髪が揺れていた。白い布が目元を覆い、それでも彼女は歌っていた。勇者の功績を称える言葉を。


 ゼノリスは前を向いたまま、目を細めた。


 あの声が、まだ喉の奥に引っかかっていた。


 才能の話ではない。あの魂が、知らぬままに嘘を歌わされている。それが、足の裏に踏んだ石のように、歩いても歩いても消えなかった。


――あの純粋な魂を、勇者の嘘から解放する。必ず。


 言葉にする必要はなかった。ただ、輪郭だけが胸の内に据わっていた。


 カイロが、歩調を変えずに口を開いた。


「次の作戦についてですが」


 前を向いたままの声だった。視線は道の先に向けたままだった。


「はい」


 ゼノリスが返した。


「港湾都市に潜入したことで、管理官の行動パターンと商会との連絡線は把握できました。攻略のための情報は揃っています」


 カイロが一息で区切った。


「ただ、制圧を確実にするためには、今の三人では手が足りない」


 シルヴァが続けた。


「セラとガルムの力も必要です」


 声は平坦だったが、迷いがなかった。


「セラの突破力と、ガルムの防衛。この二つがなければ、民の安全を確保しながら制圧を完遂することは難しい」


 道が緩やかに上り始めた。木々の密度が増し、葉の間から差し込む光が細くなった。靴底の下の土が、少しずつ柔らかくなっていく。


 ゼノリスは一度だけ足を止めた。


 振り返った。港のある方角はもう木々に遮られ、見えなかった。ただ、朝の光の中に、街の気配だけがわずかに残っていた。


 ゼノリスは向き直り、歩き出した。


「五人揃って、この街を解放しましょう」


 ゼノリスが告げた。


 カイロは答えなかった。ただ、歩調がわずかに安定した。シルヴァは外套の袖を直し、杖を持ち直した。それだけだった。


 三人は森へ向かって、歩き続けた。


◇◇◇


 枯れ葉が一枚、セラの鼻先を横切った。


 手を伸ばしたが、届かなかった。葉は木の根元に落ち、乾いた音を立てた。セラは腕を下ろし、また立ち上がった。


 拠点にしている森の一角だった。太い幹が三本、斜めに寄り合うようにして立っており、その根元に荷と毛布が積んである。頭上の葉が重なり合って、光を柔らかく分散させていた。風が吹くたびに、葉の擦れ合う音が遠くから近くへ流れた。


 セラはその場を三歩歩き、戻った。また三歩歩き、戻った。


 足元の落ち葉が、踏むたびに形を変えた。


 ガルムが幹に背中を預けたまま、目を細めた。腕を組み、顎を胸の方へ引いていた。重装鎧の胸板が、ゆっくりと上下した。眠っているわけではなかった。セラが往復するたびに、その細い目がわずかに動いていた。


「セラ」


 ガルムが低く言った。


「座れ」


「でも……」


 セラは足を止めた。


「でも、もう結構経ちますよね。もし何かあったら――」


「あの三人に何かあると思うか?」


 ガルムが言い返した。声は静かだったが、揺れていなかった。


 セラは口を閉じた。拳を腰のあたりで握り、また緩めた。


 何かあるとは思っていない。ゼノ様が、カイロが、シルヴァが、危険な目に遭っているとは。思っていない。ただ、動いていないと、何かが胸の内側を叩き続けた。


 セラは木の根に腰を下ろした。


 膝に肘を置き、顎を両手で支えた。風が吹き、髪が頬に貼り付いた。払うのが面倒で、そのままにした。


 座っていると、余計に長い。立っているときは足が時間を刻んでくれた。座ると、待つことしかできなかった。


 ガルムが口を開いた。


「ゼノリス様は、もうすぐ戻る」


 それだけだった。


 セラはガルムを見た。幹に背中を預けたまま、腕を組んだまま、目を細めたまま。表情は動いていなかった。ただ、その言葉に迷いがなかった。


 セラは前に向き直り、膝の上に顎を乗せた。


 森の光が、木漏れ日になって地面に落ちていた。葉が揺れるたびに、光の形が変わった。丸くなり、細くなり、また広がった。


 足音が聞こえたのは、そのときだった。


 複数の葉を踏む音、枝を払う音。一定のリズムだった。


 セラは立ち上がった。


 木々の間から、三つの影が近づいてきた。外套の裾が枝をかすめた。先頭の人影が顔を上げた。


――ゼノ様だ。


 セラは一歩踏み出した。それから止まった。走り出しそうになった足を、かろうじて留めた。代わりに、両手を腰の後ろで組んだ。


「お帰りなさい」


 セラが言った。声が少し上ずった。


 ゼノリスは軽く頷いた。カイロが外套の土を払った。シルヴァが杖を持ち直した。


 ガルムが幹から背中を離し、立ち上がった。膝の関節が低く鳴った。ゼノリスへ向かって、静かに頭を下げた。


◇◇◇


 五人が揃った。


 根元の荷を囲むように、それぞれが落ち着く場所に腰を下ろした。木漏れ日が、五人の上に落ちていた。


 ゼノリスは四人を見渡した。


 カイロが外套の埃を払い終え、顔を上げた。シルヴァが杖を膝に渡した。セラが膝の上に手を置き、背筋を伸ばした。ガルムが腕を組み、顎を引いた。


 四人の目が、ゼノリスに向いていた。


 ゼノリスは一度、息を吐いた。


「報告します」


 ゼノリスが告げた。四人の目が、一斉に据わった。


「港湾都市に入り、内部を確認しました。制圧に必要な情報は揃いました」


 一言で、区切った。詳細は後で共有すればいい。今この場で伝えるべきことは、一つだけだった。


 セラが前のめりになった。


「じゃあ、いよいよですか?」


「はい」


 ゼノリスが答えた。セラに向けてではなく、全員に向けて言葉を置いた。


「経済拠点を取り戻します」


 風が吹いた。葉が揺れ、木漏れ日が動いた。五人の影が、地面の上で一度重なった。


「あの街で苦しむ民を救います」


 ゼノリスが続けた。声は大きくなかった。静かなまま、森の中に広がった。


 誰も答えなかった。答える必要がなかった。五人の間に落ちた沈黙が、それ自体が返事だった。


 風が葉を揺らした。木漏れ日が五人の上を流れ、やがて傾いた。


 ゼノリスが立ち上がった。


「カイロ。略図を」



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