第69話:「次なる標的」
扉の向こうから、港の音が届いた。
荷車の軋み、男たちの怒鳴り声、遠くで何かが落ちた鈍い衝撃。宿の壁は薄く、外の喧騒が地の底から這い上がるように染みてきた。ゼノリスは椅子に腰を落ち着けたまま、その音の層を耳で辿った。
部屋の中は静かだった。
卓の上には茶が一杯。湯気はもう消えていた。カイロが戻ったのは、それが冷め切るより少し前のことだった。
扉は音もなく開いた。カイロが入り、背後で鍵を回した。振り返りもせず、一枚の紙片を卓の上に滑らせた。シルヴァがそれを指先で引き寄せ、一度だけ目を通した。表情は動かなかったが、指が止まった。
シルヴァが紙片を卓に戻し、口を開いた。
「……北側の検問が強化されています」
声量は絞ってあった。カイロは壁際に立ったまま、外套のフードをわずかに傾けた。視線は扉に向いたままだった。
「東の路地に二名。宿の向かいの露店、昨日まではなかったものです」
ゼノリスは茶杯を両手で持ち上げた。口には運ばず、問いを出した。
「いつから?」
「今朝から。俺が外に出た時点では、まだ一名でした」
カイロは補足を一言で切り上げた。
ゼノリスは茶杯を卓に戻した。陶器が木目に触れる音が、小さく響いた。
港の音が、また壁を伝ってきた。今度は波の音だった。低く、一定のリズムで打ちつけては引いていく。
シルヴァが口を開いた。
「長居は、難しいですね」
断言ではなく、確認のような言い方だった。ゼノリスは短く答えた。
「ええ」
ゼノリスは続けた。
「今夜か、明朝あたりに出ましょうか」
カイロは即座に返した。
「明朝の人の流れに紛れた方が自然です。今夜動けば、かえって目立ちます」
「では、明朝に」
ゼノリスが告げた。三人の間に、短い沈黙が落ちた。港の音だけが部屋を埋めた。
◇◇◇
夜が更け、港の喧騒が一段と低くなったころ。
シルヴァが立ち上がり、窓際へ歩いた。
鎧戸の隙間から外を一度確かめ、それから向き直った。袖の内側から小さく折りたたんだ紙を取り出し、卓の上に広げた。
地図だった。
港湾都市の区画が、細い線で記されていた。桟橋、荷役広場、商会の区域、教会の建物――シルヴァの指が、その上をゆっくりと動かし、口にした。
「港湾都市の構造は、おおよそ把握できました」
シルヴァが静かに続けた。
「港湾都市の攻略に入れます」
ゼノリスは卓に両手を平らに置いた。板の冷たさが掌に伝わった。何も言わなかった。ただ、一度だけ頷いた。
シルヴァは顎をわずかに下げた。カイロは一度だけ頷いた。
三人はそれぞれの荷に向かった。
カイロが革袋を肩にかけた。紐の結び目を指先で確かめ、手を離した。シルヴァは術式札の束と書物を外套の内側に収め、杖を手に取った。ゼノリスは椅子の背にかけてあった外套を取り、両腕を通した。
扉の前で、三人が揃った。
カイロが一度だけ廊下に耳を向けた。宿の下の階から、飯の匂いと話し声が上がってきていた。常連客の、朝の気配だった。
扉を引いた。
◇◇◇
石畳は、夜明け前の冷気を均等に蓄えていた。
ゼノリスは外套の合わせを一度押さえ、路地へ足を踏み出した。背後でカイロが扉を引いた。蝶番が低く鳴り、それきり音が消えた。シルヴァが続いた。外套の裾が石畳の縁をかすめた。
まだ人の少ない刻だった。
荷役の男たちが遠くで動いているのが見えた。波の音が、路地の奥まで届いていた。塩と湿った石の匂いが、冷えた空気の底に溜まっていた。
三人は人混みに紛れるでもなく、かといって急ぐでもなく、港とは逆の方角へ足を向けた。
石畳が平らになったあたりで、カイロが先頭に立った。商人の荷を担いだ男が一人、横を抜けていった。視線を向けることなく通り過ぎた。カイロは歩調を変えなかった。
街の外縁が見えてきた。
建物の高さが低くなり、石畳が土の地面に変わり始める手前に、古びた門柱が立っていた。見張りの姿はなかった。朝の薄明かりの中で、門柱の石が白っぽく浮いていた。
足音が聞こえたのは、その時だった。
背後から、ひとつ。
引きずるような歩き方だった。石畳を踏む音が、一歩ごとに重かった。ゼノリスは振り返った。
あの老人だった。
昨日の酒場の男だった。外套を羽織り、首を縮めるようにして歩いてきた。靴の踵が片方すり減っているせいで、わずかに体が傾いていた。息が上がっていた。走ってきたのだろう。白い吐息が、口元で小さく広がっては消えた。
カイロが一歩前に出た。ゼノリスは手を小さく上げ、それを止めた。
老人は三人の前で足を止めた。両手を腰の前で重ね、俯いた。顎が、胸に触れるほど下がった。節くれ立った指先が、外套の端をきつく握っていた。
しばらく、何も言わなかった。
波の音が続いた。遠くで荷車が動く音がした。老人の白い吐息が、また口元に滲んだ。
老人が顔を上げた。
「あんたが何者か、知らねえが」
かすれた声だった。大きくはなかったが、揺れていなかった。
「この街を……いや、俺たちを見捨てないでくれ」
それだけ言って、また顎を下げた。
ゼノリスは老人を見た。
昨日の酒場で見た手だった。指の関節が腫れ、爪の縁に黒い汚れが入り込んでいた。この港で荷を運び続けた手だった。その手が今、外套の端を握りしめていた。
ゼノリスは一歩、老人へ近づいた。
老人が顔を上げた。目が合った。ゼノリスは視線を外さなかった。
「必ず戻ります」
ゼノリスが告げた。
老人の指先から、力が抜けた。外套の端が、ゆっくりと解放された。老人は何も言わなかった。唇が一度動いたが、声にはならなかった。目元に、深い皺が寄った。
ゼノリスは一度だけ頭を下げた。
それから向き直り、歩き出した。カイロが続いた。シルヴァが続いた。門柱を抜け、土の地面に足が変わった。石畳の硬さが消え、踏むたびにわずかに沈む感触が戻った。
しばらく歩いたが、ゼノリスは振り返らなかった。
老人がまだそこに立っているかどうか、確かめなかった。
街の輪郭が、朝霧の中で薄れていった。建物の黒い影が遠ざかり、波の音が細くなった。塩の匂いが薄れ、代わりに湿った土と草の匂いが混じり始めた。足元の地面が、やわらかくなっていた。
三人は、森へ向かって歩き続けた。




