第68話:「民衆の本音」
朝の港は、まだ動き始めていなかった。
桟橋に繋がれた船は静かで、帆が弛んだまま揺れていた。石畳の坂を下るにつれ、塩と腐った木材と魚の匂いが層を成して濃くなった。荷車が縁石を越えるたびに低い音が響き、御者の怒鳴り声が路地の奥まで届いた。
カイロが先を歩いた。
フードを深く被り、背に荷を負い、どこにでもいる旅商人の歩幅で進んでいく。ゼノリスは二歩後ろに続いた。シルヴァはさらに後方、石畳に落ちた影のように静かだった。
目的の酒場は港の手前の路地にあった。
看板に描かれた魚の絵が半分剥げ、残った線が何を示しているのか判別できなかった。カイロが扉を押した。蝶番が鈍く鳴り、内側の空気が外へ溢れた。煙草の煙と、安い酒と、汗の染みついた木材の匂いが、まとめて鼻に当たった。
まだ昼前なのに、席の半分が埋まっていた。
テーブルに肘をついた男が、誰とも話さず酒杯を傾けていた。壁際で二人が声を潜めて何かを話していたが、笑い声はなかった。奥の席では年かさの男が頭を垂れたまま、眠っているのか起きているのか分からない姿勢で座っていた。
カイロが自然な動作で空いた席に荷を下ろし、店の奥を一度確認した。ゼノリスが続いて椅子を引いた。シルヴァは入口に近い壁際の席を選んだ。
店の者が近づいてきた。カイロが安い麦酒を三つ注文した。店の者は何も言わず引き返した。
ゼノリスは杯が来るのを待ちながら、店内を見渡した。
昼前から酒を飲む男たちの肩の落ち方。手の甲の皮が厚く、指の関節が腫れていた。爪の縁に黒い汚れが入り込んでいた。重いものを長年運び続けた体だった。笑わなかった。声を立てなかった。ただ、酒を飲んでいた。
店の者が杯を三つ、無造作にテーブルへ置いた。麦酒の泡が縁から少し溢れ、卓の木目に染みた。カイロが一つ手前に引き寄せた。
隣のテーブルで、声が上がった。
声を潜めてはいたが、店が静かすぎて届いた。
「祭りが終わったら、また上がるらしいぞ。通行税」
「……またか」
それだけだった。怒りではなかった。驚きでもなかった。二人の声には、もう何も残っていなかった。
会話が、そこで途切れた。
ゼノリスは杯に視線を落とした。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは老いた男だった。身の丈は低く、腰が右に少し傾いていた。外套の肩の縫い目がほつれ、靴の踵が片方だけすり減っていた。右手の親指と人差し指の間に、深い胼胝があった。長年、同じ動作を繰り返してきた手だった。
老人は店内をひとつ見渡し、ゼノリスたちのテーブルの隣に腰を下ろした。店の者を呼ばず、自分で立ち上がり、棚から杯を取り、酒の入った壺を持ってきて座り直した。常連だろう。
カイロが、壺に手を伸ばした。
「注ぎましょうか」
老人がカイロを見た。警戒の色が、一瞬だけ目の奥に浮かんだ。
「……旅の者か」
「ええ。港に入る船の荷を確認する仕事で、少し滞在しています」
カイロが短く答えた。嘘の匂いがしない答え方だった。
老人は少し間を置き、杯を差し出した。カイロが静かに注いだ。
「この街に長くいるんですか?」
カイロが尋ねた。
「……生まれてからずっとだ」
老人が答えた。それ以上は言わなかった。
◇◇◇
カイロが立ち上がり、ゼノリスに向けて話しかけた。
「少し外を見てきます」
シルヴァも無言で立ち上がり、カイロの後に続いた。
老人に向けて軽く頭を下げ、荷を肩にかけて扉へ向かった。足音が遠ざかり、蝶番の音がして、また店内の沈黙が戻った。
ゼノリスと老人が、テーブルを挟んで向き合った。
老人は杯を両手で包んでいた。節くれ立った指で、まるでそこにある重さを確かめるかのように、じっと杯の感触をなぞっていた。ゼノリスは自分の杯には手をつけず、静かに口を開いた。
「港で仕事をしているのですか?」
老人は杯を見ながら答えた。
「……そうだ」
ゼノリスはさらに問いかけた。
「港の仕事は、長いのですか?」
老人が顔を上げた。警戒は薄れていたが、まだ完全には消えていなかった。
「……五十年になる」
「荷を運ぶ仕事ですか?」
「昔は、な」
老人が杯を置いた。指が卓の上に残り、木目をなぞるように動いた。
「今は体が言うことを聞かん。荷は若い者に任せて、俺は積み方と順番を指示するだけだ」
ゼノリスは頷いた。何も言わなかった。
老人がまた口を開いた。自分でも気づいていないような、ゆっくりとした速度で。
「昔は面白かったぞ。どの船に何を積んで、どの順番で降ろせば次の積み込みが楽になるか。考えながらできた」
指が卓の上で止まった。
「今は商会の者が決める。俺たちは言われた通りに動くだけだ」
そこで言葉が切れた。
老人は杯を持ち上げ、一口飲んだ。飲み終えてから、小さく息を吐いた。誇りと諦めが、その一息の中に混じっていた。
ゼノリスは、老人を見た。
【至極の理】を、静かに向けた。
老人の頭上に、星が浮かんだ。
【白色の星。☆☆/☆☆☆】
才能の輪郭が、ゼノリスの目に映った。
物の流れを読む目。どこに何があり、何がいつ動き、どこへ向かうかを、体で知っている者の才能だった。港湾の荷の動きだけではなかった。人の動き、資材の動き、街の動き――場所と物と人を同時に捌く、生まれつきの統率の才だった。
ゼノリスは口を開いた。
「あなたは荷の積み方を考えるとき、船の動きだけでなく、働く者の体力の配分まで同時に考えていませんか?」
老人の手が止まった。
杯を持ったまま、動かなかった。
「……なぜそれを知っている」
「当てずっぽうではありません」
ゼノリスは静かに続けた。
「どの船が次にどこへ向かうか、桟橋のどの位置を空けておけば効率がいいか。そこまで考えて指示を出せる者は、そう多くはない」
老人が、ゼノリスを見た。
今度の目は、警戒ではなかった。何か別のものが、その奥に浮かんでいた。
「……あんた、何者だ」
低く、静かな声だった。
「そんな目で俺を見る奴は初めてだ」
ゼノリスは答える前に、一呼吸置いた。
「今は、名乗れる立場にありません」
老人の目が、細くなった。
「ただ」
ゼノリスが続けた。
「いずれ、あなたの才能を正当に評価させてください」
老人は何も言わなかった。
杯を卓に置いた。両手を膝の上に移した。しばらく、ゼノリスの顔を見ていた。値踏みするのではなかった。何かを確かめようとしているような目だった。
やがて、老人は視線を卓に落とした。
「……評価、か」
呟くような声だった。
「この街で、そんな言葉を使う奴が来るとは思わなかった」
それ以上は言わなかった。
ゼノリスは立ち上がった。懐から硬貨を取り出し、卓の上に置いた。老人の分も含めた額だった。
「お時間をいただきました」
静かに告げ、扉へ向かった。
外の光が、一瞬だけ眩しかった。石畳の上に、カイロとシルヴァがすでに定位置に立っていた。ゼノリスが出たことで、三人の間隔が自然に揃った。
扉が閉まる直前、背後から声が届いた。
「あんた……本当に何者なんだ」
ゼノリスは振り返らなかった。




