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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第66話:「すれ違いの音」

 人波が、戻ってきた。


 拍手が広場を満たし、売り子の声が重なり、子どもの笑い声が石畳を跳ねた。祭りの喧騒は何事もなかったように膨らんでいく。歌が終わったというのに、それを惜しむ間もなく、この街は次の音で上書きされていく。


 ゼノリスは石柱の前から、動けなかった。


 カイロが、一歩前に出た。


 声はなかった。振り返ったゼノリスの目に、カイロの横顔が映った。視線は広場の奥、護衛の菱形が消えていった方向に向いていた。


「護衛付きです。追いますか?」


 短く、カイロが口にした。フードの縁を動かさず、唇だけが動いた。


 ゼノリスは、目だけで合図を送った。


「あの銀髪の歌姫、目が不自由なようですが――退場ルートはこちらです」


 ゼノリスは答えなかった。


 フードを直し、石柱前から離れた。


 カイロが先を行く。人波の中へ、影が滑り込むように消えていく。ゼノリスはその二歩後ろに続いた。シルヴァがさらに後方で、袖に両手を収めたまま、何気ない旅人の歩幅で動いていた。


 祭りの熱が、肌を押した。


 肩と肩がぶつかる距離を、三人は音もなくすり抜けていく。揚げ物の脂の匂いが鼻を通り過ぎた。どこかで硬貨が落ち、石畳を転がる音がした。子どもが走り込んできて、ゼノリスの外套の裾をかすめて通り抜けた。ゼノリスは足を止めなかった。


 広場の縁を離れ、石畳の路地へ入る。


 喧騒がわずかに後退した。建物の壁が音を遮り、人の密度が薄れた。朝の陽光が石畳に斜めに差し込み、三人の影を細長く伸ばした。


 カイロが足を止めた。


 路地の角、石造りの壁が折れ曲がる手前だった。正面の通りが見渡せる位置だった。カイロは壁に背を預けず、通りに対して斜めに立った。どこにでもいる通行人の立ち方だった。


 シルヴァが反対側の壁際に移動した。袖に収めた両手はそのままで、視線だけが通りを静かに流れていた。


 ゼノリスは二人の中間、路地の中程に立った。


 遠くから、音が来た。


 石畳を踏む、複数の足音だった。規則正しく、重心が低い。護衛の歩き方だった。


 その中に、一つだけ違う音があった。軽く、均等で、地面を確かめるように丁寧に置かれる足音。歌の後の静けさを引きずったような、その一歩一歩が。


 ゼノリスは、息を整えた。


 通りの角に、銀髪の女が現れた。


 朝の光の中で、白銀が揺れた。護衛の菱形が路地の入り口を通り過ぎようとしていた。深紅と金の刺繍が、歩くたびにかすかに動いた。絹の帯が、光を受けて白く浮いていた。


 距離が、縮まっていく。


 十歩。八歩。五歩。


 ゼノリスは動かなかった。フードを深く引き、通りを向いたまま立っていた。護衛たちの視線がゼノリスの上を一度流れ、そのまま素通りした。祭りの日に路地に立つ、どこにでもいる旅人だった。


 三歩。


 二歩。


 女が、ゼノリスの正面に来た。


 その瞬間――足が、止まった。


 護衛ではなかった。菱形の中心で、銀髪の女が立ち止まっていた。次の一歩が、続かなかった。


 ゼノリスの目に映ったのは、わずかに上を向いた顔だった。唇が、ほんの少し開いていた。絹の帯の下で、何かを探すように、空気の方向をたどるような、その仕草だった。指先が、護衛の腕の上で静止した。


◇◇◇


 足が、止まった。


 空気が変わったのを、セレナは感じた。


 変わったのではなかった、正確には。祭りの音はそのままそこにあった。石畳を踏む人々の足音。売り子の声。風が路地の角を曲がる音。それらは消えていなかった。消えていなかったのに、その中に、一つだけ異質なものが混じっていた。


 セレナの技能である【心眼しんがん】が、それを拾った。


 音ではなかった。音に似た何かだった。


 空気の震えというより、空気の密度が変わるような、重く、静かな、圧力だった。護衛たちの足音は知っていた。固く、整然としていて、感情を持たない音。広場を歩く人々の音も知っていた。生活の重さを引きずった、疲弊した足音だった。


 だが、これは違った。


 重厚だった。穏やかだった。それでいて、奥底に何か痛いものを抱えているような――誠実さの音、とでも呼ぶしかないような、そういう音だった。


 セレナは、勇者の音は知っていた。華やかで、高く、自信に満ちていた。しかし、どこか空洞だった。鳴り響くたびに、胸の奥で耳鳴りが起きた。それを、信心が足りないせいだ、と思い、ずっと祈り続けてきた。


 でも、この音には耳鳴りがしなかった。


 胸の奥が、静かになった。


 足が、動かなかった。護衛の腕に置いた指先が、力を失ったように軽くなった。顔が、音のする方へ向いていた。空を仰いでいた。絹の帯の向こうに何も見えないとわかっていても、その音がどこから来るのかを探さずにはいられなかった。


 今の、……あの方は誰?どうしてあんなに悲しくて、優しい音がするの……。


 護衛の腕が、かすかに引いた。


「セレナ様」


 低く、短い声だった。促す声だった。


 セレナは唇を閉じた。顎を引いた。指先に、また力を入れた。足が、ゆっくりと動き始めた。一歩。また一歩。石畳の感触が靴底を通して伝わってくる。


 音が、遠ざかっていく。


 後ろに置いてきた気配が、人波の音に紛れていく。それでもセレナの耳は、その音を最後まで追いかけていた。人の声に埋もれても、足音に消えても、祭りの喧騒の底に沈んでいっても――その気配の輪郭だけが、まだ胸の中に残っていた。


◇◇◇


 足音が、遠ざかった。


 菱形が路地の角を曲がり、石畳の先へ消えていく。銀髪の最後の揺れが、建物の壁の向こうに沈んだ。


 ゼノリスは動かなかった。


 路地に差し込む朝の光が、石畳に細い影を落としていた。どこかで子どもが笑い、祭りの太鼓が遠く鳴った。風が路地を吹き抜け、ゼノリスの外套の裾を持ち上げ、また落とした。


 あの一瞬を、ゼノリスは反芻していた。


 目が見えないはずだった。絹の帯で塞がれていた。それでも、あの女の足は止まった。顔が上を向いた。見えないはずの目が、こちらを探していた。


――あの女は、何かを感じ取った。


 言葉にはならなかった。声も出なかった。それでも、あの足が止まったことには意味があった。


 胸の内で、言葉が動いた。


 あの時、誓ったことと同じ言葉だ。それでも、今この瞬間に言葉にしなければならなかった。あの足が止まった事実が、誓いを新しい形に押し変えていた。


 必ず、君を嘘の鎖から解放する。


 今度は、遠くなかった。


 カイロが、音もなくゼノリスの隣に立った。一拍の間があった。


「ゼノリス様」


 カイロが静かに口にした。


「次は?」


 ゼノリスは路地の奥に視線を向けたまま、わずかに息を吐いた。


「一度、宿へ戻りましょう」



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