第60話:「盾の才能」
朝霧が、まだ低くたゆたっていた。
森の奥の広場、踏み均されていない草地の縁に、ゼノリスは立っていた。足元の草は霜で白く縁取られており、踏み込むたびに冷たい湿気が革靴の底を伝ってくる。梢の間から差し込む光は細く、空気ごと薄く切り取ったような朝だった。
焚き火の夜から、数日が過ぎていた。
ガルムは回復と鍛錬に時間を費やしていた。食事を多く摂り、昼は盾を手に取り、夜は早く横になった。体の奥に残っていた疲弊を少しずつ押し出すように過ごしていた。
草を踏む音が、聞こえてきた。
ゼノリスは振り返った。四人が、並んで歩いてくる。先頭に立つのはセラだった。軽鎧の留め金を直しながら、足早に草地を踏んでくる。その後ろをカイロが続き、シルヴァがやや間を置いて歩いていた。
そして、一番後ろに、ガルムがいた。
重装鎧が、朝の光を鈍く反射している。鉄灰色の金具が、霧の白さの中でひときわ重く見えた。歩く速度は変わっていなかった。一歩ごとに地面がわずかに沈む。それだけで、忘れていた戦士の勘が身体に戻っているのがわかった。
「おはようございます、ゼノ様!」
セラの声が、霧をかき乱した。
ゼノリスは視線をセラからガルムへと移した。ガルムは前を向いたまま、無言でゼノリスの前に立った。大きな体が、朝の光の中に静止する。岩のような顔に表情はなく、ただ、その目だけが真っ直ぐにゼノリスを捉えていた。
ゼノリスは、静かに視線を上げた。
【至極の理】が、ひっそりと応じた。
ガルムの頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【不動の盾】
変わっていなかった。数日の休息を経ても、その輝きは揺るいでいない。
ゼノリスはゆっくり瞬きをし、ガルムを見た。
「ガルム」
短く呼ぶと、ガルムの眼差しが動いた。
「一つ、あなたに伝えていなかったことがあります」
ガルムの眉が、かすかに動いた。
「あなたには、権能があります」
しばらく、誰も口を開かなかった。
セラが、動きを止めた。カイロも、腕を組みかけた姿勢のまま固まっている。シルヴァだけが、静かな目でゼノリスとガルムを交互に見ていた。
ガルムは、すぐには答えなかった。鎧の胸当てが、ゆっくりと上下した。一呼吸、置いた。
「……権能、というのは?」
「あなたが持つ、盾の力の本質です」
ゼノリスは言葉を切り、少しだけ声を低めた。
「あなたが盾を構え続けてきた、その繰り返しの中に宿った力です。まだ使い方は知らないかもしれない。ですが、あなたの体はすでに知っています」
ガルムの大きな手が、わずかに動いた。腰の側面、盾の留め具に触れるような仕草だった。それだけで、すぐに戻った。
「……わしが、ずっと持っていたということか」
「そうです」
「気づかなかった」
「あなたは今まで、ただひたすらに盾を構え続けてきた。その繰り返しの中で、すでにその力の一端を使っていたはずです。ただ、使い方を知らなかっただけです」
ガルムの目が、ゼノリスに戻ってきた。
細い目の奥に、何かが揺れていた。驚きとも、困惑とも、違う何かだった。長い年月をかけて積み上げてきたものが、今初めて別の形で見えた、そういう揺れだった。
セラが、息を呑む気配がした。カイロが、無言のまま腕を組み直した。
ガルムは、ゆっくりと息を吐いた。
「……承知した」
低い声だった。ただ、その中に何かが混じっていた。押し殺した、とも言えないような、静かな何かが。
◇◇◇
ガルムは、盾を持った。
革の留め具が左腕に食い込む。馴染んだ重さが肩から背中へと伝わり、鉄の冷たさが手の甲から肘の内側まで広がった。それがかえって、頭を落ち着かせた。
セラが、前に出た。
「じゃあ、やりますか!」
声が、朝の空気を突いた。軽鎧の前合わせを締め直しながら、重心を低く落とす。小柄な体が前傾になり、足が肩幅より広く開いた。靴の爪先が、霜の溶けかけた草を踏み込んでいる。
ガルムは盾を構えた。
左腕が前に出る。膝が曲がり、体の軸が落ちる。足が地面を探るように広がり、重心が腰の下に収まった。長年の繰り返しが体に刻んだ形だった。
セラが、来た。
地面を蹴る音が短く鳴り、小柄な体が真っ直ぐ飛び込んでくる。右の拳が盾の中心を狙っていた。速い。肩の回転から腰の捻りが一直線に乗った打ち方で、重さより鋭さで来ていた。
ガルムは引かなかった。
左足が地面に根を張るように沈み、膝から腰、腰から肩、肩から腕、腕から盾まで一本の柱になって衝撃を受けた。鈍い音が広場に響き、セラの体がわずかに弾かれた。ガルムの足元の草が、衝撃を逃がすように外側へ流れただけだった。
「……っ」
セラが、息を漏らした。
すぐに二撃目が来た。角度を変えた打ち込みで、盾の縁を狙っていた。ガルムは重心をわずかに右へ寄せ、盾の面で受け流し、弾き飛ばす。セラの体が宙を舞い、数歩たたらを踏んで着地した。振り返る間に、ガルムはすでに次の構えに入っていた。
踏み込み、打撃、流し。セラが畳み掛けるたびに、ガルムは盾を動かした。大げさには動かない。必要な分だけ必要な方向に。
三撃目。セラが左に踏み込んだ隙に、ガルムは半歩前に出た。盾の端がセラの肩口を押し、体勢が崩れる。セラが草の上で膝をついた。
止まった。
広場に、風が抜けた。梢が揺れ、葉擦れの音が短く流れて消えた。
◇◇◇
セラが立ち上がった。
「……もう一回!」
膝についた草の屑を払いながら、ガルムを見ていた。息が少し荒い。それでも、足はすでに構えの位置に戻っていた。
ガルムは盾を前に据えた。
今度はセラが揺さぶりを入れてきた。左右に重心を振りながら、踏み込む瞬間を探っている。ガルムは揺さぶりに乗らなかった。軸を動かさず、盾だけで追う。セラが間合いを詰めた瞬間、ガルムの左足が再び地面を踏んだ。
前より重い音が、鳴った。
盾が地面ごと押し返すような音だった。セラの体が大きく弾かれ、後ろに二歩下がって止まった。
ガルムは、そのまま動かなかった。
盾を前に据えて、足を落として、静止している。息は乱れていなかった。
カイロの声が、横から聞こえた。
「……すごい」
短く、それだけだった。
シルヴァの声が続いた。
「崩れない」
ガルムは答えなかった。ただ盾を構えたまま、次の構えを保っていた。
◇◇◇
ゼノリスが、口を開いた。
「ガルム」
ガルムが振り返った。鎧の胸当てが微かに上下している。それだけだった。
「あなたの踏み込みは、一度も崩れていませんでした」
ガルムは、すぐには答えなかった。
セラが、声を上げた。
「ほんとに! 私、全然押せなくて!」
ゼノリスはセラに目を向けた。
セラが口を閉じた。眉が寄った。それから、ガルムを見た。
「……わからなかった」
小さく、呟くように言った。
「どこに打てばいいか、わからなかった。打てば打つほど、打てなくなった」
ゼノリスは頷いた。
「それがガルムの盾の本質です。崩せない、という事実が相手の足を止める」
広場が、静かになった。
ガルムは、盾に目を落とした。ひび割れた鉄の表面に、朝の光が鈍く当たっている。削れた縁が指の腹に引っかかった。
騎士になってから、ただひたすらに繰り返してきたものだった。構えて、踏んで、押して。誰かに教わったわけでも、才能と呼ばれたわけでもなかった。毎日同じことを続けてきただけだった。
「あなたの盾が、仲間に攻める余裕を生んでいます。陣形の中心です、ガルム」
ゼノリスの声が、静かに落ちた。
ガルムは、ゆっくりと顔を上げた。
気付けば、セラが広場の向こうに立っていた。汗が首筋を伝い、息がまだ少し乱れていた。それでも足は構えの位置に戻っていて、目がこちらを向いていた。
カイロが腕を組んだまま黙って立っていた。シルヴァが外套の裾を押さえながら、静かにこちらを見ていた。
ガルムは盾を持ち直した。革の留め具が、左腕に食い込む。
「……もう一度、頼む」
セラに向けて、低く言った。
セラの口の端が上がった。
「はい!」
地面が、また鳴った。
◇◇◇
霧が完全に晴れた頃、訓練が終わった。
草地に五つの影が伸びている。光が高くなり、それぞれの輪郭がはっきりしていた。
「この調子で、今度は四人での連携訓練をします」
ゼノリスの声が、静かに広場に落ちた。
ガルムは答えなかった。盾を下ろして、地面に立てた。鉄の底が草を押し分け、小さく沈んだ。指の腹で、ひび割れた縁を一度だけ撫でた。
ガルムが頷いた。深く、一度だけ。




