第61話:「権能の習得」
光が、落ち葉の上に斑に落ちていた。
梢の隙間を縫って差し込む秋の日差しは、数日前より少し角度が変わっていた。草地の霜は消え、代わりに踏み固められた土が褐色に乾いている。ゼノリスは広場の端に立ち、四人の動きを見ていた。
ガルムが、盾を前に据えて踏み込んだ。
重装鎧が軋む音と、地面が沈む音が同時に鳴る。一歩ごとの重さが、数日前とは違っていた。踏み込みに迷いがない。体の芯から動いている。セラが左から回り込み、カイロが右の死角に滑り込む。シルヴァが三歩下がって間合いを保った。
四人の動きが、少しずつ噛み合い始めていた。
ゼノリスは、静かに腕を組んだ。広場を行き来する四人の影を目で追いながら、ガルムの動きだけを切り取って観察する。踏み込みの深さ。盾を動かすときの肩の角度。重心が落ちるタイミング。
揃っていた。
数日前、焚き火の夜に『承知した』と低く言ったときの声が、まだ耳の奥に残っていた。あの声の中にあった静かな何かが、今は体の動きに乗り移っている。
ゼノリスは口を開いた。
「止まってください」
四人の動きが、止まった。セラが振り返り、カイロが足を止め、シルヴァが間合いを詰めた。ガルムだけが盾を構えたまま、ゆっくりと顔を上げた。
◇◇◇
「ガルム」
ゼノリスは広場の中央へ、ゆっくりと歩を進めた。枯れ葉が足の下で乾いた音を立てる。ガルムの前に立ち、正面からその目を見た。
「【不動の盾】の使い方を、今から教えます」
ガルムは、すぐには動かなかった。大きな手が盾の縁をわずかに握り直した。それだけだった。
「……一つ、聞いてもよいでしょうか」
低く、静かな声だった。
「なぜ、ゼノリス様はわしの権能の使い方をご存知なのですか」
ゼノリスは、ガルムの目を見たまま答えた。
「私の権能【至極の理】で、見えています」
ガルムの眉が、わずかに動いた。
「以前、星の話をしましたよね? 星はあなたの魂に刻まれた真の力を示している、と。権能の名も、その本質も、そこに在りました」
ガルムは、しばらく黙っていた。視線がゼノリスから外れ、自分の手の中の盾に落ちた。ひび割れた鉄の表面を、無言で見ていた。
「……では、わしが何者かを、最初からご存知だったということか」
「いいえ、そうではありません。【至極の理】を使えば見えますが、見ようとしなければ、見えません」
「……わしを、見てくださったということか」
「あなたが誠実だったからです」
ガルムは、それ以上何も言わなかった。顎が、ほんのわずかだけ下がった。それだけだった。
ゼノリスは続けた。
「【不動の盾】は、盾の硬さではありません。あなたが『ここを通さない』と宣言した地点の空間を、概念ごと固定する力です。物理の攻撃も、魔術も、因果への干渉でさえ通さなくなる」
秋の風が、梢を揺らした。葉擦れの音が広場を渡り、消えた。
「やってみてください。今は感覚を掴むだけで構いません。盾を構えて、『ここを通さない』と、心の中で宣言する。それだけです」
ガルムは、ゆっくりと盾を前に据えた。
左腕が上がり、膝が落ちる。長年の訓練が刻んだ構えが、静かに完成した。大きな体が、広場の中央で動かなくなった。
何も、起きなかった。
ガルムの表情は変わらなかった。ただ、眉間にわずかな力が入り、また抜けた。盾を持つ手が、一度だけかすかに締まった。
それだけだった。
「……何も、変わらん」
ゼノリスは静かに言った。
「そうです。最初は誰でもそうです」
「どうすれば、よいのでしょうか」
ゼノリスは一歩、ガルムの横に並んだ。
「力むのではありません。あなたがこれまで、ずっとやってきたことを、そのままやるだけです。構えて、踏んで、押して。ただそこに、『ここを通さない』という理を重ねる」
ガルムは、もう一度構えた。
今度は、少し違った。肩の力が抜け、足が深く地面に根を張った。盾が、前よりわずかに静かに前に出た。
まだ、何も起きなかった。
しかしゼノリスは、ガルムの頭上の星を見ていた。
ガルムの頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【不動の盾】
星の輝きが、ほんのわずかだけ強く輝いた気がした。
◇◇◇
ガルムは、また構えた。
革の留め具が左腕に食い込む。盾の重さが肩から背中へ伝わり、足が地面を探るように広がった。膝が落ちる。腰が沈む。長年の繰り返しが刻んだ形が、静かに完成した。
『ここを通さない』。
心の中で、そう宣言した。
……何も、起きなかった。
ガルムは盾を下ろした。一度、大きく息を吐いた。白い息が、冷えた空気の中、広がって消えた。
再び、構えた。
踏んだ。地面が足の下で沈む。膝から腰、腰から肩、肩から腕、腕から盾まで一本の柱になる。その上に、『ここを通さない』という言葉を重ねた。
……また、何も起きなかった。
しかし、足の裏が違った。一回目より深く、地面を掴んでいた。体が勝手にそうしていた。
ゼノリスの声が、横から聞こえた。
「焦らなくていい。体がすでに知っていることを、言葉で呼び起こすだけです」
ガルムは答えなかった。盾を前に据えたまま、もう一度だけ息を吐いた。
また、構えた。
今度は何も考えなかった。騎士になってからの朝を思い出した。毎日、夜明け前に起きて、野外で盾を構えた。雨の日も、風の日も、誰も見ていない日も。構えて、踏んで、押して。それだけを繰り返した。誰かに教わったわけではない。ただ、それが自分にできる唯一のことだったから。
踏んだ。
その瞬間、何かが来た。
盾を持つ左腕の奥から、熱でも冷たさでもない何かが広がった。指先から肘、肘から肩へと伝わり、盾の鉄の表面まで満ちていく。感覚というより、確信だった。『ここを通さない』という言葉が、初めて言葉ではなくなった。
広場の空気が、変わった。
ガルムには見えなかった。しかし感じた。盾の前の空間が、ほんのわずかだけ、重くなった。押し返すような何かが、そこに在った。
セラの声が飛んできた。
「なんか、変わった!」
カイロは腕を組んだまま、その一挙手一投足を逃さぬように見ている。シルヴァもまた、息を呑んで広場の中心を見つめていた。ガルムから放たれる『壁』のような重圧を、肌で感じ取っているようだった。
ガルムは答えなかった。
ただ、盾を構えたまま、動かなかった。足が地面に根を張っていた。膝が落ちていた。盾の前に、確かに何かが在った。
やがて、それが薄れた。
ガルムは盾を下ろした。大きな手が、鉄の表面を一度だけ撫でた。熱を持っていた。自分の手の熱なのか、盾の熱なのか、わからなかった。
◇◇◇
日が傾いた頃、訓練が終わった。
枝が燃え尽きて背丈が縮んだ焚き火の周りに、五人が集まっていた。夜気が下りてきて、湿った落ち葉の匂いと、燃え残りの木炭の匂いが混じり合っている。ガルムは膝の上に盾を置いて、炎を見ていた。
盾の表面が、橙色に照らされていた。
ひび割れた鉄の縁に、指の腹を当てた。冷たかった。昼間あの感覚が来たとき、確かにここが熱を持っていた。今はもう、ただの鉄だった。
それでも、確かに在った。
あの感覚は、どこかから来たものではなかった。ずっと、ここに在ったものだった。騎士になった日から、毎日構えるたびに、少しずつ積み上げてきたものだった。それが今日、初めて言葉を持った。
炎が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、暗い空気の中で瞬いて、消えた。
「……わしにも、まだこんな力が残っていたとは」
声が、掠れた。誰かに向けて言ったわけではなかった。ただ、口から出た。
誰も答えなかった。
炎だけが、低く揺れていた。
◇◇◇
しばらくして、ガルムは顔を上げた。
ゼノリスが、炎の向こうに座っていた。
「ゼノリス様」
ゼノリスが目を向けた。
「もう一度、試させてくれませぬか」
静かな声だった。頼みではなく、誓いに近い声だった。
ゼノリスは、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。




