第59話:「不安」
炎が、低くなっていた。
枝が燃え尽きて、焚き火の背丈が縮んでいる。橙色の光が地面の狭い範囲だけを照らし、その外側は深い闇に沈んでいた。頭上の梢の隙間から、星が見える。
秋の夜気が、じわりと肌に染み込んでくる。湿った落ち葉の匂いと、燃え残りの木炭の匂いが混じり合っていた。
ゼノリスは、焚き火を見ていた。
五人分の影が、地面に伸びている。大きな影が、炎の揺れに合わせてゆらゆらと動く。
しばらく、誰も口を開かなかった。
炎が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、暗い空気の中で瞬いて、消えた。
ガルムが、動いた。
膝の上の大きな手が、ゆっくりと握られた。節くれ立った指が、固くなっていく。顔は炎に向けたまま、視線だけが落ちていく。
「わしは……本当に、ゼノリス様のお役に立てるのか……」
低く、かすれた声だった。炎の揺れに溶けるように、その言葉が場に落ちた。誰かに向けて言ったわけではなかった。それでも、確かに聞こえた。
ゼノリスは口を開こうとした。
その前に、セラが動いた。
膝を抱えていた腕をほどいて、炎の向こうのガルムに身を乗り出した。目が、まっすぐにガルムを捉えている。
「ガルム、あの盾の構え、どうやって覚えたんですか?」
ガルムの顔が上がった。
「私、今日の訓練ずっと見てたんですけど、全然わかんなくて! あの重い盾を構えながら踏み込む動き、どこで習ったんですか? 私、体術なら自信あるんですけど、ああいう重いものを持ちながら動くの、全然できなくて」
言葉が、止まらなかった。炎の向こうで、ガルムが目を丸くしている。
「あと、盾を受けた時の音。すごくよかったです。重くて、どっしりした音で。聞いてたら、なんか、安心しちゃって」
セラは、まっすぐにガルムを見ていた。羨ましがるような、不思議がるような目だった。
ガルムは、すぐには答えなかった。
大きな口が、かすかに開いた。何か言おうとして、言葉が来ない様子だった。握りしめていた手が、膝の上で少しずつ緩んでいく。指が、一本ずつ、ゆっくりと開いた。
「……若い頃から、ずっとだ」
ガルムが、静かに口を開いた。
「わしが騎士になった時分から、毎日だ。構えて、踏んで、押して。それだけを繰り返してきた」
セラが、ふむ、と頷いた。真剣な顔だった。眉を寄せて、腕を組んで、炎を見た。それから、ガルムを見た。
「じゃあ、役に立たないわけ、ないじゃないですか」
言い切った。
それだけだった。付け足しも、慰めも、何もなかった。ただ、当然のことのように、そう言った。
炎が揺れた。風が抜けて、梢が揺れた。葉擦れの音が短く流れて、また静かになった。
◇◇◇
ガルムは、炎を見ていた。
セラの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。『役に立たないわけない』当たり前のことのように言い切った、あの声が。
嬉しいとか、励まされたとか、そういうことではなかった。
ただ、どこかに刺さっていた。胸の左のあたりに、小さく、確かに。
焚き火が爆ぜた。火の粉が、暗い空気の中で短く光り、消えた。
カイロが、ガルムを一瞥した。
それから、炎に目を戻した。
「……セラの言う通りだ」
短く、それだけだった。
ガルムは、静かに炎を見ていた。
◇◇◇
シルヴァが、口を開いた。
外套の裾を整えたまま、炎を見たまま、静かに。
「今日の鍛錬で、あなたの踏み込みは三十歩、崩れませんでした」
ガルムは、その声の方に目を向けた。
シルヴァは、ガルムを見ていなかった。炎の揺れを、まるで術式を読み解くように、静かに眺めていた。
「それは私には出来ません」
淡々としていた。感情がなかった。ただ、事実だけがそこにあった。
ガルムは、返せなかった。
喉の奥が、じわりと熱くなった。目の縁に、何かが滲んできた。瞬きをした。もう一度、瞬きをした。炎の輪郭が、わずかに滲んで見えた。
ガルムは、俯いた。
大きな手を、膝の上に置いた。節くれ立った指が、革鎧の膝当てに触れる。冷たい。夜気が、鎧の金具を冷やしていた。
若い。
三人とも、若い。
それなのに、その言葉が、こんなにも重かった。
ガルムは、ゆっくりと息を吐いた。喉の奥の熱が、少しだけ薄れた。目の縁の滲みが、引いていく。
「……ありがとう」
声が、掠れた。
ガルムは、三人を順に見た。セラが、炎の向こうで背筋を伸ばしていた。カイロが、腕を組んだまま、炎を見ていた。シルヴァが、静かに座っていた。
「……ありがとう、坊主たち」
もう一度、低く呟いた。
炎が、揺れた。
◇◇◇
ゼノリスは、ガルムを見た。
俯いていた大きな頭が、ゆっくりと上がった。岩石のような顔に、炎の橙色が揺れている。目の縁が、わずかに潤んでいた。それでも、その目は前を向いていた。
ゼノリスは、口を開いた。
「ガルム」
静かな声だった。
ガルムの目が、ゼノリスを捉えた。
「あなたは、もう一人ではありません」
ガルムは、すぐには答えなかった。
その目が、ゼノリスを見ていた。じっと、動かずに。炎の光が、潤んだ目の奥に揺れていた。
しばらくして、ガルムは頷いた。深く、ゆっくりと。一度だけ。
ゼノリスは、炎が作り出す影を見た。それから、口を開いた。
「体力が戻り次第、実戦訓練に移ります」
ガルムの背筋が伸びた。鎧の金具が、微かに鳴った。
「承知した」
低く、力強い声だった。昨日とも、今日の昼とも、違う声だった。
炎が揺れた。五人分の温もりが、焚き火の周りに集まっていた。




