第58話:「ガルムの鍛錬」
朝の森は、冷えていた。
夜の間に降りた露が、枯れ草の先に光の粒を作っている。梢の隙間から差し込む光が、白く細く、地面に落ちていた。どこかで小鳥が鳴いた。短く、二声。それから、また静かになった。
ゼノリスは、ガルムの前に立った。
ガルムは盾を手に、まっすぐに立っている。昨夜の焚き火とは違う顔だった。重装鎧が朝の光を鈍く反射している。スキンヘッドの頭に、冷気が触れている。
ゼノリスは、ガルムを見た。
立ち姿は揺るぎない。だが、その足元を見れば、重心がわずかに後ろに偏っている。盾を持つ左腕の肘が、ほんの少し、内側に入りすぎていた。長く追われ、戦わず、ただ生き延びてきた体の癖だった。
「ガルム」
ゼノリスは、静かに口を開いた。
ゆっくりと言葉を選びながら【至極の理】のこと。星のこと。ガルムは黙って聞いていた。表情を変えなかった。ただ、ゼノリスの言葉を、受け取るように聞いていた。
話し終えると、ゼノリスは続けた。
「あなたはすでに☆4の強さがあります」
ガルムの目が、動いた。
「ただ、長く追われていたため、身体が疲弊しています。まずは基礎体力の回復と、盾術の感覚を取り戻すことから始めましょう」
ガルムは、一拍の間を置いた。
「承知した」
短く、力強かった。
◇◇◇
ガルムは、盾を構えた。
左腕に重さが戻ってくる。革の帯が腕に食い込む。金具が締まる音がした。何十年も繰り返してきた動作だった。体が覚えているはずだった。
足を肩幅に開く。右足を半歩引く。膝をわずかに落とす。
できた。
ガルムは息を吐いた。
体が覚えていた。鎧の重さも、盾の重さも、足の踏ん張り方も。全部、ここにある。
ゼノリスが、静かに言った。
「では、踏み込みから。ゆっくりで構いません」
ガルムは頷き、一歩を踏み出した。
右足が、地面を踏む。土の感触が、足の裏から伝わってくる。続けて左足。盾を前に押し出しながら、体重を乗せる。
よし。
体が、動いている。
もう一歩。また一歩。踏み込み、押し出し、引き戻す。その繰り返しだった。単純な動きだ。何千何万回と繰り返した動きだった。
ガルムは、視界の端で三人を捉えていた。
カイロが、木の幹に背を預けて腕を組んでいた。目だけが、ガルムの動きを追っている。セラは膝に手を置き、前のめりの姿勢で見ていた。口が少し開いている。シルヴァは外套の袖を正しながら、静かに立っていた。
三人とも、何も言わなかった。
その沈黙が、重くなかった。
ガルムは、踏み込みを続けた。土を踏む音。盾の金具が揺れる音。自分の息の音。それだけが、朝の森に響いていた。
五歩、十歩、十五歩。
汗が、額を伝った。
こんなもので、汗をかくのか。
ガルムは、その考えを振り払った。踏み込みを続けた。足が地面を捉えるたびに、土が少しずつ掘れていく。その跡が、ガルムの軌跡を刻んでいた。
◇◇◇
鍛錬は続いた。
踏み込み。盾を押し出す。引き戻す。また踏み込む。
その繰り返しだった。単純な動きだ。体が覚えているはずだった。何千何万回と繰り返した動きのはずだった。
だが、十五歩を過ぎたあたりから、足の重さが変わった。
膝が、思ったより早く重くなる。踏み込むたびに、地面が遠くなるような感覚がある。盾を押し出す左腕に、じわりと熱がたまっていく。
ガルムは歯を食いしばった。
続けた。二十歩。二十五歩。盾を押し出すたびに、左肩の付け根が鈍く軋んだ。足元の土が、踏みしめるたびに柔らかく崩れる。踏ん張りが、効かない。
三十歩目で、足が止まった。
止めようとしたわけではなかった。ただ、足が、地面を離れなかった。
息が、上がっていた。
荒い息が、喉の奥で鳴っている。鎧の隙間から、熱が逃げていく。額に、汗が滲んでいた。朝の冷気が、その汗を一瞬で冷やした。
ガルムは、盾を持つ腕を下げた。
盾を持つ手が、下がったまま、戻らなかった。
「……わしは、もう老いぼれか」
声にするつもりはなかった。
気づいたら、口から出ていた。森の冷気に溶けて、消えていく。誰かに届けるための言葉ではなかった。ただ、漏れた言葉だった。
◇◇◇
ゼノリスは、その言葉を聞いた。
ガルムの背中が、わずかに丸くなっていた。盾を持つ左腕が、体の横に垂れている。スキンヘッドの頭に、朝の光が当たっていた。
ゼノリスは、ガルムの前に歩み出た。
落ち葉を踏む音がした。ガルムが、顔を上げた。汗が頬を伝っている。息がまだ整っていない。その目が、ゼノリスを捉えた。
「いいえ」
ゼノリスは、静かに言った。
「あなたの盾は、まだ健在です」
ガルムの目が、動いた。
「長く追われ、戦えない日々が続いた。それだけのことです。感覚は必ず取り戻せます」
ゼノリスは続けた。
「焦らないでください」
ガルムは、すぐには答えなかった。
盾を持つ手が、ゆっくりと持ち上がった。左腕に、革の帯の感触が戻る。金具が、小さく鳴った。
ガルムは、一度だけ頷いた。
◇◇◇
焚き火が、五人を照らしていた。
炎の揺れる音が、森の静寂の中に低く響いている。湿った夜気の中に、燃える木の匂いが混ざっていた。
ガルムは、焚き火を見ていた。
その顔に、昼間の鍛錬の疲れが残っていた。目の下に、影が落ちている。それでも、背筋は伸びていた。盾は、傍らに置かれている。
しばらく、五人は黙っていた。
炎が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、暗い空気の中で瞬いて、消えた。
ガルムの口が、動いた。
炎を見たまま、低く、静かに。
「わしは……本当にゼノリス様のお役に立てるのか……」
その言葉が、焚き火の向こうに落ちた。
炎が揺れた。
セラの膝を抱えていた腕が、ほどけた。




