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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第56話:「主従の誓い」

 ゼノリスの右手は、そのまま差し出されていた。


 掌を上に向けて。ガルムへ向けて。


 風が、木の梢を揺らした。乾いた葉が擦れ合い、かさかさと鳴る。湿った腐葉土の香りが、ゆるやかに鼻をかすめた。森の奥から、名も知らぬ鳥の声が一度だけ響いて、消えた。


 静寂が、戻ってくる。


 ガルムは膝をついたまま、ゼノリスの手を見ていた。


 その手は、細い。魔族の骨格を持つ、白く細い手だ。鎧も手甲もない。剥き出しの掌。


 ガルムの視線が、その手の上に落ちている。動かない。


 ゼノリスは待った。


 急かさなかった。促さなかった。ただ、手を差し出したまま、ガルムの前に立っていた。


 ガルムの肩が、小さく震えている。鎧の金具が、ガチャリと鳴った。呼吸が乱れている。それでも、顔を上げない。俯いたまま、ゼノリスの手を見ている。


 やがて。


 ガルムの右手が、動いた。


 地面についていた手が、ゆっくりと持ち上がる。大きな手だった。分厚い掌。節くれ立った指。皮膚は革のように硬く、傷が重なって、もはや傷跡なのか皮膚なのか判別がつかない。何十年もの戦場を、その手が語っていた。


 その手が、ゼノリスの掌の上に、重なった。


 重い。


 想像よりずっと重かった。


 ガルムの手が、ゼノリスの掌を包むように、ゆっくりと握られる。ぎこちなく。おそるおそる。まるで、壊れ物を扱うように。


 ゼノリスは、握り返した。


 細い指が、ガルムの分厚い手に回る。力を込めた。それだけだった。言葉はなかった。ただ、握り返した。


 ガルムの喉が、鳴った。


 息を飲んだ音だった。嗚咽ではない。何か、胸の奥から込み上げてくるものを、必死に呑み込んだ音だった。


 しばらく、二人はそのままでいた。


 森が、静かだった。風が止んでいた。葉擦れの音も、鳥の声も、何もなかった。ただ、二人の間に、時間だけが流れていた。


 ガルムの口が、動いた。


 掠れた声だった。喉が震えている。唇が、言葉を探すように開いて、閉じて、また開いた。


「……わしは、盾だ」


 低く、しかし、はっきりと。


「だがもう」


 一拍、置いた。


「捨てられる盾じゃない」


 その言葉が、森に落ちた。


 ゼノリスの掌に、力がこもった。


 ガルムの手を、握る指に。


 反射ではなかった。意識して、力を込めた。この誓いを、この手を、この男の言葉を、確かに受け取ったという、それだけの動作だった。


◇◇◇


 カイロは、木の幹に背を預けていた。


 腕を組んだまま、二人を見ている。


 森の中で、ゼノリスとガルムだけが世界から切り取られたように、そこにいた。ゼノリスの細い手が差し出されたまま、静止している。ガルムはまだ膝をついている。


 ガルムの大きな手が、ゆっくりと持ち上がった。


 カイロは、息を止めた。意識してではない。自然に、止まっていた。


 二つの手が、重なった。


 その瞬間、セラが両手を口元に当てた。肩が小刻みに震えている。声は出していない。必死に堪えているのが、背中の強張りで伝わってくる。瞬きのたびに、睫毛が濡れて光った。


 シルヴァは二人から目を逸らすように、視線を地面に落としていた。


 ガルムの声が、森に落ちた。


――わしは盾だ。だがもう、捨てられる盾じゃない。


 その言葉が届いた瞬間、シルヴァの顔がゆっくりと上がった。二人の方へ、静かに向く。その横顔に、何も読めなかった。ただ、目だけが、真っ直ぐに二人を捉えていた。


 カイロは気づけば、腕が解けていた。


 組んでいたはずの両腕が、体の横に下りている。カイロはそれを確認して、視線をわずかに落とした。それだけだった。組み直そうとは、思わなかった。


◇◇◇


 ゼノリスは、ガルムの手を引いた。


 立ち上がるように、その手を引いた。


 ガルムの膝が、地面を離れる。巨体が、ゆっくりと立ち上がった。鎧が鳴った。関節が軋んだ。長く膝をついていた足が、土を踏む。


 立ち上がったガルムは、ゼノリスより頭一つ以上、大きかった。


 それでも、ゼノリスは顔を上げ、その目を見た。


 ガルムの目は赤かった。泣いていた。涙は既に頬を伝い終えていたが、目の縁が熱を帯びている。その奥に、揺るぎないものがある。誓いを立てた者の目だった。


 ゼノリスは、口を開いた。


「これからは、私たちのために盾となってください」


 低く、静かな声だった。


「あなたの盾が、必要です」


 ガルムの喉が動いた。


 深く、息を吸った。胸板が膨らむ。それから、ゆっくりと、息を吐いた。


「承知した」


 低く、重く。腹の底から絞り出すような声だった。


 風が止んでいた。葉擦れの音も、鳥の声も、何もなかった。ただ、ガルムの声の余韻だけが、木々の間に漂って、消えていく。


 ゼノリスはガルムの手を、ゆっくりと離した。


 離す前に、もう一度だけ、力を込めた。それから、指を解いた。


 ガルムは、その手を自分の胸の前に引き寄せた。握りしめるでもなく、ただ、胸の前で止めた。ゼノリスの手の温もりが、まだそこに残っているかのように。


◇◇◇


 しばらくして、ガルムの視線が、地面に落ちた。


 傷だらけの盾が、そこにあった。土の上に置かれたまま、ガルムを待っている。深いひび割れが中央を走り、縁は削れ、表面には幾重もの打撃の跡が刻まれている。


 ガルムはゆっくりと屈んだ。


 片膝をついて、盾に手を伸ばす。分厚い指が、盾の縁を包んだ。持ち上げる。鎧の重さに加わった盾の重みが、腕にのしかかる。それでも、ガルムの腕は揺れなかった。


 立ち上がり、盾を左腕に構え直す。金具が締まる音がした。革の帯が腕に食い込む感触。長年、体に馴染んだ重さが、定位置に収まった。


 ガルムは、ゼノリスを見た。


 ゼノリスも、ガルムを見ていた。


 傷だらけの盾を構えた老騎士と、黄金の瞳を持つ魔族の男。二人の間に、言葉はなかった。森の冷えた空気が、二人の間を静かに流れていく。どこかで、枯れ枝が折れる音がした。


 ゼノリスは、一歩、前に踏み出した。


 落ち葉が、足の下で乾いた音を立てた。


「一つ、告げておきます」


 ガルムの眼差しが、ゼノリスに向いたままだった。


「あなたを強くします」


 ガルムの目が、わずかに細くなった。


 驚きではなかった。何か、胸の奥の深いところへ届いた時の、そういう動きだった。


 ゼノリスは続けた。


「あなたが持つものの、本当の大きさを。あなた自身に、知ってもらいます」


 ガルムは、すぐには答えなかった。


 盾を持つ腕に、力がこもった。金具が、微かに鳴る。ガルムはゆっくりと頷いた。一度だけ。深く。


◇◇◇


 背後で、枯れ葉を踏む音がした。


 カイロが、近づいてきていた。足音に続いて、セラの足音。シルヴァの、静かな足音。


 ゼノリスは振り返らなかった。


 三人の気配が、後ろに揃うのを感じていた。四人の足音が、森の静寂の中に混ざり合う。冷えた空気が、微かに動いた。五人分の体温が、ひとつの場所に集まっていく。


 ゼノリスは、前を向いたまま、口を開いた。


「行きましょう」


 それだけを言った。


 返事はなかった。


 だが、五人分の足音が、同時に動き始めた。落ち葉が砕け、土が踏まれ、枯れ枝が踏み折られる音が続く。木々の間に、五つの人影が進んでいく。


 森の奥から、風が吹いてきた。


 冷たい風だった。湿った土の匂いと、かすかな枯れ草の香りを運んでくる。木の葉が揺れ、枝が軋み、また静かになった。


 ゼノリスは歩きながら、ガルムの気配を感じていた。


 左斜め後ろ。重い足音。盾の金具が、歩くたびに微かに鳴る。その音が、規則正しく、揺れない。


 まるで不動の盾の音のようだった。



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