第52話:「救出」
ゼノリス様は視線だけをカイロへ向けた。
目が合った。
カイロはすでに理解し、木々の間に消えた。
消えた、というより、最初からそこにいなかったかのようだった。一歩踏み出した瞬間、輪郭が森の暗がりと溶け合い、気配ごと消滅した。足音もない。枝葉が揺れる音もない。腐葉の匂いだけが残った。
五人の騎士は気づいていない。
包囲を保ったまま、老騎士への間合いを詰めようとしている。先頭の一人が剣を構え直した。左の一人が回り込もうと足を踏み出した。
その足が、止まった。
止まったのではなく、動かなくなった。地面に縫い付けられたように、膝から先が言うことを聞かない。騎士は表情を歪め、足元を見た。何もない。石も、根も、罠もない。ただ、動かない。
隣の騎士がぶつかった。体勢を崩した二人が連鎖して乱れる。三人目が振り返ろうとした瞬間、手の中から剣が消えていた。音もなく。衝撃もなく。ただ、なくなっていた。
「何だ!? 何が起きている!」
叫び声が開けた場所に響いた。五人の視線がばらばらに散る。足元を見る者、背後を振り返る者、互いの顔を確認し合う者。包囲の形が崩れ、連携の糸が解けていく。
「落ち着け! 囲みを――」
その声も途中で詰まった。叫んだ騎士の体が、ずるりと傾いた。膝が折れている。立ち上がろうとするが上がらない。見えない手に肩を押さえつけられているような、そういう崩れ方だった。
老騎士は、動かなかった。
包囲が瓦解していく中で、盾を構えたまま、ただそこにいる。反撃もしない。前にも出ない。ただ待っている。その巨体が、揺れた木々の中で一点だけ岩のように静止していた。
◇◇◇
ゼノリスは木の陰から、その変化を見ていた。
五人の包囲が崩れている。一人は膝をついたまま立てず、一人は武器を失い、残る三人が互いの位置を確認しながら動けずにいる。カイロの姿はどこにも見えない。どこから干渉しているのかも分からない。だが、結果だけははっきりと見えていた。
ゼノリスは隣を見た。
「セラ」
一言だけ告げた。
セラはすでに前を向いていた。膝がわずかに落ちている。踏み込む前の、重心を沈めた構えだ。声が届いた瞬間、その体が弾けた。
◇◇◇
地面を蹴る音が、森に響いた。
セラが木々の間から飛び込んだ。一息で間合いを詰める。騎士たちが反応した時には、すでに目の前にいた。
「何だ、こいつら!?」
正面の騎士が剣を向けてくる。速い。だが、踏み込みの角度が浅い。セラは体を半身にひねりながら踏み込み、剣の腹を手の甲で外へ弾いた。骨に響く衝撃が腕を走る。足は止めない。そのまま肩から体重ごとぶつかると、騎士の体が大きく後退した。踵が地面に引っかかり、仰向けに倒れる。
背後で気配が動いた。振り返らない。右肘を後ろへ鋭く引いた。鈍い音がして、背後の騎士がよろめく。膝をついたまま起き上がれなくなった。
左から二人が同時に踏み込んできた。
セラは止まった。一瞬だけ、静止する。二人の速度、剣の軌道、体重の乗り方――すべてを一息で読んだ。右が速い。右を先に。右の剣を受け流しながら体を回し、その勢いのまま左の騎士の胸板に掌底を叩き込んだ。
短い呻き声とともに、左の騎士が吹き飛んだ。
残る一人が後退した。剣を構えたまま、動かない。目が泳いでいる。
「……撤退だ! 撤退しろ!」
五人が踵を返した。足音が乱れながら遠ざかり、やがて森の奥に消えた。
静かになった。
葉が一枚、風もないのに落ちた。地面に触れる音がして、それからは何も聞こえなかった。セラは肩で息をしながら、その場に立っていた。手の甲がじんじんしている。右肘も痛い。だが、足は動く。
◇◇◇
ゼノリスは木の陰から踏み出した。
開けた場所に足を踏み入れると、土の感触が変わった。草が薄く、地面が硬い。乱れた落ち葉が地面を覆い、どこかで折れた枝が踏まれた跡のまま刺さっている。風が吹くたびに、葉が滑るように動く。血の匂いはない。それだけで、大事には至っていないとわかった。
老騎士は、まだそこにいた。
盾を構えたまま、騎士たちが消えた方向を向いている。追ってこないことを確かめてから、ようやく盾を下げた。肘から先が、わずかに震えている。膝も、気を抜けば折れそうだ。それでも、折れていない。全身でこらえて、そこに立っている。
ゼノリスは近づいた。
落ち葉を踏む音がした。老騎士がこちらを向いた。岩石のような輪郭の顔。スキンヘッドの頭に、幾筋もの戦傷。その顔の奥に、細い目がある。その目がゼノリスを捉えた瞬間、盾を持つ手が少しだけ持ち上がった。
ゼノリスは足を止め、老騎士と向き合った。
「大丈夫ですか?」
老騎士はすぐには答えなかった。
ゼノリスを見たまま、一度だけ深く息を吐いた。肩が落ちた。長い時間張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだような、そういう息の吐き方だった。吐き終えてから、ゆっくりと口を開く。
「……わしは、大丈夫だ」
低い声だった。地の底から引き上げてきたような、重い声だ。それだけ言って、一度黙った。
「だが」
短く区切って、続けた。
「なぜ助けた?」
問いの中に怒りはない。疑いもない。ただ、純粋にわからない、という響きだった。自分が助けられる理由が、どこにも見当たらない。そういう問い方だった。
ゼノリスは少しの間、老騎士を見た。
傷だらけの盾。震える右腕。顔に刻まれた戦傷。五人に囲まれながら一歩も退かなかった。反撃の隙があっても使わなかった。誰も傷つけようとしなかった。ただ、守り続けていた。あの背中が、まだゼノリスの目の裏にある。
「あなたが、誠実に戦っていたからです」
老騎士の目が、わずかに動いた。
瞬きをした。それからもう一度、ゼノリスを見た。何かを確かめるように。目の前にいる者が言った言葉の意味を、もう一度最初から解きほぐすように。口が少し開いて、閉じた。
ただ、盾を持つ手が、少しだけ緩んだ。
長い時間握りしめていたものを、初めて手放しかけたような、そういう緩み方だった。盾の縁に刻まれた傷が、木漏れ日を受けて鈍く光った。
◇◇◇
カイロが木の陰から姿を現した。
音もなく、自然に。まるで最初からそこにいたかのようにゼノリスの斜め後ろに立った。老騎士の目がカイロを捉えた。体が少し固まる。だがカイロは動かず立っている。
セラがゼノリスの隣に並んだ。肩でまだ息をしているが、目は老騎士をまっすぐ見ていた。腕を組まず、剣にも手を伸ばさず、正面から向き合っている。
シルヴァは少し後ろに立ったまま、外套の裾を風に揺らしながら、静かにそこにいた。
老騎士の視線が、四人を順に移った。
ゼノリスを見た。カイロを見た。セラを見た。シルヴァを見た。それからもう一度、ゼノリスに戻った。
どこかで鳥が鳴いた。遠い。風が吹いて、木々がざわめいた。葉の擦れる音が広がって、また静かになった。四人は誰も口を開かなかった。急かさない。老騎士が自分で言葉を選ぶのを、ただ待っていた。
老騎士は、ゆっくりと息を吸った。
盾を片腕に引き寄せ、四人を見渡す。岩石のような顔に、表情らしい表情はない。だが、目の奥が、わずかに変わっていた。さっきまであった刃のような警戒の色が、少しだけ薄れている。
「……お前たちは」
老騎士が口を開いた。
一度止まった。言葉を選んでいるのではない。問いを確かめているように見えた。これを聞いていいのか、という迷いを経て、それでも聞く、という決断がようやく出てきた言葉だった。
「何者だ?」
ゼノリスは老騎士を見た。
岩のような顔。細い目の奥の、深い色。問いの中に警戒はあるが、敵意はない。ただ、知りたがっている。目の前にいる者が何者なのか。なぜ助けたのか。これから何が起きるのかを。
その問いには、もう一つの問いが重なっているようにゼノリスには聞こえた。信じていいのか、と。恐る恐る差し出す問いが、そこにあった。
ゼノリスは静かに息を吸った。




