第49話:「魔王城の遠望」
風が変わった。
湿り気が抜け、乾いた冷たさが頬を撫でる。草の匂いが薄くなり、代わりに石と土の、むき出しの匂いが混じり始めた。足元の傾斜が急になり、一歩ごとに太ももに重さがかかる。
ゼノリスは足を止めずに登った。
後ろで、セラの息が少し上がっている。カイロの足音は変わらない。シルヴァは無言で、ゼノリスの斜め後ろを歩いていた。
坂の角度が、緩やかになった。
空が広くなっている。木々の梢が消え、視界の上半分が空だけになった。雲は薄く、白い筋が横に流れている。風が強い。外套の裾が、後ろへ引っ張られた。
もうすぐだ、とゼノリスは思った。
思いながら、足を進めた。
◇◇◇
丘の頂に出た瞬間、視界が開けた。
空が広い。地平線まで、遮るものがない。眼下に広がる荒野は、枯れた草と剥き出しの岩が続き、その先に森が黒く沈んでいた。街道の跡らしき筋が、かろうじて見える。人の気配はない。風だけが、草を横に倒しながら吹き抜けていく。
その奥に、城があった。
遠い。霞の向こうに、輪郭だけが浮かんでいる。だがそれだけで、わかった。丘の上からでも、その質量が伝わってくる。黒ずんだ石造りの壁。崩れかけた外壁の一角。尖塔の先端が、空を突いたまま傾いでいる。かつては整然と並んでいたはずの城壁が、今は所々で欠け、瓦礫が積み重なっていた。
――だが、立っていた。
崩れながらも、それでも立っていた。荒廃した外壁の奥に、中枢の塔が見える。戦禍を経てなお、その輪郭は揺らいでいない。かつてそこにあったものの重さが、遠景の中にも滲んでいた。
城壁の一角に、旗が立っていた。ゼノリスには見覚えのない紋章だ。勇者側の、あるいは聖教会の旗だろう。風を受けて横に伸び、ゆっくりと揺れている。
ゼノリスは動かなかった。
三人も、いつの間にか立ち止まっていた。セラが息を止めている気配がした。カイロが、わずかに目を細めた。シルヴァは城を見たまま、何も言わなかった。
風が吹いた。
外套が鳴った。草が揺れた。それ以外は、何も音がしなかった。
◇◇◇
「……あれが」
ゼノリスは静かに口を開いた。
自分でも、声が出るとは思っていなかった。それほど自然に、言葉が出た。
「かつての、私の城です」
三人は答えなかった。
ゼノリスは城を見ていた。遠い。霞の中に沈んでいる。だが見える。壁の一枚一枚、石の積み方、尖塔の傾き。かつて何度も見上げた輪郭が、荒廃した形のまま、そこにあった。
「あの城には、多くの思い出があります」
風が吹いた。ゼノリスは目を細めた。
「忠誠を誓ってくれた者たちがいました。共に戦った者たちも。今、あの城がどうなっているのか……」
言葉が途切れた。
続けようとして、やめた。言葉にすると、何かが崩れる気がした。それはまだ、言葉にする前の場所に置いておかなければならないものだった。
ゼノリスは、ただ城を見た。
旗が風を受けて、大きく揺れた。見覚えのない紋章が、こちらへ向かって広がった。それを見て、ゼノリスの胸の奥で、静かに何かが固まった。熱くも冷たくもない。ただ、硬い。
◇◇◇
セラは、ゼノ様の横顔を見ていた。
いつもと違う。何が違うのか、うまく言えない。声が低いわけでも、表情が険しいわけでもない。ただ、遠い。いつもはこちらを向いているものが、今は全部あの城へ向かっている。
セラは城を見た。
遠くて、霞んでいる。それでも大きいとわかる。黒ずんだ壁、欠けた城壁、傾いた尖塔。こんな場所が、ゼノ様の城だったのか。こんな場所で、ゼノ様は生きていたのか。
胸の中で、何かが収縮した。
悲しいとは少し違う。怒りとも違う。もっと根っこのところで、何かが動いた。
カイロが城を見たまま、微動だにしなかった。いつも気配を消しているのに、今は消していない。ただそこに立って、見ている。それがカイロなりの何かだとセラにはわかった。
シルヴァは視線を動かさなかった。外套の裾が風を受けて揺れている。その顔に、何の感情も読めない。だがセラには、シルヴァが今、全力で何かを堪えているように見えた。
セラは前を向いた。
言葉を探した。何か言わなければという気持ちと、何も言えないという気持ちが、同時にあった。気の利いた言葉は出てこない。気の利かない言葉しか持っていない。
それでもセラは、口を開いた。
「ゼノ様……」
ゼノ様が、わずかに顔をこちらへ向けた。
「絶対に、取り戻しましょう」
それだけだった。他には何もなかった。
ゼノ様は少しの間、セラを見た。それから、静かに頷いた。
◇◇◇
三人の気配が、ゼノリスの隣に集まってきた。
誰も何も言わなかった。カイロが一歩前に出て、城を見た。セラが隣に並んだ。シルヴァがゼノリスの斜め前に立った。
四人が、同じ方向を見ていた。
風が強く吹いた。四人の外套が、同じ方向へ流れた。
やがて、ゼノリスは城から目を離した。
丘を下り始めた。
来た道とは逆に、足元が柔らかくなっていく。石から土へ、乾いた地面から草の根が混じる道へ。風も少しずつ弱まり、木々の気配が戻ってきた。
先頭はセラだった。いつもより少し速い。後ろに続くカイロの足音が、規則正しく刻まれる。シルヴァは無言で歩いていた。
ゼノリスは最後尾から、前方を見た。
城はもう木々の向こうに隠れている。だがその輪郭は、まだゼノリスの目の裏にあった。
「情報を集めましょう」
三人が振り返った。
「この先に村があるはずです。まずはそこから」
カイロが頷いた。
「……承知しました」
「私も動けます」
セラが言った。シルヴァが静かに続いた。
「何なりと」
ゼノリスは頷き、歩き始めた。四人の足音が、下り坂を刻んでいく。前には道が続いていた。




