第47話:「四人の絆」
朝の光が、木々の隙間から斜めに差し込んでいた。
昨日までの冷えとは違う。風がなく、空気が静かに温まり始めている。乾いた土の匂いが、ほんのわずかに緩んでいた。枝の先で、名も知らぬ小さな虫が羽を動かしている。その音だけが、森の静寂に混じっていた。
ゼノリスは丸太に腰を下ろし、湯気の立つ器を両手で包んでいた。
セラが火の傍にしゃがんで、鍋の中をかき混ぜている。木の枝を削って作った粗末な匙だ。それでも手際よく動かしている。
「シルヴァ、もう少し待って。まだ固い」
「……急いでいません」
「そう言いながら、さっきからこっち見てるじゃない」
シルヴァが視線を外した。手元の書物に目を落とし、何事もなかったように指を動かす。
カイロが岩に背を預け、腕を組んでいた。器はすでに空だ。いつ食べたのか、ゼノリスは気づかなかった。
「カイロ、早すぎ」
「……腹に入ればいい」
「味わいなさいよ」
「味わった」
セラが呆れた顔で匙を止めた。それからシルヴァを見た。
「シルヴァはちゃんと食べる?」
「食べます」
「本当に? 昨日の朝も少なかったよ」
「……観察が細かいですね」
「仲間だから」
シルヴァは一瞬、言葉を止めた。それから短く、「そうですね」と答えた。
ゼノリスは器を口に運んだ。温かかった。薄い味だが、それでよかった。
三人のやり取りが、朝の空気に溶けていく。昨日とは違う何かが、生まれつつある。まだ形にならない。だがゼノリスには、それが確かにわかった。
◇◇◇
食事が終わった頃、ゼノリスは口を開いた。
「少し、話をしてもよいですか」
三人の動きが止まった。セラが匙を置く。カイロの目が細くなる。シルヴァが書物から顔を上げた。
「魔王城までの道のりを、少し整理しておきましょう」
ゼノリスは三人を順に見た。
「まずは情報収集です。城の現状を把握してから、動きます」
セラが真っ先に身を乗り出した。
「情報収集って、具体的には何をするんですか?」
「まずは城の現状を把握することです。守備の規模、周囲の地形の変化。今すぐではありませんが、段階を踏んで進めます」
カイロが静かに口を開いた。
「……俺が動く場面になりますか」
「ええ。ただし今は鍛錬を優先してください。動くのはもう少し先です」
「承知しました」
セラがカイロを見た。それからゼノリスに向き直った。
「私はどうすればいいですか?」
「引き続き鍛錬を続けてください。実戦はまだ先ですが、今のうちに積み上げておくことが大切です」
「はい! もっと強くなります」
踵に重心が乗るのが、土を踏む沈み込みでわかった。
「シルヴァには、術式を整理してもらいます。今は急ぎません。ただ、備えておいてください」
シルヴァが静かに頷いた。
「わかりました。私も、ゼノ様の役に立ちたいです」
その言葉には、昨日までとは違う重みがあった。ゼノリスはそれを受け取り、頷いた。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、カイロは森の中の岩に座っていた。
鍛錬を終えたばかりなのか、足元の土が乱れている。腕を膝に置き、遠くを見ていた。
「何見てんの?」
セラが隣に腰を下ろした。カイロより頭一つ低い。それでも並ぶと、妙に存在感がある。
「……別に」
「嘘つけ。考え事してた顔じゃない」
カイロは数秒置いて答えた。
「魔王城のことを考えていた」
セラが弾かれたように顔を向けた。
「行ったことあるの?」
「……ない。だから、想像していた」
セラが少し黙った。
「私も考えてた」
「……何を?」
「いざって時に、ちゃんと役に立てるかな、って」
カイロは前を向いたまま、短く息を吐いた。
「……同じだ」
セラがカイロを見た。カイロは森の向こうを見ていた。
「カイロもそういうこと考えるんだ」
「当たり前だろ」
「なんか、意外」
「……なぜ?」
「いつも完璧そうだから」
カイロが少し間を置いた。
「完璧じゃない」
「知ってる」
セラが膝を抱えた。それ以上は、どちらも言わなかった。風が一度、梢を揺らして通り過ぎた。
◇◇◇
空の端が橙に染まり始め、木々の影が長く伸びている。セラは岩場に立ち、拳を打ち続けていた。素手で岩の面を叩く。皮が擦れる感触が、掌に積み重なっていく。
息が上がっていた。肺が熱い。それでも足を止めなかった。
「……そろそろ休んだら?」
背後から声がした。
振り返ると、シルヴァが岩の傍らに立っていた。外套の裾を風に揺らし、書物を脇に抱えている。いつからそこにいたのか、セラは気づかなかった。
「シルヴァ、いつ来たの?」
「少し前から」
「見てたの?」
「……通りかかっただけです」
セラは拳を開いた。掌が赤くなっていた。岩に背を預け、息を整える。
「シルヴァは鍛錬しないの?」
「しています。ただ、あなたとは種類が違います」
シルヴァが書物を軽く持ち上げた。
「これが私の鍛錬です」
「それって……読んでるだけ?」
「組んで、解いて、また組む。あなたが拳で繰り返しているのと、同じことです」
セラは少し考えた。
「確かに」
シルヴァが岩の端に腰を下ろした。書物を膝に置き、頁を開く。セラはその隣に座った。少し間があった。
「シルヴァ」
「何ですか」
「魔術って、楽しい?」
シルヴァの指が、頁の上で止まった。
「……楽しい、という感覚とは少し違います」
「じゃあ何?」
「正しく組めた時、気持ちがいい。それだけです」
「それって楽しいってことじゃない?」
シルヴァが少し黙った。
「……そうかもしれません」
セラが笑った。声には出さず、口の端だけで。
「私も同じだ。ちゃんと当たった時、気持ちいい」
「あなたの場合は、もう少し豪快そうですが」
「豪快で悪い?」
「悪くはないです」
夕風が一度、二人の間を通り過ぎた。木々がざわりと揺れ、橙の光が揺れた。セラは空を見上げた。
「ねえ、シルヴァ」
「はい」
「ゼノ様のこと、すごいと思う?」
シルヴァはすぐには答えなかった。頁に視線を落としたまま、少し間を置いた。
「……思います」
「どんなところが?」
「見える、というところです」
「見える?」
「私が何者かを、最初から見ていた。私自身が信じていなかったものを」
セラは黙って聞いていた。
「それは、普通のことではありません」
「うん」
セラが膝を抱えた。
「私もそうだった。魔力がないって言われ続けて、自分でも信じてた。でもゼノ様は違った」
「……ええ」
「だから、強くなりたいんだよね。ゼノ様が見てくれたものを、ちゃんと証明したくて」
シルヴァが顔を上げた。セラを見た。
「同じです」
短い言葉だった。だがセラには、それで十分だった。
◇◇◇
焚き火は落ち着いた高さで燃えていた。香りが少し甘く、煙が白く細い。空は雲が薄く広がり、星はぼんやりとにじんで見えた。
シルヴァは焚き火の傍に座っていた。
向かいにセラがいる。隣にカイロがいる。少し離れた場所に、ゼノ様がいる。四人がそれぞれの場所に落ち着いて、炎を囲んでいた。
「シルヴァ、さっきの話の続きしていい?」
セラが言った。
「さっきの?」
「ゼノ様がすごいって話」
カイロが静かに口を開いた。
「……俺も同じことを考えていた」
セラが驚いた顔でカイロを見た。
「カイロも?」
「ああ」
「言ってくれればよかったのに」
「言う必要がなかった」
セラが少し口を尖らせた。シルヴァは二人のやり取りを見ていた。こういう時、この二人は妙に息が合っている。言葉は噛み合わないが、向いている方向は同じだ。
「シルヴァはどう思う? 今ここにいることを」
セラが聞いた。
シルヴァは炎を見た。赤い芯が、静かに脈打っている。
「……不思議です」
「不思議?」
「幽閉施設にいた頃の私には、想像できなかった。こういう場所にいることが」
カイロが短く息を吐いた。
「……俺もだ」
沈黙が落ちた。炎が低く爆ぜ、火の粉が一つ上がった。
「……私も」
セラの声は、いつもより小さかった。
「ゼノ様に会う前、もう終わりだって思ってた……」
誰も笑わなかった。誰も否定しなかった。
炎が低く爆ぜた。火の粉が一つ、夜に向かって上がり、消えた。
◇◇◇
しばらくして、ゼノリスは顔を上げた。
木々の梢の向こうに、夜空が広がっていた。雲の切れ間から、星がいくつか見えている。滲んだ光が、静かに瞬いていた。
三人の声が、焚き火の傍で続いている。セラが何かを言い、カイロが短く返す。シルヴァが静かに言葉を添える。それがまた続いていく。
ゼノリスは三人を見た。
一人ずつ、ここへ来た。それぞれの場所から、それぞれの事情を抱えて。今ここに四人がいる。それだけのことが、ゼノリスには重かった。
「始めましょう」
三人が顔を向けた。
「急ぎません。ただ、一歩ずつ進めます」
セラが頷いた。力強く、迷いなく。
カイロが短く答えた。
「……承知しました」
シルヴァは炎を見たまま、静かに口を開いた。
「はい」
それだけだった。だがその一言に、ゼノリスは三人分の重みを聞いた。
炎が、ゆっくりと揺れた。夜風が梢を渡り、また静かになった。




