第46話:「シルヴァ、☆4到達」
瞬く間に十数日が経過していた。
朝の森は冷えていた。夜の湿気が木々の幹に白く滲み、指で触れれば水が滴るほどだ。葉の落ちた枝の間から差し込む光は細く、地面に届く頃には力を失っている。どこかで鳥が鳴いた。一度だけ鳴いて、また静かになった。
ゼノリスは大岩に背を預け、腕を組んで三人を見ていた。
カイロは木々の間に消えていた。気配はある。薄い糸のように、影の奥でかろうじて息をしている。訓練ではなく、それが彼の在り方だ。
セラは岩場の端で体を動かしていた。助走をつけて跳び、着地し、また踏み切る。ドン、ドン、と地面が鈍く響く。声は出さない。ただ繰り返す。
シルヴァは一人、開けた場所に立っていた。
両足を肩幅に開き、左手を胸の前に。右手の指先が微かに動いている。何も飛ばしていない。何も燃やしていない。ただ術式を組み、解き、また組む。それだけを、夜明けから繰り返している。
指先が止まった。
シルヴァは目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。吐いた息が白く広がり、朝の空気に溶けていく。それからまた指を動かし始めた。
ゼノリスは視線を動かさなかった。
十数日前と、何かが違う。術式の組み方ではない。指の動きでも、姿勢でもない。もっと根本的な何かだ。術式が『形になっている』というより、術式が『シルヴァを通って出てくる』ようになっていた。その差は見た目ではわからない。だがゼノリスには、それが確かにわかった。
◇◇◇
ゼノリスは岩を離れ、シルヴァのいる場所へ足を向けた。
朝露を含んだ下草が靴底に触れる。踏むたびにわずかな湿り気が伝わってきた。シルヴァは振り返らなかった。足音で気づいているはずだが、術式を解かない。
シルヴァの少し手前で、ゼノリスは足を止めた。
ゆっくりと、視線を向ける。意識を細く絞り、奥へ通す。黄金の瞳が、静かに深みを増した色に変わる。
【至極の理】が応えた。
シルヴァの頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
ゼノリスは動かなかった。
一瞬だけ、眼を細める。それだけだった。
☆4。
ついこの間まで、☆3だった。着実に、しかし静かに、シルヴァの本質が積み上がっていた。【真理の眼】が、術式の繰り返しの中で確かに研ぎ澄まされている。焦りも、気負いも、驕りもない積み上げ方だ。それがそのまま、星に出ていた。
権能を収めた。
ゼノリスは一歩、前に進んだ。
「シルヴァ」
シルヴァの指先が止まった。術式の光が、薄く揺れて消えた。振り返らずに、「はい」と短く答える。
「少し、よろしいですか」
シルヴァがゆっくりと向き直った。銀に近い淡い髪が、朝の光を受けて静かに光る。その瞳はいつも通り、感情を測らせない静けさを持っていた。
「あなたは、☆4に到達しました」
言葉が落ちた。
シルヴァは動かなかった。
一秒。二秒。三秒。
右手が、ゆっくりと下がった。胸の前で組もうとして、途中で止まった。指先が、自分でも気づいていないように、外套の端をわずかに掴んだ。
シルヴァの目が、ゼノリスを見た。
いつもより、わずかに見開かれていた。
シルヴァは視線をゼノリスから外さなかった。何かを確かめるように、あるいは言葉の重さを測るように、ただゼノリスの目を見ていた。
「……私は」
声が、ほんの少し低くなった。
「……変わったのですね、私は
」
「ええ」
ゼノリスは頷いた。
「あなたの【真理の眼】は、術式を読む速度も、組み直す精度も。あなたは確実に変わりました」
シルヴァはしばらく、黙っていた。
それから、一度だけ瞬きをした。視線が、ほんの一瞬だけ下へ向いた。自分の指先を見た。指先はほとんど動いていなかった。ただ外套の端を、まだわずかに握っていた。
気づいたように、指が開いた。
「……ありがとうございます」
静かな声だった。感謝でも、喜びでもなく、ただ事実を受け取ったような言い方だった。だがゼノリスは、その声の奥に何かが混じっているのを聞いた。言葉になる前の、もっと奥の部分だ。
木々の向こうで、セラの着地音がした。
それから、ぴたりと止まった。
◇◇◇
木々の向こうで、セラの着地音がした。
それから、ぴたりと止まった。
少しして、草を踏む音が近づいてきた。遠慮のない足音だ。カイロの気配も、影の奥でわずかに動いた。
「ゼノ様、シルヴァ、何かありました?」
セラが木々の間から顔を出した。頬に汗が光り、袖がめくれたままになっている。目が、ゼノリスとシルヴァの間を素早く行き来した。
「シルヴァが、☆4に到達しました」
ゼノリスが告げた。
セラは一瞬、固まった。それから目を見開き、シルヴァを見た。
「……本当に?」
「ええ」
セラの顔が、ぱっと明るくなった。駆け寄ろうとして、半歩で止まった。シルヴァの表情を見て、何かを察したらしい。代わりに、両手を握りしめた。
「すごい。すごいじゃない、シルヴァ!」
シルヴァは小さく頷いた。
「……おかげさまで」
「おかげさまって何よ、自分で積み上げたんでしょ」
セラが少し眉を寄せた。シルヴァは答えなかった。ただもう一度、静かに頷いた。
木の陰から、カイロが現れた。音もなく、気配が薄いまま近づいてくる。セラとシルヴァを一瞥し、ゼノリスを見た。
「……☆4」
「そうです」
カイロは短く息を吐いた。それだけだった。シルヴァに視線を戻し、一度だけ頷く。言葉はなかった。だがその沈黙は、拒絶でも無関心でもなかった。
セラがカイロを見た。
「それだけ?」
「……十分だろ」
セラは少し考えて、「まあ、カイロらしいか」と呟いた。
◇◇◇
焚き火は音もなく、静かに燃えていた。乾いた枝がじりじりと熱を持ち、赤い芯が脈打つように明滅する。炎は小さく、風が来るたびに横へ流れては戻った。煙は真上に細く伸び、星の見えない夜空へ消えていく。
四人はそれぞれの場所に座っていた。
セラが木の枝を四本、折って並べた。そこに水を入れた革袋を傾け、粗末な器に注いでいく。
「水なのが残念だけど」
セラが器をシルヴァへ差し出した。シルヴァは両手で受け取り、少し間を置いてから口をつけた。
「……水で十分です」
「そう言うと思った」
セラが自分の器を持ち上げた。カイロへも無言で差し出す。カイロは一瞬だけ見て、受け取った。ゼノリスの分を最後に並べ、セラが正面を向いた。
「じゃあ、シルヴァの☆4到達を祝って」
誰も何も言わなかった。ただ四つの器が、静かに持ち上がった。
シルヴァは自分の器を見ていた。水面が、焚き火の光を受けて揺れている。
「……おかしいですね」
ぽつりと言った。
「何が?」
セラが聞いた。
「私には、もう無縁なものだと思っていました」
セラは少し黙った。それからカイロを見た。カイロは炎を見たまま動かない。
「私もそうだったよ」
セラが言った。声は、焚き火の熱が移ったかのように柔らかくなっている。
「最初にゼノ様に認められた時、どうしていいかわからなかった。……今もたまにそうなるけど」
シルヴァはセラを見た。少しの間、何かを考えるように視線を動かした。それから、また器に目を落とした。
「……そうですか」
「慣れるよ、少しずつ」
シルヴァは答えなかった。だが、器を持つ指先から、わずかに力が抜けた。
カイロが炎へ枝を一本くべた。火が一瞬高くなり、四人の顔を照らした。
◇◇◇
炎が落ち着いた頃、ゼノリスは口を開いた。
「少し、先の話をしてもよいですか?」
三人が顔を向けた。
「シルヴァが加わり、これで四人になりました」
ゼノリスは焚き火の向こうを見た。木々の暗がりの奥、その先にあるものを見るように。
「次は、魔王城を取り戻します」
静寂が落ちた。
セラが背筋を伸ばした。カイロの目が、わずかに細くなった。シルヴァは器を両手で包んだまま、ゼノリスを見つめた。
「準備が必要です。情報収集も、鍛錬も、まだ続けます。ですが――」
ゼノリスは三人を見た。
「皆さんと一緒に、取り戻しに行きます」
セラが短く息を吸った。
「当然です。ずっと待ってました」
カイロが静かに答えた。
「……承知しました」
シルヴァは一度だけ目を伏せた。それから顔を上げ、真っ直ぐゼノリスを見た。
「私も、参ります」
炎が、低く爆ぜた。
ゼノリスは三人の顔を見た。覚悟を決めた目が、こちらを見ている。
煙が夜の森へ溶け、やがて見えなくなった。




