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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第45話:「三人の連携訓練」

 朝の森に、靄がかかっていた。


 木々の根元から這い上がる白い靄が、膝の高さまで漂っている。足を踏み出すたびに靄が揺れ、踏んだ落ち葉の湿り気が靴底に伝わってきた。空気は冷たく、吸い込むと肺の奥がひりつく。


 ゼノリスは足を止めた。


 前方、二十歩ほどの距離に、岩盤が剥き出しになった低い崖がある。その手前に、木々の密度が下がった開けた一帯が広がっていた。


 風が変わった。


 魔物の臭いだ。厚みのある、油脂と体毛の混じった臭い。崖の向こうから、かすかに二つの気配が漂ってくる。今はまだ距離がある。


「今日はここで止まります」


 ゼノリスは振り返らずに告げた。


 背後で三人の足音が止まる。カイロが無言で周囲を一巡した気配がした。一瞬後、カイロの足音が、ごく静かに止まった。気配を殺したのではない。息を潜めて、崖の方角を向いた止まり方だ。感じ取っている。


「今日の訓練は実戦形式です」


 ゼノリスは三人に向き直った。


「この先に、おそらくキラーベアのつがいが棲みついています。討伐ではなく、連携の確認が目的です。役割は変わりません。カイロは影から動きを読む。セラは正面に立って引きつける。シルヴァは後方から支援です」


 セラが口を開いた。


「キラーベアって、スチール級でしたよね? 二頭同時ですか?」


「ええ」


「……了解です」


 セラは短く答えた。不安の色はない。むしろ、踵に力がこもるのが、土を踏みしめるわずかな沈み込みで見て取れた。


 カイロが静かに尋ねる。


「シルヴァへの脅威が増える配置になる。引きつけ役が一頭だと、もう一頭が自由に動く」


「その通りです。それが今日の課題です」


 ゼノリスは答えた。


 カイロは目を細め、一度だけ頷いた。それ以上は言わなかった。


 シルヴァが前に出た。


「術式の準備については、私が判断してもいいですか?」


「構いません」


 短いやり取りだった。三人はそれぞれの準備に入った。カイロが影の中へ沈んでいく。セラが肩を回し、足元を確かめる。


 シルヴァが目を閉じ、指先を微かに動かし、術式を編む予備動作に入った。


 ゼノリスは三人から少し距離を取り、崖際の大岩の傍らに立った。


◇◇◇


 先に動いたのは、カイロだった。


 気配が消えた。影の中に溶けるように、その姿が木々の間に消える。音もない。足音もない。ただ、いた場所の空気がわずかに薄くなった、という感覚だけが残った。


 しばらくして、靄の向こうで、何かが動いた。


 重い。地面を踏む足音が、岩盤を通じて足裏に伝わってくる。一定のリズムで近づいてくる。セラが姿勢を低くし、重心を前に移した。


 姿が見えた。


 岩陰から現れたのは、大きなキラーベアだった。肩までの高さが二メートルを超える。毛皮は黒みがかった褐色で、魔力を帯びてかすかに光沢がある。鼻先を上に向け、空気を嗅いでいた。目が細い。何かを察知している。


 もう一頭が、すぐ後ろに続いた。


 セラが前に出た。


「こっちだ!」


 地を蹴る音が響いた。セラが正面から一頭に向かい、岩を蹴って跳ぶ。一頭の注意が、完全にセラへ向いた。


 同時に、カイロから合図が来るはずだ。


 ……来なかった。


 シルヴァが術式を組み始めた瞬間、二頭目が動いた。セラとは逆方向へ、横に大きく回り込む。


 シルヴァの位置へ向いていた。


 術式が、崩れた。


 シルヴァが後退した。一歩、二歩。二頭目が加速する。爪が地面を抉り、土が飛んだ。


 セラが叫んだ。


「シルヴァ!」


 だが、セラは一頭目と組み合ったまま、振り返る余裕はなかった。援護を断たれたシルヴァは、やむなく後退する。霧散した術式を編み直す暇もなく、迫りくる二頭目との距離を保つことだけに全神経を注ぐ。


 影の中からカイロが現れた。二頭目の首元に短剣の柄頭を叩き込む。急所ではない。だが動きが一瞬止まった。


 その隙にシルヴァが術式を組み直し、小さな【火球】を目先に放った。二頭目が怯んで後退する。


 同じ頃、セラの拳が一頭目に入った。重い音が響き、一頭目が倒れた。


 森が静かになった。


 靄が、また低く漂い始めた。


 三人はそれぞれの場所に立っていた。誰も動いていない。荒い息が、白く漂う。


 ゼノリスは大岩の傍から歩み出た。


 討伐は完了している。三人に怪我はない。だが、今のは連携ではなかった。個々が動いて、個々が収拾した。それだけだ。


「休憩を取ってください」


 ゼノリスは告げた。


 セラが膝に手を置いた。カイロが腕を組み、目を伏せた。シルヴァが自分の指先を見た。指先は、少し震えていた。


 ゼノリスは三人が落ち着くのを待った。


「何が起きたか、整理しましょう」


 ゼノリスは静かに告げた。詰問ではない。確認だ。


「カイロ。二頭目が横に動いたのはいつですか」


 カイロが答えた。


「……セラが接触した直後」


「シルヴァへ伝えましたか」


「……間に合わなかった」


 一言だった。短い。だがそれ以上の説明をしなかったのは、言い訳ではなく、事実の確認だとわかった。


「シルヴァ。術式が崩れた理由は」


「合図がありませんでした。二頭目の位置が把握できていないまま展開に入ったため、後退を優先せざるを得なくなりました」


 淡々としていた。感情はない。ただ、事実を並べていた。


 ゼノリスは頷いた。


「連携が空転した原因は一つです。カイロからシルヴァへの情報が届かなかった。それだけです」


 セラが顔を上げた。


「私が引きつけるのが早すぎましたか?」


「いいえ。セラの動きは正しかった。問題は情報の経路です」


 セラは黙った。


 カイロとシルヴァが、一瞬だけ目を合わせた。言葉は交わさなかった。だが何かを確認した目だった。


 セラが言った。


「次はやれます」


 カイロが短く返した。


「……合図を変えればいい」


 シルヴァが頷いた。


 ゼノリスは三人を見た。


 怒りはない。焦りもない。ただ、次に向かっている。ゼノリスはそれを確認した。


「少し休んだら、もう一度行きます」


◇◇◇


 足元の枯れ葉が、靴底の下でぐずりと沈んだ。


 湿り気が増している。昼を過ぎ、靄が低く戻ってきた。木々の間を流れる空気が重く、肌に纏わりつく。


 四人は森の奥へ向かっていた。


 前を行くカイロの背が、ふと止まった。振り返らない。ただ、片手をわずかに上げた。


 全員が足を止めた。


 風が変わった。


 魔物の気配だ。今度は一頭。前方、木々が密になる手前あたりから漂ってくる。


 カイロが、ゆっくりと影の中へ沈んでいった。


 ゼノリスはシルヴァの隣に立ち、低く告げた。


「今度はカイロの合図を待ってください」


 シルヴァが小さく頷いた。セラが重心を落とし、前を向いた。


 静寂が、森に広がった。


◇◇◇


 術式の骨格が、頭の中にある。


 シルヴァは木の幹に背を預け、前方に意識を集めていた。風の向き、地面の振動、魔力の揺れ――感覚を広げて、カイロの気配を探す。影の中に溶けた彼の存在は、注意深く意識を向ければかろうじて掴める。薄い糸のような気配だ。


 前回は、それを掴む前に動いてしまった。


 術式の準備を始めた瞬間に、二頭目が横へ回り込んだ。骨格を組みかけたまま、後退を余儀なくされた。展開途中の術式を霧散させるのは、組み上げた後に解くより消耗が大きい。


 今度は待つ。


 少し先の茂みが、わずかに揺れた。


 同時に、右側の空気が二度、薄く揺れた。


 カイロだ。


 影に溶けたまま、気配を意図的に動かしている。


 一度目――右斜め前方。


 二度目――セラの方を向いた。


 それだけだ。言葉はない。音もない。だがシルヴァには、その意味がわかった。位置を伝えている。準備しろ、という合図だ。


 セラが前に出た。


「こっちだ!」


 地を蹴る音が響く。


 茂みが割れ、黒褐色の巨躯が姿を現した。


 肩までの高さが人の倍はある。魔力を帯びた毛皮が、鈍い光沢を放っている。キラーベアの視線が、正面から突っ込んでくるセラに吸い寄せられた。


 シルヴァは骨格を組んだ。


 詠唱はない。術式も使わない。圧縮、点火、放出――三つの節を指先の中で繋ぎ、魔力を通す。前回より速い。カイロの合図があった分、準備に入るのが一呼吸早かった。


 キラーベアがセラに向かって突進する。セラが横へ跳び、爪をいなしながら側面へ回り込んだ。体勢が崩れた一瞬、巨躯の鼻先がシルヴァの方を向いた。


 今だ。


 【火球】が、指先から放たれた。


 握りこぶし二つ分の炎が、まっすぐキラーベアの鼻先へ飛んだ。直撃した。


 キラーベアが仰け反った。鼻は魔物の急所だ。怯んで動きが止まる。その隙にセラが背後へ回り込み、首元へ拳を叩き込んだ。鈍い衝撃音が響き、キラーベアが膝をついた。もう一撃。巨体がドンと倒れた。


 森が静かになった。


 シルヴァは指先を見た。熱が残っている。前回と同じ熱だ。だが何かが違う。放った後の感覚が、違う。術式が途中で崩れなかった。骨格を最後まで保ったまま、放出まで繋げた。


 それだけのことだ。


 それだけのことが、前回はできなかった。


 セラが振り返った。


「……今の、よかったんじゃない?」


 シルヴァは短く答えた。


「合図があれば、できます」


 茂みの影からカイロが現れた。腕を組んだまま、シルヴァを一瞥した。何も言わなかった。だがその沈黙は、前回とは違う事はわかった。


◇◇◇


 焚き火が、低く燃えていた。


 乾いた枝が爆ぜる音が、断続的に森の静寂に混じる。煙が細く上がり、夜気に溶けていく。四人はそれぞれの場所に座っていた。


 セラが口を開いた。


「カイロの合図、あれどうやってるの? 気配しか感じなかったんだけど」


 カイロが短く答えた。


「影を薄くする。濃さで方向を伝える」


 セラが納得のいかない顔で返した。


「……それわかるの?」


 シルヴァが静かに返した。


「慣れれば、わかります」


「……慣れれば、か」


 セラはぽつりとこぼし、少し考える顔をして、膝を抱えた。


「もしかして私、今日動きすぎた?」


「いいえ」


 ゼノリスは告げた。


「セラの役割は引きつけることです。今日はそれができていた」


 セラが眉を寄せた。


「でも一回目、シルヴァに脅威が向いたのは」


「二頭目の動きをカイロが掴みきれなかった。セラの動きの問題ではありません」


 セラが少し黙った。それからカイロを見た。


「カイロは? 一回目、何が見えてた?」


 カイロが答えた。


「……二頭目が横へ回ったのは見えていた。伝える間がなかった」


 セラがカイロに向いた。


「次はどうする?」


 カイロが短く答えた。


「動く前に伝える。位置だけでいい」


 シルヴァが頷いた。


「それで十分です。展開に入れます」


 やり取りが、静かに止まった。


 焚き火が爆ぜた。炎が一瞬揺れ、三人の顔を照らした。


 ゼノリスは三人を見ていた。


 今日の二回目、三人の動きは噛み合っていた。完璧ではない。まだ荒い。カイロの合図は最低限で、セラの動きに迷いが一瞬あった。シルヴァの術式は正確だったが、もう一手早く展開できる余地がある。


 だが、一回目とは違った。


 個々が動いて個々が収拾した一回目と、三人の動きに一本の線が通った二回目。その差は小さいようで、大きい。


「今日はよくやりました」


 ゼノリスは告げた。


「三人の動きが、確かに変わりました。明日はもっと上手くやれます」


 セラが顔を上げた。


「当然です!」


 カイロが短く返した。


「……はい」


 シルヴァは炎を見たまま、静かに頷いた。


 焚き火が、また低く爆ぜた。煙が、夜の森に溶けていく。


 ゼノリスは炎の向こうに三人の顔を見た。一本の線が通り始めている。だが、この先に待つものは、キラーベアではない。



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