第44話:「魔術の才能」
数日が経っていた。
旧魔王領の森は、歩くたびに表情を変えた。密林のように枝が絡み合う場所があれば、古木が疎らに立ち並ぶ開けた場所もある。
足元は一定ではなく、岩盤が露出した固い地面と、落ち葉が厚く積もった柔らかい地面が交互に現れた。四人は朝に出発し、日が傾く前に野営地を決める。その繰り返しだった。
移動しながら、鍛錬は続いていた。
シルヴァの歩みは、出発した日より確実に安定していた。足首の軋みが消え、呼吸が乱れるまでの時間が延びた。術式の保持も、昨日は十五秒を超えた。小さな前進だ。だが、前進は前進だ。
ゼノリスは足を止めた。
「今日はここで少し時間を取ります」
開けた場所だった。頭上の枝が薄く、昼の光が地面に広く落ちている。風が通り、湿度が低い。術式を展開するには、悪くない場所だ。
カイロが周囲を一巡し、無言で頷いた。セラが荷を下ろし、近くの倒木に腰を据えた。
ゼノリスはシルヴァに向いた。
「シルヴァ、一つ聞かせてください。術式を組む時、あなたは何を見ていますか」
シルヴァは少し間を置いた。思考を整理する間だ。
「……構造です。術式の骨格と、魔力の流れる経路。そこに歪みがあれば、術式は崩れる」
「その通りです」
ゼノリスは頷いた。
「一つ、伝えておきたいことがあります」
シルヴァが、静かに顔を上げた。
「以前、あなたに『星が見える』と告げました。今日は、その内容を正確にお伝えします」
ゼノリスは続けた。
「あなたの現在の力は☆2。ただし、到達できる限界は☆6です。そして、あなたに宿る権能の名は――【真理の眼】」
シルヴァは、すぐには返さなかった。唇が、わずかに開いた。
「……☆6」
「ええ。そして【真理の眼】は、術式の本質を見抜く力です。魔術を構築する際、その本質を理解することで、詠唱を短縮し、効率を最大化できます。あなたが長年、無意識にやってきたことの、正体です」
シルヴァの目が、わずかに細くなった。
「……つまり、術式の骨格だけを見れば、外装は要らない、ということですか?」
ゼノリスが補足をした。
「正確には、詠唱や術式は『補助』です。術式の構造を頭の中で正確に組めるなら、外装なしで発動できる」
「詠唱は、術式の構築を補助するための手順……」
「そうです。本質が見えている者には、不要な工程です」
シルヴァは黙った。視線が、少し遠くなった。何かを内側で組み立てている目だ。ゼノリスは続きを待った。
「……聖教会や他の魔術師たちが、詠唱を省略できないのは」
「術式の構造が見えていないからです。手順を踏むことで、初めて結果を出せる。あなたとは、根本が違う」
シルヴァが、ゆっくりと息を吐いた。
納得した息だ。怒りでも驚きでもない。ただ、長年の疑問が一つ解けた時の、静かな息だ。
「……ずっと、なぜ私の術式が他の魔術師より少ない手順で組めるのか、わかりませんでした」
「それが、あなたの本質です」
シルヴァは少し間を置いた。
「聖教会では、詠唱を省略することを『手順の冒涜』と呼んでいました。術式の礼儀を欠く、と」
「礼儀ではなく、補助です。構造が見えている者が補助を使わないのは、冒涜でも省略でもない。ただ、必要がないだけです」
「……それを、誰も言わなかった」
ゼノリスは答えなかった。
答える必要がないと思った。誰も言わなかった、という事実は、今更覆せない。ただ、今ここで告げることはできる。
「あなたが正しかった。それだけです」
シルヴァが、ゼノリスを見た。幽閉施設で見せたのとは違う目だ。あの時は出口を探していた。今は、受け取ろうとしている。
風が一筋、木々の間を抜けた。頭上の葉が、さらさらと揺れた。
◇◇◇
「では、実践してみてください」
ゼノリスが告げた。
「詠唱なし。術式なし。骨格だけで、【火球】を一つ」
シルヴァが正面を向いた。
指先を持ち上げ、目を細める。視線が、空中の一点に定まった。
ゼノリスは【至極の理】を静かに動かした。
シルヴァの頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【真理の眼】
☆3。
数日前は☆2だった。
ゼノリスは目を細めた。
速い。想定より速い。
だが、驚きはなかった。むしろ、これが正しい速度だと確信があった。
「シルヴァ」
「……はい」
「あなたの星が、☆2から☆3に上がっています。数日で、です」
シルヴァの指先が、止まった。
「……数日で」
「ええ。あなたの場合、土台はとうの昔に完成していた。呪印が封じていたのは魔力の流れだけで、術式への理解と知識は失われていなかった。だから速い」
一瞬、シルヴァの動きが止まった。
止まった、と思った次の瞬間には、空中に小さな炎が灯っていた。
詠唱はなかった。術式も使っていない。指先から魔力が流れ、空中で骨格を結び、【火球】が形を成した。握りこぶし一つ分ほどの、小さな炎だ。整っている。歪みがない。熱が、空気を揺らした。
セラが倒木から身を乗り出した。
カイロが、腕を組んだまま目を細めた。
炎は三秒ほど保ち、静かに消えた。
シルヴァは指先を見た。それから、ゼノリスを見た。
「……確かに」
短く言った。それ以上は言わなかった。言葉にするより、指先の感覚の方が正確だった。
◇◇◇
術式が、見えた。
見える、というのは正確ではないかもしれない。目で捉えるというより、構造として理解する、という感覚に近い。
空気の中に、魔力の経路が透けて見える。骨格がある。節がある。どこに力を流せば形になるか、指先を動かす前から、わかった。
シルヴァは息を整えた。
呪印がある間は、ここで止まっていた。構造は見えていた。組み方もわかっていた。だが、魔力を流そうとするたびに、逆流が返ってきた。わかっているのに、できない。その隔たりが、長い間、胸の底にあった。
でも今は、ない。
指先に意識を集めた。魔力が、細い糸のように集まってくる。昨日より、集まりが速い。経路が、少し太くなっている。シルヴァはその感覚を確かめながら、骨格を組み始めた。
火球の構造は単純だ。圧縮、点火、放出。三つの節を繋ぎ、魔力を通す。詠唱は要らない。術式は要らない。骨格だけを、指先の中で組み上げる。
熱が、生まれた。
指先の数センチ先に、小さな炎が灯った。握りこぶし一つ分。整っている。歪みがない。シルヴァは炎を三秒保ち、静かに手放した。炎が、空気に溶けた。
もう一度。
今度は別の構造を試した。結界だ。火球より複雑な骨格を持つ。展開面の設定、魔力の定着、外圧への応答経路――三層の構造を、頭の中で同時に組む。
展開した。
シルヴァの前方に、薄い膜が一枚、広がった。透明だが、光の屈折でわずかに輪郭が見える。一秒、二秒、三秒――崩れない。外圧なしでの保持なら、まだ続けられる。シルヴァは十秒数えてから、静かに解いた。
「……すごい!」
セラの声が、後ろから飛んできた。
シルヴァは振り返らなかった。もう一度、指先の感覚を確かめていた。熱が残っている。術式を組んだ後の、魔力の余韻だ。
カイロの気配が、少し動いた。腕を組んだまま、目を細めているのが、気配でわかった。言葉はない。だがその沈黙は、否定ではない。
◇◇◇
「あなたは、間違いなく天才です」
ゼノ様の声が、正面から届いた。
シルヴァは顔を上げた。黄金の瞳が、真っすぐこちらを向いている。称賛の色がある。だが、それだけではない。確信の色だ。事実として告げる声だ。
シルヴァは、静かに首を振った。
「ありがとうございます。ですが――これは、ゼノ様のご指導があったからです」
「指導は道筋を示したに過ぎません」
ゼノ様は静かに返した。
「歩いたのは、あなた自身です」
シルヴァは、その言葉を受け取ろうとした。
けど、受け取れなかった。
天才、という言葉が、胸の中で滑った。指導のおかげ、という言葉の方が、ずっと手に取りやすかった。誰かの助けがあったから、という形の方が、自分の中に収まりやすかった。
長い間、自分の力を『正当に評価されない』ことに慣れてきた。だから今度は逆に、『正当に評価される』ことへの受け取り方を、どこかで失っていた。
指先が、まだ温かかった。
術式の余韻だ。自分が今、確かに組んだものの熱だ。それは消えない。誰かが組んだのではない。自分が組んだ。その事実だけは、否定できなかった。
――そうか。
胸の中で、何かが静かに落ちた。
受け取れなくてもいい。まだ、慣れなくていい。ただ、指先の熱だけは、本物だ。
「……精進します」
シルヴァは短く答えた。
ゼノ様が、かすかに目を細めた。それ以上は言わなかった。
後ろでセラが叫んでいる。
「精進します、じゃなくて、ありがとうございますでしょ!」
カイロが短く返した。
「……うるさい」
セラがまた叫んでいる。
「カイロだって何も言わなかったじゃない!」
カイロが答えた。
「……同じく」
シルヴァは、その声を背中で聞いていた。
口元が、かすかに動いた。笑った、と言えるほどではない。だが、動いた。
指先には、まだ術式の熱が残っていた。




