第43話:「シルヴァの鍛錬」
夜明けの光が、木々の間を細く差し込んでいた。
朝靄が地面に薄く漂い、落ち葉の湿気が足元から立ち上っている。鳥の声が遠く、高く、森の奥から届いた。一声、また一声。静かな朝だった。昨夜の追手の気配は、もうどこにもない。
シルヴァが隣に立った。外套の前を合わせ、朝の冷気に微かに肩をすくめている。だがすぐに姿勢を正した。
「ゼノ様。今日の行程は」
「歩きながら、お話しします」
ゼノリスは前を向いた。カイロがすでに先を歩き、道の安全を確かめている。セラが荷を背負い直しながら、あくびを一つこらえた。
「向かう先は旧魔王城です」
歩きながら、告げた。
「かつて私が治めていた城があります。現在どのような状態かは分かりません。ただ、まず目指すべき拠点はそこです」
シルヴァが短く頷いた。
「わかりました」
「そしてシルヴァ、移動の間に鍛錬を始めます」
「……移動しながら、ですか?」
「はい。追手もまだ来るかもしれません。できるだけ離れるのが得策でしょう。それに」
ゼノリスはシルヴァを横目で見た。
「歩くことそのものが、今のあなたには最初の訓練になります」
シルヴァは一瞬、目を細めた。反論ではない。自分の身体を確かめるような目だ。それから静かに、前を向いた。
「……はい。まずは身体を整えることから、ですね」
「そうです。焦る必要はありません」
四人は、旧魔王領の森を歩き始めた。
◇◇◇
木の根を二つ踏み越えた頃には、シルヴァは自分の身体の現状を正確に把握した。
足が重い。足首が、踏み込むたびに鈍く軋む。呼吸が、平地を歩くだけで浅くなる。こんなはずではなかった――いや、こうなるはずだった。脱出の時は忘れていたが、何年も、まともに歩いていなかった。あの部屋の石床を、行ったり来たりするだけだった。それが身体に刻まれている。
シルヴァは表情を動かさなかった。
足を止めなかった。ただ、一歩ずつ、正確に地面を踏んだ。倒木を踏み越えるとき、膝が思ったより、上がらなかった。木の根が張り出した段差で、一瞬だけよろめき、すぐに体勢を戻した。誰かに見られていたかどうかは、確かめなかった。
「シルヴァ」
ゼノ様の声が、隣から届いた。
「術式を一つ、組んでみてください。小さなものでいい。展開はしなくていい」
シルヴァは右手の指先に意識を向けた。
魔力が集まる。昨夜確かめた感覚だ。逆流しない。頭に返ってこない。そこは変わっていない。指先の中で、術式の骨格を組み始めた。火属性の基礎構造――最も単純な、火を灯す術式の輪郭だ。
組めた。
整っている。歪みはない。だが――
術式を保持しようとした瞬間、魔力がほどけた。
糸が切れるような感覚ではない。ただ、維持するための力が続かなかった。魔力そのものは戻っている。だが、それを扱う勘が落ちている。長年使わなかった筋が、衰えているように。魔術師にとっての魔力操作の精度は、訓練によって維持されるものだ。その基礎が、幽閉の間に削られていた。
構造として理解した。
理解しても、苛立ちは消えなかった。シルヴァはその苛立ちを、表情の外に置いたまま、もう一度術式を組んだ。今度は、より小さく。より単純に。骨格だけを、最低限の構造で。
保った。
三秒。五秒。七秒。
また、ほどけた。
「今のを、十回繰り返してください。歩きながらで構いません」
ゼノ様の声は静かだった。責めていない。ただ、次の指示を告げる声だ。
シルヴァは頷き、歩きながら術式を組み始めた。
足が重い。呼吸が浅い。それでも指先は動かし続けた。組む、保つ、ほどける。また組む。木の根を踏み越えながら。朝靄の中を進みながら。一回、二回、三回――
五回目を終えた頃、膝が一瞬だけ笑った。
シルヴァは足を止めなかった。六回目を組み始めた。指先に意識を集中させると、足の重さが少しだけ遠のいた。それが利点か欠点かは、今は考えなかった。
十回、終わった。
「今日はここまでにしましょう」
ゼノ様の声が届いた瞬間、シルヴァは自分の肩から、何かが抜けるのを感じた。声には出さなかった。ただ、一度だけ深く息を吐いた。
朝の森が、静かに続いていた。
◇◇◇
シルヴァの背中が、木々の間に見えた。
ゼノ様の隣を、真っすぐ歩いている。歩幅は小さい。それでも、足を止めない。倒木を踏み越えるとき、一瞬だけ膝が揺れた。セラはそれを見た。シルヴァは顔を動かさなかった。前を向いたまま、次の一歩を踏み出した。
セラは視線を前に戻した。
「……ねえ、カイロ」
隣を歩くカイロが、わずかに顔を向けた。返事はない。それが「聞いている」という意味だと、もう知っていた。
「シルヴァって、すごいよね」
「……何が?」
「足、きつそうなのに。顔に出さないじゃない」
カイロは少し間を置いた。
「……あの方も、俺たちと同じだ」
ぽつりと、呟くように言った。セラはその言葉を、胸の中で転がした。
同じ。
そうだ。シルヴァも、ゼノ様に助けてもらうまでは――捨てられていた側だ。異端者と呼ばれ、呪印を刻まれ、地下に閉じ込められていた。それでも曲げなかったものがあって、ゼノ様はその本質を見た。
「うん」
セラは答えた。
「みんな、ゼノ様に救われた」
カイロが何も言わなかった。でも、それでいい、とセラは思った。
セラは自分の右手を、一度だけ握った。この拳を、初めて『価値がある』と言われた日のことを思い出した。泥水の匂い。雨の音。傘の感触。魔力がないだけで、ゴミと呼ばれ続けた日々が、あの一言で塗り替わった。
シルヴァにも、そういう瞬間があったのだろう。
セラは前を向いた。シルヴァの背中が、まだ真っすぐだった。
◇◇◇
木々の梢の間から見えた空が、いつの間にか群青に沈んでいた。
四人は大きな岩の根元に野営地を作った。カイロが枯れ枝を集め、セラが火を起こした。炎が小さく弾け、橙色の光が岩壁に揺れた。湿った土の匂いに、木の燃える香りが混ざっていく。夜の森は静かで、遠くで梟が一声鳴いた。
ゼノリスは焚き火を挟んでシルヴァの正面に座った。カイロは少し引いた位置で膝を立て、炎を見ている。セラが焚き火の横に胡坐をかき、両手を膝に置いた。
「今日の鍛錬について、話しましょう」
ゼノリスが口を開いた。シルヴァが顔を上げる。
「まず、歩行については問題ありません。長期の幽閉を経た後としては、十分な水準です」
「……ですが、体力の低下は想定以上でした」
シルヴァが先に言った。事実の整理をする声だ。
「術式の保持も、七秒が限界でした。以前なら、あの程度の構造は無意識で維持できていた」
「はい。ただ」
ゼノリスは静かに続けた。
「魔術の感覚そのものは、完全に戻っています。逆流がない。構造が組める。土台は揺らいでいない。あとは使う勘を、少しずつ取り戻すだけです」
シルヴァは炎を見た。しばらく黙ったのち、呟いた。
「……思ったより、落ちていました」
「焦る必要はありません」
ゼノリスの声は揺れなかった。
「あなたは確実に強くなります」
断言だった。決して励ましではない。ゼノリスが【至極の理】で見た事実として告げる声だった。シルヴァはその言葉を、すぐには返さなかった。炎が、風もないのに一度だけ揺れた。
「私もそうだった!」
セラの声が、夜の静けさを割った。
「最初、ゼノ様に助けてもらった時、私も全然だめで。走るだけで息切れして、何でも壊すし。でもゼノ様が『強くなる』って言ったから」
セラは膝の上の拳を、ぐっと握った。
「だから本当のことだって、私は知ってる。ゼノ様は嘘をつかないから!」
最後は少し大きくなった。カイロが横目でセラを見た。
「……声が大きい」
「あ、ごめん」
それからカイロは炎に視線を戻し、短く言った。
「……同じく」
それだけだった。それだけで十分だった。
シルヴァはセラを見た。それからカイロを見た。最後にゼノリスを見た。三人の顔が、炎の光の中にある。
何も言わなかった。
ただ、目元が、かすかに和らいだ。




