第4話:「捏造された歴史」
焚き火の光が、闇の中に揺れていた。
ゼノリスは足音を殺しながら、光の方へ近づいた。枯れ木の間を縫い、低い姿勢で灌木の陰に身を寄せる。
夜が来ていた。いつの間にか陽は落ち、月だけが枯れた森を青白く照らしている。
開けた場所に、キャンプがあった。焚き火を囲んで座る人影。酒瓶を回し、肉を焼き、上機嫌に笑い合っている。森を荒らしていた遠征隊だ。
焚き火の煙が風に乗って届いてくる。肉の焼ける匂い。酒の匂い。そして──彼らの声が、夜の静寂の中をはっきりと渡ってきた。
ゼノリスは木の幹に背を預けた。呼吸を浅くし、耳を澄ます。
稼ぎの自慢、酒の話、明日の予定──取るに足らない雑談が続く。ゼノリスは黙って聞いていた。
やがて、会話の空気が変わった。
◇◇◇
「全部、勇者様のおかげだよな」
「そうそう。勇者様が魔王を倒してくれたおかげで、俺たちはこうして安全に稼げる」
――勇者。
ゼノリスは、その名を聞いて目を細めた。
「勇者様ってのは、本当に凄いよな」
若い隊員が、感心したように言った。
「凄いなんてもんじゃねぇ。あの方は、一人で魔王に立ち向かったんだぞ」
「一人で? 嘘だろ?」
「嘘じゃねぇよ。『勇者は単身で魔王城に乗り込み、聖剣の一閃で暴虐の魔王を討ち果たした』って歌姫様が歌ってんだよ」
ゼノリスの呼吸が止まった。
「で、その後がまた傑作なんだよ」
「何だよ、教えろよ」
「魔王が倒される直前──泣いて命乞いしたんだとよ。『人族にしてくれ、助けてくれ』って」
男たちが一斉に笑った。
ゼノリスは木の幹に額を押し当てた。冷たい樹皮が額の皮膚に食い込む。
聖剣の一閃──嘘だ。
数千の命を糧にした禁忌の呪毒で動けなくなった体を、軍勢でなぶり倒したのが真実だ。
単身で乗り込んだ──嘘だ。
パーティーを組み、軍勢を率い、最初から集団戦を仕掛けてきたのが真実だ。
そして命乞い──これが、最大の嘘だ。
膝をつき、血を吐きながらも、私は最後まで勇者を睨みつけていた。一言も、乞わなかった。
だが世界は、勇者を信じている。真実ではなく、勇者が書かせた物語を。
◇◇◇
「なぁ、魔王ってどんな奴だったんだ?」
若い隊員が尋ねた。
「ああ、それがさ」
リーダー格らしき男が、酒を一口飲んでから言った。
「実は、大したことなかったらしいぜ」
「え? 魔王だろ?」
「そうなんだが……魔王、命乞いしたんだと」
一瞬、静寂が訪れた。
そして、遠征隊員たちが一斉に笑い出した。
「命乞い? 魔王が?」
「マジかよ! 笑えるな!」
ゼノリスの手が、震えた。
リーダー格の男が、笑いながら続ける。
「しかもさ」
「魔王が命乞いした後、魔王軍は総崩れになったんだとよ。大将が腰抜けだと知って、戦意を失ったんだろうな」
「そりゃそうだろ。あんな主に命を懸ける奴はいねぇよ」
「『腰抜けに仕えた間抜けども』ってわけだ!」
焚き火の向こうで、男たちが腹を抱えている。
ゼノリスの視界が、赤く染まった。
──総崩れだと?
私は、あの場で意識を失った。部下たちがどう戦い、どう死んだのか、私は知らない。知る術がなかった。
だが、一つだけ、確かなことがある。
彼らは、私を信じていた。出陣前、彼らは私にこう言った。『俺たちの魔王は、最後の一瞬まで俺たちの誇りだ』と。
その忠義を──『腰抜けに仕えた間抜け』と嘲笑うのか。
ゼノリスの爪が、掌の皮膚を破った。温かいものが指の間を流れる。
私の命乞いが嘘であるように、彼らの『総崩れ』も嘘だろう。勇者は私の名誉だけでなく、死者たちの名誉まで踏みにじっている。
私が傲慢だったことは事実だ。嘲笑されても仕方がない部分はある。
だが──死んだ者たちの誇りまで嘘で汚すことは、絶対に許さない。
◇◇◇
「魔王なんて、所詮はそんなもんだったんだよ」
リーダー格の男が、酒を飲み干しながら言った。
「弱くて、情けなくて、腰抜けだった」
「『腰抜け魔王』ってわけだ!」
「ぴったりだな!」
笑い声が夜の森に響き渡る。
ゼノリスは──立ち上がりかけた。
木陰から飛び出し、彼らの前に立ち、真実を叫ぼうとした。この体に残る力など知ったことか。嘘を──嘘を、許すわけには──
足が、もつれた。
枯渇した体が言うことを聞かず、膝が折れ、地面に手をついた。乾いた土の感触が掌に広がる。
──駄目だ。
今、姿を現せば殺される。そうなれば、真実は永遠に埋もれる。部下たちの名誉を晴らす者は、この世界のどこにもいなくなる。
ゼノリスは、震える腕で体を支え、再び木陰に身を沈めた。
歯の奥から、低い音が漏れた。呻きとも、唸りとも、怒りとも、悲しみともつかない音。
風が吹いた。焚き火の炎が揺れ、男たちの影が地面に伸びる。
やがて、男たちは一人、また一人と横になり始めた。焚き火の勢いが弱まり、森が再び闇に沈んでいく。
ゼノリスは、音を殺して木陰から離れた。
笑い声が遠ざかる。やがて、完全な静寂が戻った。
月明かりの下、ゼノリスは森の奥へ向かった。体が軋む。空腹と疲労が限界に近い。だが、足は止められなかった。
勇者が書かせた嘘が、組織的に世界に浸透している。遠征隊の末端にまで行き届いた捏造。これは一人の嘘つきの問題ではない。もっと大きな──構造的な何かが、この世界を覆っている。
ゼノリスは足を止めた。
月明かりに照らされた地面に、何かがある。
焚き火の跡だ。ここにも、誰かがいた。だが、遠征隊のキャンプとは違う。火の跡は小さく、周囲には争った形跡がある。地面が掘り返され、何かが引きずられた跡が、闇の奥へと続いていた。
そして──地面に散らばった紙片。
ゼノリスは、一枚を拾い上げた。月明かりに翳す。
文字が記されている。公的な書式。印章。
──何だ、これは。




