第3話:「平和の名の下に」
悲鳴が聞こえた。
甲高く、細い──魔物の声だ。
ゼノリスは足を止めた。遠征隊の後を追ううちに、森はさらに奥へと続いていた。枯れ木の密度が増し、空が見えないほど灰色の枝が絡み合っている。
悲鳴は、その枝の向こうから聞こえてきた。
ゼノリスは気配を殺したまま、音の方向へ近づいた。枯れ木の隙間から覗くと──別の一団がいた。先ほどの遠征隊とは装備が違う。数も多い。統率された動きからして、別の遠征隊だ。
そして、その足元に──小さな影があった。
魔物だ。
体長は人の腰ほどもない、草食の小型魔物。かつてこの森で穏やかに暮らしていた種だ。傷ついた体で、必死に茂みへと逃げ込もうとしている。
しかし、遠征隊はそれを許さなかった。
「逃がすな! 囲め!」
遠征隊の一人が叫ぶ。他の隊員たちが素早く散開し、魔物の逃げ道を塞いだ。
魔物は茂みの前で立ち止まった。周囲を人族に囲まれ、行き場を失っている。小さな体を震わせながら、威嚇するように鳴き声を上げた。
だが、遠征隊員たちは笑っている。
「おいおい、威嚇してるぜ」
「可愛いもんだな。さっさと仕留めちまおう」
剣が振り下ろされた。
魔物の悲鳴が、森に響く。短く、鋭い──そして、途切れた。
ゼノリスは動けなかった。
動かなかったのではない。動けなかったのだ。魔力があれば。かつての力が残っていれば。あの程度の人族など、指一本で──
──違う。
ゼノリスは自分の拳を見つめた。力の入らない、痩せ細った指。
かつての私なら、この森の全てを守れた。だがそれは、私が『守っていた』のではない。圧倒的な力で他者を寄せ付けなかった──それだけのことだ。力で支配していただけの私が、力を失った途端に何もできなくなっている。
これが、傲慢の代償か。
力でしか守れなかった者は、力を失えば何も守れない。
遠征隊の一人が、魔物の体から魔石を取り出している。小さな、光を失った魔石だ。
「これで銀貨一枚ってとこか」
「上出来だな。魔石一個でも稼げりゃ酒が飲める」
「楽な仕事だよな。魔王がいなくなってからは特にな」
彼らは笑いながら、魔石を袋に放り込んだ。
血の匂いが、風に乗って届いてくる。ゼノリスは木の幹に背を預けたまま、静かに目を閉じた。
――私の領土で、勝手なことを。
◇◇◇
血の匂いが、まだ鼻腔にこびりついている。
ゼノリスは遠征隊の後を追いながら、先ほど殺された魔物のことを考えていた。銀貨一枚。あの命の値段が、銀貨一枚だ。
やがて、遠征隊は開けた場所に出た。
ゼノリスは、息を呑んだ。
色とりどりの薬草が、一面に生えていた。枯死した森の中に、ここだけが奇跡のように緑を保っている。かつての森の豊かさの、最後の名残だ。
遠征隊が、その緑に群がった。
「おお、ここにまだあったか!」
「根こそぎ持っていこうぜ」
彼らは容赦なく薬草を引き抜いていく。根ごと、土ごと。再生の可能性など考えもせず、ただ目の前の利益だけを求めて。
一人の隊員が、若木の幹に手をかけた。
「この木の皮も売れるらしいぜ」
「マジか? じゃあ剥いでいこう」
ナイフが樹皮に食い込む。剥がれた樹皮が地面に落ちた。生々しい木肌が露わになり、樹液が滴り落ちる。
木が折れる音が響いた。
別の隊員が、邪魔だからという理由で若木を蹴り倒したのだ。まだ細い幹が、あっけなく折れる。
ゼノリスは、その様子を木陰から見つめていた。
これが、この森を枯れさせた原因の一つか。
魔王が消えた後、人族は好き放題に森を荒らしてきた。魔物を狩り、資源を略奪し、何も残さずに去っていく。
森が死に向かっているのは、ただ私がいなくなったからだけではない。
こうして、人族が森を食い潰しているからだ。
◇◇◇
遠征隊は、袋いっぱいに薬草と樹皮を詰め込むと、木陰で休憩を取り始めた。
彼らは地面に腰を下ろし、水筒を取り出して水を飲んでいる。疲れた様子はない。むしろ、上機嫌だ。
「今日はいい収穫だったな」
「ああ。ここが枯れ切る前にもう一回来たいところだ」
「まあ枯れたら別の森に行けばいい。人族の領土は広がる一方だ」
その言葉に、他の隊員たちも笑って頷いた。
「全部、勇者様のおかげだよな」
「ああ。あの方は一人で魔王に立ち向かったんだぞ。正々堂々と、正面からな」
「そうらしいな。魔王が命乞いしたって話、聞いたか?」
ゼノリスの呼吸が、止まった。
「ああ。『助けてくれ、許してくれ』って泣き喚いたんだろ? 魔王のくせに、みっともねぇよな」
「笑えるよな。あんだけ偉そうにしてたのに、最後は命乞いだぜ」
笑い声が、森に響く。
ゼノリスは、木の幹に爪を立てた。
命乞い。
また──その嘘か。
勇者の手は、ここまで伸びている。私の名誉を踏みにじるだけでなく、その嘘を世界中に流布しているのだ。遠征隊の末端にまで、作り上げた虚構が浸透している。
ゼノリスの黄金の瞳が、一瞬熱を帯びた。
至極の理が、反応している。彼らの言葉の中にある虚偽を感知している。
だが、今はまだ──何もできない。
ゼノリスは、静かに拳を握りしめた。
彼らは知らない。
この森が、かつてどれほど豊かだったか。
魔物たちが、どれほど穏やかに暮らしていたか。
私の力が、結果的にそれを守っていたということを。
そして今、その全てが失われようとしている。
勇者が作り上げた『平和』という名の略奪によって。
◇◇◇
やがて、遠征隊は立ち上がった。
「さて、そろそろ戻るか」
「ああ。これ以上は欲張っても仕方ねえ」
彼らは重そうな袋を担ぎ、森の出口へと向かっていく。笑い声を上げながら、まるで祭りの帰りのように。
やがて、遠征隊は立ち上がり、重い袋を担いで森の出口へ向かっていった。笑い声が遠ざかる。
静寂が戻った。
ゼノリスは木陰から出て、荒らされた大地を見つめた。根こそぎ引き抜かれた薬草の跡。樹皮を剥がされた若木。蹴り倒された幹。
そして──さっき殺された魔物が、もう片付けられることもなく、地面に転がっている。
ゼノリスは、その小さな亡骸の傍に膝をついた。
かつて、私はこの種の魔物を気にかけたことすらなかった。私の領土にいる小さな存在。それだけの認識だった。
今、この亡骸の前で、初めて思う。
守りたかった、と。
力があった頃には思いもしなかったことを、力を失って初めて思っている。
遅すぎる。遅すぎるが──
ゼノリスは立ち上がった。
命乞いした腰抜け。世界はそう信じている。私の真実も、この森の真実も、すべてが嘘の下に埋もれている。
ならば──この目で、暴くしかない。
ゼノリスは、遠征隊の去った方角を見据えた。追うのではない。もう、ただ見ているだけの追跡は終わりだ。
夜が近い。森の色が変わり始めている。
その闇の向こうに、焚き火の匂いが微かに漂っていた。




