第2話:「荒れ果てた森」
笑い声が、聞こえる。
遠い。だが、確かに──声だ。
ゼノリスは洞窟の出口に座り込んだまま、耳を澄ませた。
声はやがて風に紛れ、消えた。代わりに残ったのは、乾いた葉が擦れ合う音だけだった。
目の前に広がる光景を、改めて見つめる。
骨だ。
灰色に変色した木々が、まるで大地に突き立てられた骨のように立ち並んでいる。倒木が折り重なり、その隙間から枯れた草が力なく顔を覗かせていた。
かつての森は違った。
深緑が天を覆い、木漏れ日が地面に金の模様を描いていた。清らかな小川が流れ、色とりどりの花が咲き誇り──風は甘い花の香りを運んでいた。
それが今は、腐臭すら漂わない。腐る生命すら残っていないのだ。
ゼノリスは、ゆっくりと立ち上がった。
体は石のように重く、足元がふらつく。魔力が枯渇したままの体には、立ち上がることすら大きな負担だ。
だが、このまま地を這っているわけにはいかない。
世界がどう変わったのか。この目で確かめなければ。
ゼノリスは、荒れ果てた森の中へと足を踏み入れた。
枯れ果てた森を、ゆっくりと進む。
あの頃、私は圧倒的な力でこの領土を支配していた。
人族の軍勢が押し寄せても、私の力の前では霧のように消えた。誰も私の領土に踏み込むことはできなかった。結果として、森や魔物たちは安心して暮らしていた。
ゼノリスは、立ち止まった。
枯れた木の幹に手を触れた。樹皮はぼろぼろと崩れ、指先に灰のような粉が残った。
私は森を『守って』いたのではない。
ただ、ここは私の領土だと──そう思っていただけだ。森や魔物たちのことなど、気にかけたこともなかった。私が守ろうとしたのは、森でも魔物でもない。『私の支配下にある』という概念そのものだった。
それでも、結果的にここは守られていた。
傲慢な魔王の支配が、意図せず、誰かの居場所を作り出していた。
そして今──その『結果的な守り』すら、失われている。
指先に残った灰色の粉を、ゼノリスは見つめた。
もう傲慢にはならないと、あの洞窟で誓った。だが、傲慢でなくなったところで──もう遅いのではないか。
この森は、私の傲慢が殺した。その事実は、決意一つでは消せない。
足元で、枯れ枝が音を立てて折れた。乾いた音が、静まり返った森に響く。
ゼノリスは顔を上げた。ここで立ち止まるな。見ろ。目を逸らすな。これは、自分の傲慢が生んだ結果だ。
ゼノリスは歩みを止めた。
気配がある。
森の奥──茂みの陰に、何かが息を潜めている。魔物だ。小さな、弱い魔物。まだこの森に残っていたのか。
だが、その気配は震えていた。
かつてなら、この森の魔物たちは堂々と暮らしていた。魔王の領土にいるという事実が、彼らの安全を保証していた。怯える理由など、どこにもなかった。
それが──今は、茂みの奥で身を縮めている。
何を恐れている?
答えは、すぐに来た。
足音。複数。そして──笑い声。
人族だ。
ゼノリスは素早く木陰に身を隠した。足音が近づいてくる。複数人だ。武器が擦れ合う音、革靴が地面を踏みしめる音。
まだ戦える状態ではない。
魔力は枯渇している。体も万全ではない。この状態で遭遇すれば、勝てる保証はない。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
この体で見つかれば、終わりだ。魔力は枯渇し、剣もない。かつてなら片手で薙ぎ払えた人族の一団が、今の私にとっては致命的な脅威になり得る。
──惨めだな。
魔王と恐れられた私が、木の陰で息を潜めている。人族の足音に怯えている。いや、怯えているのではない。現実を正しく認識しているだけだ。力を失った今の私にできることは、この目で見て、この耳で聞くこと。それだけだ。
足音がさらに近づく。地面の枯れ葉を踏み砕く音が、一歩ごとに鮮明になっていく。
三人──いや、四人か。
ゼノリスは幹の影から僅かに首を傾け、視界の端で捉えた。革鎧に身を包んだ男たちが、肩に獲物を担いでいる。
獲物の正体は──魔物だった。まだ息がある。後ろ足が微かに痙攣している。しかし男たちは気にも留めず、無造作に引きずっていた。
ゼノリスの奥歯が、ぎりっと鳴った。
足音が近づいてくる。笑い声が聞こえた。
ゼノリスは木の幹に背を預け、息を殺した。
「なぁ、この森もだいぶ枯れてきたな」
「当然だろ。魔物も、薬草も、目に映るすべてを狩ってるんだからな」
「魔王が倒されて、この森も俺たちのものだ。好きに使えるぜ」
ゼノリスの瞳が、鋭く光った。
木陰から僅かに覗くと、武装した人族の姿が見えた。彼らは笑いながら、森を歩いている。詳細は見えないが、冒険者か遠征隊の類だろう。
魔王が倒されて、この森も俺たちのもの。
ゼノリスの指先が、木の幹に食い込んだ。
倒されて──か。
あの日、数千の命を糧にした禁忌の呪毒で動けなくなった私を、集団でなぶり殺しにしたことを、この世界では『倒した』と呼ぶのか。
そして、私の領土を──俺たちのもの、と。
人族の遠征隊が、ゼノリスの隠れる木の前を通り過ぎていく。彼らの笑い声が、徐々に遠ざかっていった。
やがて、足音も声も聞こえなくなった。
ゼノリスは木陰から出た。
遠征隊が去った方向を、じっと見つめる。枯れ果てた森の中を、彼らは自由に歩いていた。かつて私が支配していた領土を、今では人族が闊歩している。
やがて、足音も声も聞こえなくなった。
ゼノリスは木陰から出た。
遠征隊が去った方向を、じっと見つめる。枯れ果てた森の中を、彼らは笑いながら歩いていた。かつて私が支配していた領土を、今では人族が我が物顔で闊歩している。
ゼノリスは立ち上がった。
黄金の瞳が、遠征隊の消えた方角を射抜く。
……ここは、私の領土だ。
枯渇した体が軋みを上げる。だが、足は動いた。
ゼノリスは、遠征隊の後を追った。




