第37話:「幽閉施設の発見」
翌朝、三人は夜明けとともに歩き出した。
旧魔王領の森は、変わらず朽ちていた。
枯れ木の合間を縫うように足を進める。靴底が湿った土を踏むたびに、腐葉の匂いが立ち上がる。生命の匂いではない。何かが長い時間をかけて崩れていく、重くよどんだ匂いだ。
頭上では枝が風にきしみ、その音だけが森に響いていた。鳥の気配はない。虫の声もない。
霧が低く漂い、三人の足元を白く包んでいた。
どれほど歩いただろうか。
陽の光が真上に来る頃、木々の密度が変わった。
ゼノリスは歩みを止めた。
枯れ木の向こうに、石造りの壁が見える。
高い。城壁というほどではないが、飛び越えられる高さではない。
石は古く、表面が黒ずんでいた。壁の上部には篝火が等間隔に焚かれ、煤と脂の混じった重い煙が曇天へ細く溶けていく。煙の匂いが、じわりと鼻の奥に届いた。
壁の外周を黒い鎧の兵士が歩いている。
聖教会の紋章だ。
「……外周に八人います」
気配もなく、カイロがゼノリスの隣に立っていた。声は低く、息を潜めている。
「東に三、西に二、南に二、北に一。交代は二時間おきです。夜間は間隔が延びます」
ゼノリスは視線をカイロへ向けた。
「いつ確認を?」
「少し先を回りました」
淡々とした声だった。それが『先回り』で済む話ではないことを、ゼノリスは知っている。カイロがいつ離れ、いつ戻ったか、ゼノリスは気づかなかった。
「侵入は可能ですか?」
「可能です」
即答だった。
「壁の内側にも、同数以上はいるかと。ただ、夜になれば侵入は可能です。俺が外周を無力化してから、三人で壁を越える。施設内は俺が先導します」
ゼノリスは壁の向こうに目を凝らした。石造りの屋根が、壁の上に覗いている。窓は小さく、どれにも鉄格子が嵌っていた。光を遮るために作られた建物だ。
あの中にいる。
「セラ」
ゼノリスは振り返った。
セラが、真剣な表情で壁を見ている。拳を握り、唇をわずかに引き結んでいた。
「夜まで、ここで待機します」
セラが頷いた。
「はい」
カイロが小さく頷いた。
「……承知しました」
◇◇◇
夜が落ちた。
月は厚い雲に塞がれ、森は墨を流したように暗かった。
カイロは木陰から施設を眺めた。篝火の炎が風に揺れるたびに、石壁の影が伸び縮みする。橙色の光の端が届かない場所に、濃い闇が溜まっていた。
カイロは、静かに息を吐いた。
意識を落とす。
光ではなく、影を追う。壁の向こうの気配が輪郭を持ち始める。兵士の位置、歩く間隔、呼吸の深さ。それらが暗闇の中に浮かんでくる。
北側の一人が、あくびをした。
カイロは木陰を離れた。
音はない。足が地面を離れているわけではない。だが篝火の光が届かない。影と影の合間を縫って移動する。衣擦れひとつ立てずに、北側の兵士の背後へ近づく。
兵士が空を仰いだ、その瞬間。
カイロの指先が、首筋の急所へ吸い込まれた。
痛みはない。意識だけが、ゆっくりと沈む。崩れる体をカイロが支え、音もなく地面へ横たえた。
――まずは、一人。
東側へ移動する。三人が散らばっている。
連絡が届く前に処理する。それだけを考えた。仕事だ。感情を挟む場所はない。ゼノリス様が扉の前に立てる状況を作る、それだけが今夜の意味だ。
壁際を走る。石の冷たさが指先に伝わる。篝火と篝火の間、光の届かない帯を選んで進む。
二人目の兵士が壁の角で立ち止まり、空を眺めた。その首筋へ。
――二人。
三人目が仲間の方へ振り返った、その顎に手が触れた。
――三人。
西側へ回る。一人が欠伸をしながら歩いている。もう一人が壁に背を預けていた。
小石を拾い、西の壁へ向けて投げた。
カツン。
二人が同時に振り返る。その背後へ、両手が届いた。
――五人。
南側の二人は互いに向き合い、小声で話していた。一人に気づかれれば、もう一人が声を上げる。カイロは一瞬だけ足を止め、二人の呼吸のリズムを測った。片方が話し、片方が笑った、その刹那。
二手に分かれる隙がない。
石を二つ拾い、左右の壁へ同時に投げた。
二人が左右へ目を向けた、その間。
――六人。七人。
最後の一人は、壁の上の見張り台にいた。
カイロは壁面に手をかけた。指が石の縁を掴む。冷たく、ざらついた感触だ。音を殺して体を引き上げ、見張り台の縁へ指をかける。見張りが外の闇を眺めていた。
――八人。
外周の警備は終わった。
カイロは壁の上から下を見た。木陰の中に、ゼノリス様とセラの輪郭があった。ゼノリス様がこちらへ顔を向ける。カイロは短く頷いた。
◇◇◇
壁を越えた。
内側は、外よりも暗かった。
篝火の数が少ない。石畳が炎の光を鈍く跳ね返し、周囲に薄い橙色の帯を作っている。中央に大きな石造りの棟、その周囲に小さな附属棟が並んでいた。どの窓にも鉄格子が嵌り、光は漏れていない。
ゼノリスは敷地を見渡した。
石と湿気の匂いが、鼻の奥に張り付く。長い時間、風を遮られた場所の、よどんだ匂いだ。どこかで水が滴る音がする。規則的で冷たい音だ。
「内側に三人います。今は中央棟の中。巡回は三〇分おきです」
カイロが耳元近くで告げた。
「案内します」
三人は建物の壁際を進んだ。石畳の上を、呼吸を抑えて歩く。足音を殺すほどに、水の滴る音が大きく聞こえた。中央棟の壁に沿って裏へ回ると、小さな鉄の扉があった。南京錠がかかっている。
カイロが細い道具を取り出し、錠前へ差し込んだ。数秒も経たないうちに、カチリと音がした。
扉が開く。
扉の先は廊下だった。
幅が狭い。大人二人が並べば肩が触れる。天井は低く、壁に松明が取り付けられていた。炎がわずかに揺れるたびに、影が壁を流れていく。
左右に鉄の扉が並んでいる。どれも頑丈で、鍵がかかっていた。扉の下の隙間から、光は漏れていない。
ゼノリスは足を進めながら、廊下の空気を感じた。
冷たい。ただ冷たいのではない。長い時間、ここに人が閉じ込められてきた。その痕跡が、石の壁に染み込んでいるような、重さがある。靴底から這い上がってくる冷気が、足首を包んでいく。
松明の間隔が、奥へ行くほど開いていく。
闇が濃くなる。
廊下の突き当たりの手前、最後の扉の前でカイロが足を止めた。他の扉と同じ鉄製だ。
カイロがゼノリスを見た。
「……この部屋です」
ゼノリスは扉の前に立った。
耳を澄ます。
かすかな気配がある。息づかいとも違う。もっと静かな、もっと深いところにあるものだ。長い時間をひとりで過ごしてきた者だけが持つような、静謐な重さがそこにあった。
ゼノリスは扉に手をかけた。
「……ここにいます」




