第38話:「異端の魔術師」
扉が、また軋んだ。
シルヴァは頁を繰る手を止めなかった。
一日に二度。決まった時刻に、見回りの兵士が扉を叩く。最初の頃は顔を上げていた。言葉をかけたこともあった。だが兵士たちは何も応えない。確認だけして、去っていく。今は顔を上げない。音が通り過ぎるのを、ただ待つだけだ。
この部屋は狭い。
石造りの四方の壁。天井に近い位置に、鉄格子の嵌った小窓がひとつ。日中は、そこから細い光の筋が差し込む。
朝は東から、午後は角度が変わる。その動きだけで、時刻を測っていた。夜は、壁に取り付けられた燭台の炎だけが頼りだ。炎が揺れるたびに、影が壁を流れる。
石床は冷たい。
長い時間をここで過ごして、シルヴァはもう慣れた。慣れることしかできなかった。床から這い上がる冷気が、足の裏から膝、腰へと伝わってくる。冬の夜は特に酷い。
本だけが、残っていた。
聖教会が差し入れた書物ではない。幽閉される前、最後に手に取った術式の研究書だ。頁の端が黄ばみ、表紙の革が乾いてひび割れている。何百回読んだかわからない。もう内容はすべて頭に入っている。それでも手放せなかった。
これを開いている間だけは、まだ自分が自分でいられる気がした。
かつては、この一頁一頁に疑問を書き込んでいた。術式の構造に矛盾を見つけるたびに、余白へ書き殴った。聖教会の鑑定に潜む矛盾を、指先が震えるほどの興奮で記録した。里の長老たちに笑われても、気にしなかった。真実は、感情で変わるものではない。
あの頃の自分が、今は遠い。
矛盾を指摘した。正しい手順で、正しい論拠を揃えて。何度も。
結果は、これだ。
シルヴァは視線を頁に落としたまま、耳を澄ませた。水の滴る音がする。どこかの壁の裏で、一定の間隔を刻み続けている。あの音を、もう何年分、聞いているだろう。
扉の軋む音が、また聞こえた。
今日はいつもより早い。シルヴァは頁から目を離さなかった。
金属が擦れる音。鍵が回っている。
また何かの確認か。シルヴァは書物の頁を、もう一度繰った。
扉が開き、足音が聞こえた。
いつもと違う。兵士の靴底が石畳を叩く重い音ではない。もっと静かな、だが確かな足音だ。シルヴァは顔を上げた。
見知らぬ男が、扉の前に立っていた。
◇◇◇
部屋の中に、女性が座っていた。
ゼノリスは足を止めた。
燭台の炎が揺れている。その橙色の光の中に、銀に近い淡い髪が浮かんでいた。すらりとした姿勢で椅子に座り、膝の上には古い書物が開いている。背筋が真っすぐだ。長い幽閉の中でも、その姿勢だけは崩していないのだろう。
顔がこちらを向いた。
瞬きがない。
構造を透かし見るような目だ。感情を映していない、というのではない。感情を映すことを、とうの昔にやめた目だ。その静けさは、諦めではなく、長い時間をかけて積み上げた鎧のようだった。
ゼノリスは視線を、その目の縁へ移した。
かすかに、痕がある。両目の縁を縁取るように刻まれた、古い傷のような痕。一度見れば、わかる。拷問用の呪印の跡だ。
胸の奥で、静かに何かが締まった。
この女性が、聖教会に沈黙を強要され、ここへ閉じ込められた者か。
部屋の中の空気が、重かった。石と湿気の匂い。長い時間、風を遮られた場所の匂いだ。小窓の鉄格子が、燭台の光を細く反射している。壁には何もない。飾りも、記録も、何も。あるのは書物と、椅子と、この女性だけだ。
「……突然、失礼します」
ゼノリスは静かに口を開いた。
「あなたを、救出しに来ました」
女性は何も言わなかった。
ただ、本を閉じこちらを見ている。その目の奥に、一瞬だけ何かが揺れた。驚きでも、喜びでもない。もっと複雑な、すぐには名前をつけられないものだ。
やがて、彼女は口を開いた。
「……どなたですか?」
声は低く、端的だった。だがその平静さの奥に、ゼノリスは何かを感じた。長い時間をかけて、慎重に積み上げられた平静さだ。
◇◇◇
救出、と男は言った。
シルヴァは書物を閉じた。膝の上で、両手をその表紙の上に置く。心臓が、わずかに速くなっている。それを悟られないよう、ゆっくりと息を吐いた。
その言葉を、頭の中で解体した。
救出。
この場所から出る。
聖教会の管理から離れる。
外へ行く。
……なぜ。誰が。何のために。
男の顔を見た。黄金の瞳だ。穏やかで、だが芯に何かある。
武器を構えているわけでも、威圧しているわけでもない。ただ、そこに立っている。扉の向こうに、二人の気配が混じっている。
シルヴァは男の立ち姿を、静かに観察した。
敵意はない。恐怖を煽ろうともしていない。それだけはわかった。だが、それがかえって判断を難しくした。敵意のある相手なら、構造が単純だ。この男は、そうではない。
ゆっくりと、息を整えた。
『救出』という言葉が、なぜかうまく自分に当てはまらなかった。
救出される価値が、自分にあるのか。
その問いが、頭の中に浮かんだ。浮かんで、すぐに沈んだ。もう何度も繰り返した問いだ。答えは、とうに出ている。
「……私、シルヴァは」
声が、思ったより静かに出た。
「異端者です」
これは嘆きではない。事実の整理だ。感情を乗せる必要はない。構造として正しく伝えるだけだ。
「聖教会の教義に逆らい、異端と刻まれ沈黙を強要された。研究は封じられ、ここに幽閉された。」
一拍、置き。
「……私には、もう価値がありません」
最後の一文だけ、わずかに間があった。
自分でも気づかないうちに、間があった。
男は動じなかった。
反論もしない。慰めもしない。シルヴァの言葉のひとつひとつを、ただ正確に受け取っている。
それが、妙に落ち着かなかった。
否定されることには慣れている。無視されることにも。哀れみを向けられることにも。だが、この男の受け取り方は、そのどれとも違った。
慰めでも、否定でもなく、ただ、聞いている。
シルヴァは指先に力を込めた。膝の上の書物の表紙が、掌に硬く当たる。
◇◇◇
ゼノリスは、シルヴァの言葉を聞き終えた。
「価値がない」と彼女は言った。
怒りはなかった。嘆きもなかった。ただ、正確に事実を述べる声だった。それがかえって、言葉に重さを与えていた。長い時間をかけて、自らそう結論づけた者の声だ。外から押しつけられた諦念ではなく、内側から積み上げた諦念だ。
だからこそ、届かなければならない。
「そんなことはありません」
ゼノリスは静かに告げた。
慰めではない。押しつけでもない。ただ、事実として。
「あなたが見つけた矛盾は、本物です。沈黙を強要されたのは、あなたが正しかったからです。正しいものを正しいと言えない場所が、間違っていた。それだけのことです」
シルヴァの目が、わずかに動いた。
何かを言おうとしている。反論の形を探している。だが、言葉が出てこない。指先が、膝の上の書物の表紙を、ほんの少し強く押さえた。
「あなたは、誰ですか?」
今度の問いには、最初とは違う色があった。
「ゼノリスといいます」
静かに名を告げた。
「ただの旅の者。……ですが」
一歩、部屋の中へ踏み込んだ。石床が、靴底の下で冷たく硬い感触を返す。燭台の炎が揺れ、二人の影が壁に長く伸びた。
「私には、わかります」
ゼノリスは真っすぐに、その目を見た。
「あなたには、まだすべき事があります」
部屋が、静まり返った。
炎の揺れる音が、かすかに聞こえる。
シルヴァは、ゼノリスを見ていた。
瞬きが、一度あった。
長い諦念の底に、その言葉が落ちていった。石を水面に投じたように。波紋が広がる。
消えない。
消えようとしない。
その目の奥で、何かが、ゆっくりと動いた。




