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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第一部:再始

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第35話:「新たな旅立ち」

 夜明けの光が、石畳の上をゆっくりと這い始めていた。


 ゼノリスは宿の扉を押し開け、外へ出た。冷たい空気が頬を撫でる。昨夜の歓声が嘘のように、黒門街クロムントは静まり返っている。遠くで鳥が一羽、短く鳴いた。それだけだった。


 石畳に落ちる朝の光は、昨日の白さとは違う。柔らかく、橙がかった色が、街の輪郭をなぞるように広がっている。


 ゼノリスは荷を肩に掛け、街の出口へ向かって歩き始めた。靴の底が石畳を踏むたびに、乾いた音が路地に響く。昨日、あれほどの人がいた広場も、今は朝露に濡れた石が光っているだけだ。


 背後で扉が開く音がした。


「……準備、できました」


 カイロだった。フードを深く被り、荷を背負っている。その目は、すでに出発の色をしている。感情は見えない。だが、隣に立つその気配は、揺らぎなく確かだ。


「私も!」


 続いてセラが飛び出してきた。頬にまだ眠気の赤みが残っているが、目は爛々としている。荷物をしっかり両手で抱え、足元は既に軽く弾んでいた。


 三人で、街の出口へ向かう。


 路地の途中、パン屋の前を通ると、まだ炉に火が入ったばかりの香ばしい匂いが漂ってきた。老いた店主が外の台を拭きながら、ゼノリスたちに気づき、ふと手を止めた。


「……行くのですか?」


 ゼノリスは足を緩めた。


「はい。今日、出発します」


 老人は台拭きをゆっくり折り畳み、頷いた。それだけだった。だが、その目には昨夜とは違う色がある。張り詰めたものが溶けた、静かな色だ。


 街の出口が見えてきた頃、ゼノリスは足を止めた。


 門のそばに、人が集まっていた。


 多くはない。十数人ほどだ。老人、女、男、子供。昨夜の広場にいた顔もある。誰も大声を出していない。ただ、そこに立っている。


 ゼノリスが近づくと、先頭にいた老人が一歩前へ出た。昨日、広場で膝をついていた人物だ。皺だらけの手で、小さな布袋を差し出してくる。


「……旅の、足しにしてください」


 ゼノリスは両手で受け取った。布袋はずしりと重く、中で何かが当たる音がした。


「ありがとうございます」


 老人は首を横に振った。


「礼を言うのは、こっちです」


 老人は少し間を置いてから、また口を開いた。


「……あの男たちのことですが」


 ゼノリスは老人を見た。


「ジュリアスと守備隊長のヴァレン、あと一部の兵も含めて、領主館の地下牢に捕らえて入れておきました」


 老人の声は、淡々としていた。怒りでも、喜びでもない。ただ、事実を告げる声だ。


「今後どうするかは……皆で話し合って決めるつもりです」


 ゼノリスは小さく頷いた。


「それがいい」


 老人が、わずかに目を細めた。


「あなたに決めてもらおうとは思いません。自分たちのことは、自分たちで決めます。……それが、あなたの言っていた意味でしょう」


 ゼノリスは老人の顔を、もう一度見た。皺に沈んだ瞳が、静かに光っている。長い年月を生きた目だ。その目が今、迷いなくゼノリスを映していた。


 その隣に立つ若い母親が、子供の肩を軽く押した。子供は一歩出て、ゼノリスを見上げた。丸い目が、まっすぐこちらを向いている。


「……また、来る?」


 ゼノリスは膝を折り、子供と目線を合わせた。


「必ず」


 子供はしばらくゼノリスを見つめて、それからこくりと頷いた。母親が、唇をきつく結んだまま頭を下げる。


 ゼノリスは立ち上がり、集まった人々を見渡した。


「必ず、この世界を正します」


 声は、静かだった。広場で叫んだときとは違う。届かせる距離が、もう近いから。


「それまで、どうか希望を捨てないでください」


 誰も声を上げない。ただ、頷く者がいる。目を伏せる者がいる。唇を噛んだまま、まっすぐゼノリスを見ている者がいる。


 風が吹いた。朝の匂いを含んだ、穏やかな風だ。


 ゼノリスは一礼し、門をくぐった。


◇◇◇


 街道を歩き始めると、背後で誰かが手を振る気配があった。


 振り返らなかった。


 ただ、胸の奥に何かが残っている。温度のあるものが、静かに沈んでいく感覚だ。重くはない。むしろ、支えになるような重さだ。


 道は真っ直ぐに続いている。両脇に草原が広がり、朝露が陽光を受けてきらきらと光っている。遠くに山の稜線が見えた。空は高く、雲が少ない。


 三人の足音が、土の道に刻まれていく。カイロの歩みは音が少ない。セラは少しだけ弾むような踏み込みで、規則的にリズムを刻んでいる。


 しばらく歩くと、黒門街の輪郭が遠くなった。振り返れば、石造りの建物が朝霞の中に沈んでいくところだ。だが、ゼノリスは前を向いたまま足を進めた。


 道は緩やかに上りになっていた。草の上を渡ってくる風が、袖口をわずかに揺らす。湿った土の匂いが混じっている。


 ゼノリスは歩きながら、二人の気配を感じていた。


 右にカイロ。左にセラ。どちらも黙っている。黙っているが、そこにいる。それだけで、何かが違う。あの洞窟で一人目を覚ましたときの、あの静けさとは。


 ゼノリスは口を開いた。


「……少し、いいですか」


 カイロが視線を向ける。セラが顔を上げる。


「あなたたちのおかげで、ここまで来ることができました」


 ゼノリスは歩みを緩めず、前を向いたまま続けた。


「ありがとうございます」


 沈黙が、一瞬あった。


 カイロが先に口を開いた。


「……俺たちは、ゼノリス様についていくだけです」


 短い。それだけだった。だが、その声に揺らぎはない。風が吹いても曲がらない何かが、その言葉の芯にある。


 セラが、わずかに遅れて声を上げた。


「私たち、もっと強くなります!」


 弾けるような言い方だった。前を向いたまま、拳をぎゅっと握っている。その横顔は真剣で、どこか誇らしげだ。


 ゼノリスは小さく息を吐いた。


 感謝を言葉にすることが、これほど難しいとは思っていなかった。言葉にした途端、軽くなりそうで。でも、二人の返し方は、言葉よりずっと重かった。


 道が、また続いている。


◇◇◇


 太陽が完全に昇り、草原に影が伸び始めた頃、三人は小高い丘の上に差し掛かった。


 ゼノリスは歩みを止めた。


 視界が、一気に開けた。


 草原が広がっている。遥か遠くに、山脈の稜線が連なっている。その向こうに、まだ朝靄に包まれた黒い塊が見えた。


 旧魔王城だ。


 距離はある。まだ遠い。だが、輪郭は確かにそこにある。尖塔が、空を突いている。かつて、あの場所から世界を見渡していた。今は、あの場所を外から見ている。


 ゼノリスは目を細めた。


 足元の草が、風に揺れている。さわさわとした音が、丘の上を流れていく。空気は澄んでいて、遠くの山肌の色まで見えるほどだ。


 カイロが、静かに隣へ並んだ。


 セラが、反対側に立った。


 三人で、遠くを見た。誰も何も言わない。言葉は要らなかった。


 やがて、ゼノリスは小さく呟いた。


「……次は、我が家を返してもらおうか」


 独り言のつもりだった。


 だが、カイロが短く応じた。


「……承知しました」


 セラが、唇の端を上げた。


「行きましょう、ゼノリス様!」


 ゼノリスは前を向いた。


 道が続いている。旧魔王城へ向かって、真っ直ぐに。一歩踏み出すと、足元の草が揺れた。その音が、風に混じって消えていく。


 三人は、歩き始めた。



第一部 完


次回から第二部になります。

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