第33話:「ジュリアスの失墜」
ゼノリスは、一歩踏み出した。
石畳を踏む音が、広場に響く。静まり返った空間の中で、その音だけが鮮明に聞こえた。
もう一歩。
ジュリアスが、地面に伏したまま顔を上げた。肥えた顔が、汗と土で汚れている。鎧の一部が砕け、頭頂部が禿げ上がった金色の髪が乱れていた。先ほどまでの傲慢な笑みは、跡形もない。
ゼノリスはジュリアスへ向かって歩き続けた。急がない。焦らない。ただ、静かに、一歩ずつ近づいていく。
民衆が息を呑んでいる。広場の端に集まった人々が、固唾を呑んでその様子を見守っていた。誰も動かない。誰も声を上げない。
冷たい風が吹いた。砂埃が舞い上がり、広場を横切っていく。
ゼノリスはジュリアスの前で、足を止めた。
◇◇◇
ジュリアスは、目の前に立つ男を見上げた。
静かな目だ。怒りもない。侮蔑もない。ただ、まっすぐに自分を見下ろしている。
その目が、たまらなく恐ろしかった。
ジュリアスは地面に手をついた。立ち上がろうとするが、腕が震えて力が入らない。足も動かない。体の奥から、冷たいものが這い上がってくる。
「た、助けてくれ……!」
声が裏返った。
「命だけは……! 命だけは助けてくれ!」
ジュリアスは両手を地面についたまま、頭を下げた。
「金なら、いくらでも払う! 父に言えば、どんな額でも用意できる! 頼む……頼む、頼む!」
言葉が、止まらない。恐怖が口から溢れ出してくる。
つい先ほどまで、この広場で民衆を怒鳴りつけていた男が、今、同じ石畳に額をこすりつけて命乞いをしている。
民衆がその様子を見ていた。誰も声を上げない。信じられないものを見るように、ただ息を殺していた。
「頼む……頼む……! 俺は、まだ死にたくない……!」
ジュリアスの声が、みっともなく広場に響いた。
◇◇◇
ゼノリスは静かに、その様子を見ていた。
あなたは、この街で何をしてきたか。税を払えない老人を地面に転がし、娘を差し出せと脅した。民衆を『ゴミ』と呼び、踏みにじってきた。
そして今、同じ石畳に這いつくばっている。
ゼノリスは胸の中で、静かに息を吐いた。怒りではない。悲しみでもない。ただ、深い静かな確信だ。
ゼノリスは目を細めた。
【至極の理】が、静かに発動する。
ジュリアスの頭上に、星が浮かんだ。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
やはり、そうか。
ゴールド級と呼ばれていた男の真の実力は、☆2。父の威光と金銭で買い上げた、虚偽の評価だ。
到達可能な限界値も☆2。この男には、これ以上伸びる余地がない。
強者の仮面を被り、弱者を踏みにじってきた。だが、仮面の下にあったのは、誰よりも脆く、誰よりも臆病な魂だった。
ゼノリスは至極の理を解いた。
星が、静かに消える。
ゼノリスはジュリアスを見下ろした。
地面に額をこすりつけ、震えながら命乞いを続けている。
ゼノリスは静かに口を開いた。
「あなたは、多くの人を『ゴミ』と呼び、踏みにじってきました」
ジュリアスの体が、びくりと震えた。
「税を払えない老人を地面に転がし、娘を差し出せと脅した。この街の人々を、道具として扱ってきた」
「ち、違う……! 俺は、俺はただ……!」
「ですが」
ゼノリスは続けた。声を荒らげない。ただ、静かに、一言ずつ告げる。
「あなた自身が、最も弱かった」
広場が、しんと静まり返った。
ジュリアスが顔を上げた。その目に、怒りと恐怖と混乱が入り混じっている。
「な……何が、弱いだ……! 俺は、ゴールド級だぞ……! お前らみたいな……!」
「ブロンズです」
ゼノリスは静かに告げた。
ジュリアスの言葉が、止まった。
広場が、静まり返った。
民衆の間から、小さなざわめきが漏れた。ブロンズ。冒険者の中でも、ゴミのすぐ上の低いランクだ。ゴールド級と名乗っていた男の、本当の姿。
ジュリアスの顔から、血の気が引いていく。唇が震え、目が泳いだ。否定しようとするのだろう。だが、言葉が出てこない。
ゼノリスは続けた。
「あなたの本当の強さは、ブロンズ級です。ゴールド級は父の威光と金銭で買い上げた評価です。あなたが『ゴミ』と呼んだ者たちの方が、遥かに強かった」
ジュリアスの顔が、みるみる歪んでいく。否定しようとするが、言葉が出ない。口が開いたまま、震えるだけだ。
民衆の誰かが、息を呑んだ。
老人が、ゆっくりと顔を上げた。先ほどまで恐怖で俯いていた顔が、今は違う表情をしている。長年、理不尽に踏みにじられてきた者が、真実を突きつけられた瞬間の顔だ。
若い女性の目から、一筋の涙が伝った。声を殺したまま、唇を噛んでいる。
子供が、母親の袖を強く掴んだ。
ゼノリスは民衆の顔を、ゆっくりと見渡した。恐怖だけが刻まれていたはずの表情が、少しずつ変わっていく。長い間、押し込められていた何かが、今、ゆっくりと解け始めていた。
長い間、この街の人々は恐怖の中で生きてきた。誰も助けてくれない。誰も声を上げない。ただ、耐えるだけの日々だ。
ゼノリスは再びジュリアスへ視線を戻した。
「この街は、もうあなたのものではありません」
静かな声だった。だが、その言葉は広場の隅まで、はっきりと届いた。
ジュリアスが、石畳に崩れ落ちた。もう、声も出ない。体が小刻みに震えているだけだ。傲慢だった男の、完全な失墜だった。
広場に、長い沈黙が流れた。
ゼノリスは静かに、民衆へ向き直った。
老人が、ゆっくりとゼノリスを見た。その目に、もう恐怖はない。ただ、静かな問いが宿っている。これからどうなるのか、と。
ゼノリスは深く息を吸った。
カイロとセラが、静かに後ろへ並んだ気配がした。二人とも、何も言わない。ただ、静かにそこにいる。
ゼノリスは民衆へ向かって、一歩踏み出した。
老人が、ゼノリスの目を見ていた。その唇が、かすかに動いた。
――あなたは、誰なのですか、と。




