第31話:「カイロの無双」
石畳を踏み鳴らす重い足音が、広場に響いた。槍の穂先が陽光を弾き、金属の鎧が擦れ合う音が耳に届く。先頭の男の目には、剥き出しの殺意が宿っていた。
ゼノリスは動かなかった。
カイロが一歩、前へ出る。その背中は、まっすぐだった。
「……俺が相手をします」
低く、静かな声だった。感情を削ぎ落とした、仕事人の声だ。
ゼノリスは短く応じた。
「任せます」
次の瞬間、カイロの姿が消えた。
煙も、光も、音もない。ただ、そこにいた存在が、静かに消えた。まるで最初からいなかったかのように、カイロのいた場所には空白だけが残っている。
先頭の兵士が、勢いよく踏み込んだまま、空を突いた。
「……あ?」
兵士が足を止める。左右を見回すが、誰もいない。
ゼノリスは静かに息を吐いた。
これが、カイロの力だ。
◇◇◇
兵士たちは混乱していた。
ゼノリスは広場の端から、その様子を観察していた。六人の兵士が、槍と剣を構えたまま、互いに視線を交わしている。
「どこだ……!?」
「いない、消えた!」
「馬鹿な、人が消えるわけが……」
兵士の一人が、そこで言葉を切った。
仲間が、音もなく地面へ崩れ落ちたのだ。倒れた兵士は意識を失っており、痛みを訴える声すら上げていない。ただ、静かに横たわっている。
「な、なんだ!? お前、大丈夫か!?」
仲間が駆け寄ろうとした瞬間、また一人が倒れた。
今度は、倒れる瞬間すら見えなかった。気づいた時には、地面に崩れ落ちていた。
残った四人が背中を合わせ、周囲を警戒する。槍を構え、剣を握り直す。だが、その手が震えていた。
「出てこい! どこにいる!?」
返答はない。ただ、風が広場を吹き抜けただけだ。
ゼノリスは兵士たちを見ていた。
影に溶け込み、気配を消し、敵が気づかぬうちに仕留める。それが、カイロの【万能の影】の真価だ。戦場の裏側に干渉し、誰にも悟られることなく、勝利の土台を整える。
あの訓練の日々は、無駄ではなかった。
また一人、兵士が倒れた。今度は後方から、何かに肩を叩かれたように体が回転し、そのまま崩れ落ちた。
残り三人。
兵士たちの間に、明確な恐怖が広がっていく。
「……っ、化け物か!?」
怒鳴り声が、震えていた。
その時、広場の反対側から、鈍い衝撃音が響いた。
ゼノリスは音のした方へ視線を向けた。
セラが、別の兵士たちと対峙している。腕に打ちかかってきた剣を、素手で受け流した様子だ。セラの動きは速く、迷いがない。詳細は距離があって見えないが、兵士たちが次第に後退しているのは分かった。
ゼノリスは視線を戻した。
残り三人の兵士が、じりじりと後退していく。
ゼノリスには見えていた。兵士たちの足元に広がる影が、わずかに揺らめいている。
その影の中に、カイロがいる。
兵士の一人が、突然叫んだ。
「後ろだ! 後ろに……!」
振り向いた瞬間、その兵士の首筋に何かが触れた。兵士は一瞬硬直し、膝から崩れ落ちた。
残り二人。
二人の兵士は、もう戦う意志を失っていた。槍を投げ捨て、地面に座り込む。
「降参だ……! 降参する!!」
広場に沈黙が落ちた。
倒れた兵士たちが、地面に転がっている。立っている兵士は、降参した二人だけだ。
ゼノリスは台の上を見上げた。
ジュリアスが、青い顔で広場を見下ろしていた。肥えた顔から、先ほどまでの傲慢な笑みが消えている。代わりに浮かんでいるのは、見たことのない感情だ。
恐怖だ。
台の上で、ジュリアスの足が小刻みに震えていた。
◇◇◇
影の中から、カイロは広場を見渡していた。
兵士たちは降参し、地面に座り込んでいる。戦闘は、終わった。
だが、まだ終わりではない。
カイロは台の上のジュリアスへ視線を向けた。肥えた体が、小刻みに震えている。顔は蒼白で、先ほどまでの傲慢な笑みは跡形もない。
カイロは影の中を移動した。足音はない。気配もない。石畳の上に落ちる影を伝い、台の真下へ近づく。
ジュリアスの視線が、広場を泳いでいた。
「ど、どこだ……! 出てこい! 出てこないか!」
声が上ずっている。怒鳴っているつもりなのだろうが、恐怖が声に滲み出ていた。
カイロは台の縁から、静かに姿を現した。
ジュリアスが後退る。
「な……っ! いつの間に……!」
カイロはジュリアスを見上げた。台の上に立つ男を、真正面から。
カイロは一歩、台へ足をかけた。
「待て……! 来るな! 近づくな!」
ジュリアスが剣の柄に手をかけるが、指が震えて抜けない。
カイロは台の上へ上がった。ジュリアスと正面から向き合う。
二人の距離が、三歩分に縮まった。
ジュリアスの目に、はっきりと恐怖が浮かんでいる。
カイロは静かに口を開いた。
「……あなたは、俺たちを『ゴミ』と呼んだ」
ジュリアスが唇を震わせる。
「その言葉、お返しします」
広場が、静まり返った。
風が吹き、砂埃が舞い上がる。民衆が固唾を呑んで、台の上を見つめていた。
◇◇◇
ゼノリスは台の上のカイロを見つめていた。
かつて、奴隷として踏みにじられた男が、今、恐怖で震える支配者の前に立っている。『ゴミ』と呼ばれた者が、『ゴミ』と呼んだ者を見下ろしている。
これが、逆転だ。
ゼノリスは静かに息を吐いた。
だが、広場の端から、整然とした足音が近づいてきた。
ゼノリスは音のした方へ目を向けた。
鎧を身に着けた一人の男を先頭に、十人ほどの兵士が人垣を割って進み出てくる。
先頭の男は長身で、引き締まった体躯だ。手入れの行き届いた剣を腰に帯び、その目は冷静に戦場を分析している。先ほどの兵士たちとは、明らかに違う。
ヴァレン。黒門街クロムント守備隊長。
カイロが報告していた、本物の実力者だ。
ヴァレンは素早く指示を出した。
「半数はジュリアス様を守れ。残りは俺と来い」
兵士たちが即座に動く。五人がジュリアスのいる台へ駆け上がり、盾を構えてジュリアスを取り囲んだ。ジュリアスが安堵したように息を吐く。
「ヴァレン……! よくぞ来た! あの化け物を殺せ!」
ヴァレンは台を見上げ、短く頷いた。そして、カイロへ視線を戻す。
ヴァレンは台の前で足を止め、カイロを見上げた。その目には恐怖がない。ただ、静かな警戒だけがある。
「……見事な戦い方だ」
低く、落ち着いた声だった。
「だが、ここから先は通さない。ジュリアス様を守るのが、俺の役目だ」
カイロが台の上から、ヴァレンを見下ろした。
二人の間に、張り詰めた空気が流れる。カイロは無言でヴァレンを観察し、ヴァレンはカイロから目を離さない。
ゼノリスはその様子を見守った。
カイロがゆっくりと台を降りた。ヴァレンと同じ地面に立ち、正面から向き合う。
「退いてください」
カイロの声は、穏やかだった。だが、その目の奥には冷たい光が宿っている。
「退かない」
ヴァレンが剣の柄に手をかけた。
カイロは深く息を吸った。
次の瞬間、カイロの姿が再び消えた。
ヴァレンが素早く後退し、剣を抜いて構える。
「……っ、どこだ」
ヴァレンの目が、鋭く周囲を走る。先ほどの兵士たちとは違い、慌てていない。体の重心を低く保ち、どの方向からの攻撃にも対応できる構えだ。
だが、カイロはヴァレンの足元の影から、すでに動いていた。
ヴァレンの剣を持つ手首に、何かが触れた。
ヴァレンが歯を食いしばる。
「……なるほど。影の中を動くのか」
剣を握り直しながら、ヴァレンが呟いた。それでも、ヴァレンの顔に焦りはない。
再び、影が動いた。今度はヴァレンの背後から。
ヴァレンが振り向きざまに剣を薙いだ。刃が空を切る。だが、その動きは正確で、カイロが次に現れるであろう場所を先読みしている。
一度、二度。
静かな攻防が続いた。音もなく消え、音もなく現れるカイロと、それを冷静に捌くヴァレン。
☆4対☆3。星だけ見れば、カイロが上回っている。だが、ヴァレンは食らいついている。経験が、星の差を埋めていた。
やがて、ヴァレンの動きが、わずかに鈍った。
膝が、かすかに折れている。
カイロが影の中から、ヴァレンの首筋を的確に打った。
ヴァレンは剣を石畳に突き立て、体を支えた。膝をつきながらも、倒れない。
「……参った」
ヴァレンが静かに告げた。
カイロが影から姿を現し、ヴァレンの前に立った。
「……退いてください」
ヴァレンは剣から手を離し、石畳に置いた。
「ああ」
短い応答だった。だが、膝をつきながらも、その目はカイロから離れない。
ゼノリスには分かった。ヴァレンは敗北しながらも、カイロの力を正面から認めている。
ヴァレンが静かに道を開けた。
広場に、沈黙が落ちた。ジュリアスは逃げ場を失い、台の上で立ち尽くしていた。




