第29話:「黒門街への侵入」
夜明け前、隠れ里を出発した。
月明かりが森を淡く照らし、木々の影が地面に長く伸びている。足元の枯れ葉が踏まれるたびに、乾いた音を立てて砕けていく。
ゼノリスは前を歩き、カイロとセラが後ろに続く。三人とも、言葉を交わさずに進んでいた。
冷たい空気が肌を刺す。
吐く息が白く霞み、すぐに闇の中へ消えていく。森の奥から、遠く鳥の鳴き声が聞こえた。まだ眠りから覚めきらない世界が、静かに朝を迎えようとしている。
ゼノリスは木々の間を抜けながら、昨夜カイロが報告した内容を思い返していた。
黒門街クロムント。辺境伯嫡男ジュリアス・ドドドが支配する街。カイロの言葉では、暗く抑圧的で、人々は疲弊しているという。
私が取り戻すべき街だ。
やがて、森の木々が途切れた。開けた場所に出ると、遠くに街の姿が見える。黒い門と高い壁が、朝日を背にして立ち並んでいた。壁の上には見張り台があり、兵士の影が動いている。
ゼノリスは足を止めた。
「まもなく……ですね」
セラとカイロも立ち止まり、街を見つめる。セラが小さく息を呑んだ。
「……そうですね」
カイロは無言で視線を街へ注いでいる。その表情には、わずかな緊張が浮かんでいた。
ゼノリスは街の門を見据えた。黒く塗られた門には、紋章が刻まれている。剣と盾を組み合わせた意匠だが、どこか威圧的だ。門の両脇には衛兵が立ち、槍を手にして行き交う者たちを監視している。
風が吹いた。冷たい風が頬を撫で、髪を揺らす。湿った空気が鼻をつき、どこか淀んだ匂いが混ざっていた。
ゼノリスは深く息を吸った。
「行きましょう」
三人は再び歩き出した。
◇◇◇
街の門が近づくにつれ、周囲の空気が変わっていく。
ゼノリスは門へ続く道を歩きながら、街の雰囲気を感じ取っていた。門の前には行列ができており、商人らしき者や荷車を引く農民が、順番を待っている。だが、その表情はどれも暗く、疲れ切っているように見えた。
門番が大声で怒鳴っている。
「おい、早くしろ! いつまで待たせる気だ!」
農民が慌てて頭を下げ、荷車を引いて門をくぐっていく。門番は鼻を鳴らし、次の者へ視線を向けた。
ゼノリスたち三人が門の前に立つ。
門番が二人、槍を構えて前に出てきた。一人は髭を生やした中年の男で、もう一人は若い兵士だ。どちらも鎧を身に着けているが、手入れは行き届いていない。錆が浮き、傷が目立っている。
髭の門番がゼノリスたちを上から下まで眺めた。その目には、明らかな警戒と軽蔑が混ざっている。
「お前ら、何者だ? 見ない顔だな」
ゼノリスは落ち着いた声で応じた。
「旅の者です。街に入らせていただけませんか」
門番は鼻を鳴らした。そして、セラとカイロへ視線を移す。二人の服装を見て、顔を歪めた。
「……なんだ、その格好は」
セラの服は、訓練で擦り切れた部分を繕ったものだ。カイロは魔人族の特徴を隠すため、フードを深く被り顔を覆っている。質素で地味な服装だ。ゼノリスも同様に、魔人族と悟られぬよう旅人の装いを選び、フードで顔の一部を隠していた。
門番が笑った。嘲りを含んだ不快な笑いだ。
「ゴミみたいな格好しやがって。貧乏人か?」
若い門番も笑い声を上げる。
「こんな連中が街に入るのか? 汚ねぇな」
ゼノリスは表情を変えなかった。だが、隣に立つカイロの肩が、わずかに強張ったのが見えた。
髭の門番が腕を組んだ。
「入るなら入場税を払え。一人につき銀貨三枚だ」
セラが息を呑む。通常、辺境の街の入場税は銅貨数枚が相場だ。銀貨三枚など、法外な額だった。
ゼノリスは静かに応じた。
「分かりました」
ゼノリスは懐から銀貨を取り出した。
隠れ里で見つけた、かつての魔王軍が残した金庫の中身だ。長い年月を経ても、銀貨は鈍い光を放っている。
九枚の銀貨を、門番に差し出した。
門番は銀貨の一つを歯で噛んで確かめた。そして、満足げに頷く。
「……よし。通れ」
門番が横に退いた。ゼノリスは一礼し、門をくぐる。セラとカイロも後に続いた。
門の向こうへ足を踏み入れた瞬間、背後から門番の笑い声が聞こえた。
「ゴミどもが、よく金持ってたな」
「ああ。まあ、どうせすぐに追い出されるだろうがな」
笑い声が、背中に突き刺さる。
◇◇◇
カイロは黙って歩いていた。
門番の嘲笑が、まだ耳に残っている。ゴミみたいな格好。ゴミども。何度も聞いた言葉だ。人族たちは、いつもそうやって俺たちを呼ぶ。魔族だから。貧しいから。弱いから。
カイロは拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みが走る。だが、その痛みが怒りを抑えてくれる。
ゼノリス様は何も言わなかった。静かに銀貨を払い、門をくぐった。その背中は、まっすぐだった。怒りを表に出さず、冷静に対応する。それが、ゼノリス様のやり方だ。
だが、俺には分かる。ゼノリス様も、怒っている。静かに、深く、怒っている。
カイロは前を歩くゼノリスの背中を見つめた。
この街を、取り戻す。そのために、俺たちはここに来た。門番の嘲笑も、すべて受け入れる。今は、耐える時だ。
だが、いずれ……。
カイロは視線を街へ向けた。
◇◇◇
門をくぐると、街の中心へ続く石畳の道が広がっていた。
セラは周囲を見回した。建物が立ち並び、路地が複雑に入り組んでいる。だが、その雰囲気は、セラが想像していたものとは違っていた。
――暗い。
空は明るいのに、街全体が影に沈んでいるように見える。建物の壁は黒ずみ、窓には板が打ち付けられているものもあった。道端には倒れた荷車が放置され、誰も片付けようとしていない。
人々の表情も、どこか沈んでいた。
道を歩く者たちは、皆うつむき加減で足早に通り過ぎていく。誰も笑っていない。誰も話していない。ただ、黙々と歩いているだけだ。
セラは胸の奥に、ざわりとした違和感を覚えた。
この街、何かおかしい。
石畳を踏む音が、やけに大きく響く。冷たい石の感触が、靴底を通して足裏に伝わってくる。風が吹き、建物の隙間を抜けて低い音を立てた。どこか遠くから、金属が擦れる音が聞こえる。
路地の奥から、怒鳴り声が響いた。
「税を払え! 払えないなら、荷物を置いていけ!」
セラが声のする方へ視線を向けると、路地の入口に衛兵が立っていた。その前には、老人が跪いている。衛兵は槍の柄で老人の肩を突き、何かを要求しているようだった。
老人が震える声で何かを言ったが、衛兵は耳を貸さない。そのまま、老人の荷物を奪い取り、路地の奥へ消えていった。
老人は地面に座り込んだまま、動かない。
セラは拳を握った。
ひどい……。
ゼノ様とカイロは、黙って前を歩き続けている。セラも二人に続いた。だが、胸の奥に燻る怒りが、消えることはなかった。
◇◇◇
ゼノリスは路地の角を曲がった。
広場があった。井戸の周りに数人の女性が集まり、水を汲んでいる。広場の端では商人が布を敷いているが、客はいない。
ゼノリスが井戸の前を通りかかると、女性たちが一斉に視線を逸らした。
――恐れている。見知らぬ者を。
ゼノリスは足を止めず、低い声でつぶやいた。
「……これは、統治ではない」
かつて私が治めた領土では、民が旅人を恐れることはなかった。領主が民を守っている限り、民は安心して暮らせる。旅人に怯えるということは、領主が民を守るどころか、脅かしているということだ。
この街には、統治者がいない。暴力で搾取する者がいるだけだ。
ゼノリスは静かに息を吐いた。
この街を、このままにはしておけない。
カイロが隣に並んだ。フードの下から、低い声が漏れる。
「……この街、腐っています」
ゼノリスは短く応じた。
「ええ」
それ以上は、言わなかった。街の中で声を上げる場所ではない。
セラが後ろから追いついてきた。何も言わないが、その拳が白くなるほど握り込まれていた。
三人は再び歩き出した。
やがて、遠くに大きな建物が見えてきた。領主館だ。その前には、多くの兵士が立ち並んでいる。
ゼノリスは領主館を見据えた。
明日、あの場所で決着をつける。
ゼノリスは静かに拳を握った。
この街を、必ず取り戻す。人々に、誠実な支配を示す。それが、私の使命だ。
夕陽が街を染め始めていた。長い影が石畳に伸び、建物の壁を這う。冷たい風が吹き抜け、髪を揺らした。




