第28話:「出陣前夜」
祝杯を上げた翌朝。
ゼノリスは、誰よりも早く目を覚ました。
建物の外に出る。冷たい朝の空気が肺を満たし、意識が研ぎ澄まされていく。東の空が白み始めているが、太陽はまだ見えない。
訓練場に目を向けた。昨夜セラが素振りをしていた場所に、拳の跡が残っている。地面が抉れ、草が薙ぎ倒されていた。
――準備は、もう始まっている。
ゼノリスは建物の扉に目を向けた。カイロとセラが、中から出てくる。二人とも、いつもより表情が引き締まっていた。
「ゼノリス様」
カイロが短く告げる。セラも頷いた。
「ゼノ様、おはようございます」
ゼノリスは二人を見つめた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
セラが笑顔を作る。
「はい! ばっちりです」
だが、その笑顔にはわずかな緊張が見える。カイロは無言で頷いた。
ゼノリスは二人の前に立った。
「では、始めましょう。まずは情報収集です」
カイロが視線を向ける。
ゼノリスは続けた。
「カイロ、辺境の街の状況を探ってきてください」
カイロが短く頷く。
「承知しました」
「街の支配者、警備の配置、そして街の雰囲気。できる限りの情報を集めてください」
「……分かりました」
ゼノリスはカイロの肩に手を置いた。
「無理はしないでください。見つかりそうになったら、すぐに戻ってきてください」
カイロは僅かに目を細めた。
「……大丈夫です。気配を消すのは、得意ですから」
ゼノリスは微笑んだ。
「信じています」
カイロは一歩下がり、深く息を吸った。そして、影の中へ消える。
姿が掻き消え、気配も音も感じられなくなった。完全に、存在を消している。
セラが周囲を見回す。
「カイロ……どこに?」
「もう、出発しました」
セラは目を見開いた。
「え、全然分からなかった……」
ゼノリスは頷いた。カイロの万能の影は、ここまで洗練されている。訓練の成果だ。
ゼノリスはセラを見た。
「セラ、あなたは私と共に、街への進軍ルートを確認します」
セラが背筋を伸ばす。
「はい!」
「カイロが戻ってくるまでの間に、最短ルートと、隠れられる場所を把握しておきましょう」
「分かりました、ゼノ様」
ゼノリスとセラは、森へ向かって歩き出した。
◇◇◇
森の中は、静かだった。
木々の葉が風に揺れ、サラサラと音を立てている。鳥が鳴き、遠くで小動物が走る音が聞こえた。土を踏む感触が、足の裏に伝わってくる。
セラはゼノ様の後ろを歩いていた。ゼノ様の背中を見つめながら、森の中を進む。木漏れ日が地面に斑模様を作り、草が足元で揺れていた。森の匂いが鼻をつく。土と草と木の香りが混ざり合い、懐かしさと新鮮さが同居している。
ゼノ様が立ち止まった。
「ここからなら、街が見えます」
セラが前に出る。木々の間から、遠くに街の姿が見えた。黒い門と高い壁、その向こうに建物が立ち並んでいる。街全体が、どこか重苦しい雰囲気を纏っているように見えた。
胸の奥に緊張が広がっていく。
本当に、戦うんだ。訓練ではない、本物の戦いが始まる。セラは拳を握りしめた。手のひらに汗が滲み、心臓が激しく脈打っている。
◇◇◇
ゼノリスはセラの表情を見つめた。緊張している。当然だろう。セラにとって、これが初めての実戦だ。訓練では魔物と戦ってきたが、今度は人が相手になる。
セラが前に出る。木々の間から、遠くに街の姿が見えた。黒い門と高い壁、その向こうに建物が立ち並んでいる。
セラの足が、止まった。
大きい。訓練場の魔物とは、比べものにならない。あの壁の向こうに、人がいる。武器を持った人間がいる。
拳を握った。手のひらに汗が滲む。
「……ゼノ様。怖いです」
「ええ。それでいいです」
ゼノリスは街から目を離さず、短く答えた。
「怖いまま、勝てばいいのです」
◇◇◇
ゼノリスは街を見つめた。あの街には、聖教会の影響を受けた者が支配している。その者が、どのような支配をしているのか、それを確かめなければならない。そして、取り戻す。
ゼノリスは静かに拳を握った。
「行きましょう。ルートを確認します」
セラが頷き、二人は森の中を進んだ。木々の間を抜け、街へ続く道を探る。隠れられる岩陰、茂み、倒木。すべてを記憶していく。太陽の光が木々の隙間から差し込み、地面に複雑な影の模様を作っていた。
やがて、太陽が傾き始めた。ゼノリスとセラは隠れ里へ戻った。
◇◇◇
月が空に昇り、隠れ里を静かに照らしている。白い光が地面を染め、草が銀色に輝いていた。虫の声が遠くから聞こえ、風が木の葉を揺らす音が響く。
ゼノリスとセラは焚き火の前に座っていた。炎が揺らめき、暖かさが二人を包んでいる。木が燃える音が低く響き、煙が細く立ち上っていた。時折、火が弾けて小さな音を立てる。
セラは炎を見つめたまま、静かに待っていた。カイロは、まだ戻ってきていない。朝に出発してから、もう半日以上が経過している。
セラが拳を握る。心配しているのだろう。だが、カイロなら大丈夫だ。あれだけ気配を消せるなら、誰にも見つからずに戻ってこられる。
その時、影が動いた。
セラが顔を上げる。焚き火の光が届かない暗闇の中から、カイロが姿を現した。
「ただいま戻りました」
カイロが短く告げる。
セラが立ち上がった。
「カイロ! お帰り!」
ゼノリスも立ち上がり、カイロを見つめた。
「お疲れ様です。無事で何よりです」
カイロは頷き、焚き火の前に座った。ゼノリスとセラも座り直す。三人が炎を囲み、静かな空気が流れた。
ゼノリスは穏やかに問いかけた。
「報告をお願いします」
カイロは炎を見つめたまま、口を開いた。
「街の名は黒門街クロムント。辺境伯嫡男ジュリアス・ドドドが支配しています」
セラが息を呑む。ゼノリスは静かに頷いた。
「ジュリアス・ドドド……辺境伯の息子ですか?」
「はい。しかも、彼はゴールド級とされています」
ゼノリスは目を細めた。
「ゴールド級……冒険者ランクで言えば、☆4相当。あなたたちと同等のはずですが」
セラが目を見開く。
「私たちと、同じくらい……?」
ゼノリスは短く頷いた。そして、静かに続ける。
「冒険者ランクは下から、無能ランク、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナの五段階です。ブロンズが☆2、シルバーが☆3、ゴールドが☆4、プラチナが☆5に相当します」
セラが拳を握る。
「じゃあ、本当に私たちと同じくらいなんだ……」
カイロは僅かに表情を曇らせた。
「……ですが、正直怪しいです。本当にその実力があるかは、疑問です」
ゼノリスが視線を向ける。
「どういうことですか?」
カイロは炎を見つめたまま、言葉を続けた。
「街の門を観察していた時、彼の配下である騎士たちの動きを見ましたが、統率が取れておらず、規律も緩い。ゴールド級の指揮官が率いる部隊とは思えません」
ゼノリスは頷いた。
「なるほど。彼の実力は、辺境伯の威光か金銭で買った可能性があるということですね」
「はい。ただし、配下にシルバー級の騎士ヴァレンがいます。彼が守備隊長として門を守っています。こちらは、本物だと思います」
セラが身を乗り出した。
「シルバー級って、☆3相当だよね?」
「ええ。ヴァレンの動きは鋭く、周囲への警戒も怠りません。油断できない相手です」
ゼノリスは腕を組んだ。情報が整理されていく。ジュリアス・ドドドは名目上ゴールド級だが、実力は怪しい。だが、配下にシルバー級の実力者がいる。
ゼノリスはカイロを見た。
「街の雰囲気は、どうでしたか?」
カイロは僅かに眉を寄せた。
「……暗く、抑圧的です。人々は疲弊しています」
セラが息を呑む。
カイロは続けた。
「街の人々の表情は暗く、笑顔を見せる者はほとんどいませんでした。門番は横柄で、通行人に対して威圧的な態度を取っています。街全体が、恐怖で支配されているように感じました」
ゼノリスは静かに拳を握った。
やはり、か。
聖教会の影響を受けた支配者は、力で民を抑え込んでいる。
ゼノリスは深く息を吐いた。
「門の警備は、どうですか?」
「厳重ですが、侵入は可能です。影に溶け込めば、気づかれずに通過できます」
ゼノリスは頷いた。
「分かりました。十分な情報です。ありがとうございます、カイロ」
カイロは短く頷いた。
ゼノリスは炎を見つめた。薪が崩れ、新たな火の粉が舞い上がる。夜風が吹き、炎が揺れた。煙が流れ、星空へ消えていく。
ゼノリスは二人を見た。
「明日、街を取り戻します」
焚き火が爆ぜた。その音だけが、長い沈黙を埋めていた。
セラが拳を握る。カイロの目が、静かに鋭くなった。
ゼノリスは二人を見つめた。
「あなたたちなら、できます」
セラが頷く。
「はい、ゼノ様」
カイロも短く応じた。
「……承知しました」
沈黙が降りた。
薪が爆ぜる。火の粉が舞い、夜の闇に吸い込まれていく。三人とも、口を開かない。炎の音だけが、長い時間続いた。
やがて、カイロが立ち上がった。
何も言わず、短剣を抜く。刃を布で拭い始めた。ゆっくりと、丁寧に。明日使う武器の手入れだ。
セラはそれを見て、自分の拳を開いた。掌の皮が硬くなっている。訓練場で何百回と振るった拳の痕だ。セラは指を一本ずつ曲げ、握り込んだ。明日、この拳で戦う。
ゼノリスは二人を見つめた。――言葉は、もう要らない。
「よく休んでください。明日は、夜明け前に出ます」
カイロが短剣を鞘に収めた。セラが頷く。
三人は焚き火を後にした。
訓練場に、静けさが戻る。炎だけが、燃え続けていた。
明日、この場所に帰ってくる保証は、どこにもない。




