第22話:「カイロの鍛錬」
セラを訓練場に残し、ゼノリスはカイロを森の端へ導いた。
木々が密生し、陽光が薄暗く差し込んでいる。足元には枯れ葉が積もり、踏めば音が立つ。
ゼノリスは立ち止まり、カイロを振り返った。
「まずは潜入から始めましょう」
カイロが頷く。
「あなたの【万能の影】は、気配を消し、影に溶け込む力を持っています。それを実際に体感してください」
ゼノリスは森の奥を指差した。
「私がここに留まります。あなたは森の中を移動し、気配を消したまま、私の背後に回り込んでください」
カイロは短く応じた。
「承知しました」
◇◇◇
カイロは森の中へ足を踏み入れた。
枯れ葉が足元に散らばっている。踏めば音が立つ。
カイロは足の置き場を選び、慎重に歩を進める。体重を分散させ、音を最小限に抑える。
これまで何度もやってきた動きだ。
奴隷として使われていた頃、俺は常に気配を消していた。主人に気づかれないように。怒りを買わないように。存在を忘れられるように。
だが、今は違う。
カイロは呼吸を整えた。浅く、静かに。
今、俺は命令されて気配を消しているのではない。訓練として、技術として、これをやっている。
ゼノリス様は、俺を試している。
俺の力を、見ようとしている。
視線を巡らせ、周囲の気配を探る。風が木の葉を揺らす音、遠くで鳥が鳴く声、土の匂い。
カイロは木の幹に身を寄せた。影に溶け込むように、体を低くする。
ゼノリス様はどこにいる?
視線を巡らせる。森の端、陽光が差し込む場所。そこに、ゼノリス様の姿が見えた。
カイロは静かに移動を開始した。
一歩、また一歩。足音を立てず、気配を消す。木の幹を盾にし、影を伝って進む。
体が自然と動く。
これまで培ってきた技術が、無意識のうちに発揮されていた。
不思議だ。
これまで俺は、この技術を『生き延びるための手段』としか思っていなかった。主人の怒りを避け、暴力から逃れるための、ただの逃げ道。
だが、ゼノリス様は『才能』だと言った。
俺のこの動きが、才能?
やがてカイロは、ゼノリス様の背後へ回り込んだ。
距離は5メートル。ここからなら――
「良い動きです」
ゼノリス様の声が、カイロを止めた。
ゼノリス様は振り返り、微笑んでいる。
「気配を消し、音を立てず、影を使う。基礎はできています」
カイロは無言で頷いた。
胸の奥が、熱い。
褒められた。
こんな気持ちは、いつぶりだろう。
◇◇◇
ゼノリス様は訓練場へ移動した。
地面には、いくつかの道具が置かれている。縄、木の枝、小さな石。
ゼノリス様は縄を手に取った。
「次は、情報収集と罠解除の訓練です」
カイロが視線を向ける。
「【万能の影】は、戦闘だけではありません。情報と準備が勝利を作ります」
ゼノリス様は縄を木の枝に結びつけ、簡易的な罠を作った。踏めば枝が跳ね上がり、音が鳴る仕組みだ。
「この罠を、解除してください。ただし、音を立てず、痕跡を残さないように」
カイロは罠へ近づいた。
膝をつき、地面を観察する。縄がどう張られているか、枝がどう固定されているか。
見慣れた作業だ。指先が勝手に動く。
縄に触れる。張力を確認し、結び目の位置を探る。左手で枝を支え、右手の短剣を結び目の下に滑り込ませた。刃先を縄の繊維に当て、一本ずつ断つように引く。
縄が切れる。枝を静かに地面へ降ろした。
音は、しなかった。
カイロは短剣を抜き、慎重に縄を切った。枝が動かないよう、もう一方の手で支える。
縄が切れる。枝を静かに地面へ降ろした。
音は、しなかった。
ゼノリス様が頷く。
「完璧です。観察し、理解し、対処する。それが、あなたの本質です」
カイロは立ち上がり、短剣を鞘へ戻した。
ゼノリス様の言葉が、胸に染み込む。
俺の本質。
これまで、俺には何もないと思っていた。魔族というだけで蔑まれ、奴隷として使い潰され、存在価値すら認められなかった。
だが、この方は違う。
俺を見て、才能があると言ってくれる。
俺の力を、正当に評価してくれている。
◇◇◇
陽が傾き始めた頃、ゼノリス様は最後の訓練を告げた。
「最後に、模擬暗殺を行います」
カイロが顔を上げる。
「私を標的と見立て、背後から接近してください。ただし、私に察知される前に、間合いに入ること」
ゼノリス様は訓練場の中央へ立った。
「では、始めてください」
カイロは頷き、森の端へ移動した。
深く息を吸い、吐く。
集中を高め、気配を消す。
模擬暗殺。
カイロは息を止めた。影に溶け込むように体を低くし、足音を殺す。
ゼノリス様は訓練場の中央に立っている。背を向け、動かない。
届かせる。今日の訓練の、すべてをこの一歩に。
カイロは静かに前へ出た。
木の幹を盾にし、一歩ずつ距離を詰める。視線はゼノリス様に固定し、足元の枯れ葉を避ける。
10メートル、8メートル、5メートル。
まだ気づかれていない。
心臓が、静かに脈打つ。
もう少しだ。
カイロは最後の一歩を踏み出した。手を伸ばし、ゼノリス様の背に触れようとする。
その瞬間――
ゼノリス様が振り返った。
「そこまでです」
カイロの手が、空を切る。
ゼノリス様は微笑んでいた。
「かなり近づけました。あと少しで完璧でしたね」
カイロは手を下ろし、息をついた。
ゼノリス様は、俺に期待してくれている。
なのに、俺は――
カイロは訓練場の端まで歩き、座り込んだ。
夕暮れの光が、地面を赤く染めている。風が吹き、木の葉が揺れた。
カイロは拳を握りしめた。
「……俺は、まだ何も成し遂げていない」
呟きが、誰にも届かず消える。
これまで、俺は何をしてきた。
捨てられ、踏みつけられ、『便利なゴミ』として使われてきた。
ようやく、認めてくれる人に出会えた。
ゼノリス様は、俺を才能があると言ってくれた。☆6に到達できると、保証してくれた。
だが、俺はまだ何も返せていない。
結果を出していない。
訓練ですら、完璧にこなせなかった。
カイロは俯いた。拳に、力がこもる。
俺には、価値があるのか。
本当に、才能があるのか。
それとも、ゼノリス様の期待を裏切って、また捨てられるのか。
不安が、胸を締め付ける。
俺は――
「カイロ」
声が、カイロを現実へ引き戻した。
顔を上げると、ゼノリス様が立っていた。
◇◇◇
ゼノリス様はカイロの隣に座った。
夕暮れの光が、二人を照らしている。
ゼノリス様は静かに口を開いた。
「焦る必要はありません。あなたは確実に強くなっています」
カイロが視線を向ける。
ゼノリス様の目は、穏やかだった。
怒りも、失望も、そこにはない。
「今日の訓練を振り返ってみてください。潜入では、私に気づかれることなく背後へ回り込めました。罠解除では、完璧に対処できました。模擬暗殺では、あと一歩のところまで迫りました」
ゼノリス様はカイロを見つめた。
「一日でここまで成長できるのは、あなたに才能があるからです」
カイロは無言で聞いている。
胸の奥が、また熱くなる。
失敗したのに、怒られない。
捨てられない。
それどころか、褒められている。
「結果は、必ず後からついてきます。今は、一歩ずつ進むことだけを考えてください」
ゼノリス様の言葉が、カイロの胸に染み込む。
焦らなくていい。
そう言われたのは、初めてだった。
これまで、俺は常に急かされてきた。早くやれ、完璧にやれ、失敗するな、と。
だが、ゼノリス様は違う。
一歩ずつでいい、と言ってくれる。
カイロは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
短い言葉だが、そこには深い感謝が込められていた。
ゼノリス様は微笑み、立ち上がった。
「明日も、訓練を続けましょう」
カイロも立ち上がる。
夕暮れの空を見上げた。
……明日も、やる。明後日も。結果が出るまで。
カイロは立ち上がり、訓練場へ視線を戻した。セラが一人で素振りを続けている。拳を振るたびに、風が鳴っていた。
――あいつも、戦っている。
カイロは静かに歩き出した。




