第208話:「新世界の成立」
ゼノリスは壇の上で、外の音から厚みが剥がれていくのを聞いていた。
叫び続けた喉が、順に疲れたのだろう。残ったのは石を踏む足の音だけで、それも一定ではない。帰る者が出て、残る者が場所を詰めて、また止まる。
足元の石は朝から一度も温まっていない。靴の底を通して冷えが上がってくる。窓から落ちた光は、玉座の間で三人を受けたときより長い。いまは壇の裾まで届いている。
横に立ったセレナは、前で組んだ手を動かさない。
カイロが扉の内側で顎を引いた。
開いたままの扉を、人の列がくぐった。
入ってきたのは、二十人ほどだった。
先頭は麻の外套を羽織った中年の男で、胸に穀物の穂を象った留め具をつけている。その後ろに、白衣の裾を短く切った者が三人。工具袋を提げているのが遠目にも分かった。最後に入ってきた一団は、日に灼けた首をしていた。海の色を引きずったまま石の廊下を歩いてきた顔だ。
三国の代表が連れてきた者たちだった。
三人が下がって、列の前へ並び直した。
ゼノリスは壇の下へ目を向けた。
揃った顔が光の面へ上がった。何人かはすぐに戻して、壁の高さを目で追う。柱に手を触れて、指を離せずにいる者もいた。
歓声はまだ外にある。
『勇者様を、殺したのに』
そう言った女の喉の鳴り方を、ゼノリスはまだ耳の底に持っていた。あの女はいま、この歓声のどこかに立って口を閉じている。
ゼノリスは半歩だけ踏み出した。
「これから話すことは、三国だけの話ではありません」
連れてこられた者たちへそう言い、そこで視線を切って、頭上へ向けた。
「聞いている全ての人へ、伝えます」
広間の音が落ちた。
白衣の一人が、手にしていた工具袋を床へ下ろす。革が石に触れる音だけが残った。
その音が消える前に、ゼノリスは口を開いた。
「聖教会が定めた、鑑定石制度を廃止します」
言い切った。
「これからは、誰もが努力で成長できる世界を。本質による正当な評価を。誠実な国造りを始めます」
言葉が広間を渡っていく。柱と柱のあいだを抜け、奥の壁に届いて、そこで音の形を失った。
ゼノリスは続けた。
「明日から、石に触れる必要はありません」
麻の外套の男が、口を開けたまま止まった。
外が変わったのは、その少しあとだった。
薄くなっていた足音の層が、下から押し戻されるように盛り上がってくる。ひとつの喉ではない。ばらばらの高さで上がったものが途中で束になり、城門から城壁を伝って、窓の桟を鳴らした。石の床が細かく震えている。靴の底がその震えを拾い続けた。
正面で、エドワードの手が動いた。
冠を持つ指が、金の縁から離れて、また掛かった。掛け直した位置が浅い。
ファウストは動かない。ただ、手袋を嵌めた側の指が、自分の肘を掴んで離さずにいた。
アドリアーノの視線は、床の一点で止まったままだ。
城門の向こうで、歓声がひとつ高いところまで昇った。
その下で、声がした。
「……そんな」
広間の中だった。
列の後ろにいた、まだ若い男だ。両手を身体の脇に垂らしたまま、こちらへ顔を向けている。
「じゃあ、俺の……」
言葉が途切れた。
男の右手が腰の袋へ動いた。探る指が中で止まり、それから引き出したのは、掌に収まる小さなランクタグだった。ひとつだけ刻印が残っている。
男はそれを握った。
握って、下ろさなかった。
周りの者が半歩ぶん離れた。誰も声をかけない。外の喜びは、まだ途切れずに続いている。
その手を、ゼノリスは見ていた。
外の声が、言葉の形を保てなくなっていた。塊になって城壁を這い上がり、輪郭を失ったままこの広間へ届いてくる。
初めて泥に膝をついた日のことが、その底から引き上げられてきた。
森の中だった。膝を折ると、冷たい泥がすぐに布を通してきた。倒れていた青年は目を開けたまま、何も追っていない。囮に使うために連れ歩き、用が済んだから置いていった。魔人族だから、という理由がひとつあれば、それで足りる世界だった。
足首には、鉄の足枷が残っていた。
その頭上には、誰にも見えない星があった。青年自身にも見えていなかった。こちらが名を呼ぶまで、あの男は自分がゴミだと信じ込んでいた。
その男と歩いた先の、崩れかけた小屋にも一人いた。這ってそこまで辿り着き、壁際で力尽きていた少女だ。骨と皮だけの重さしかなかった。唇へ水を運ぶと、喉がかすかに動いた。
名を呼べば、こちらへ来る者がいた。
だが、名を呼びに行けた者は五人だ。
いま外で声を上げているのは、五人では済まない。数えようとすると、数の側が先に足りなくなる。
残りは、行けなかった。
道の脇で朽ちた者、街道の宿で番号だけを言い渡された者、石の前で顔を伏せたまま帰っていった者。ゼノリスは一人も見ていない。外で鳴っている音の底に、その顔が沈んでいる。
その底が、割れた。
「魔王様が、私たちを認めてくれた!」
女の声だった。
高い。裏返って、途中で言葉が折れた。折れた先を女がもう一度なぞる。二度目は近くの誰かが重ねた。三度目には、離れた場所からも同じ形が返ってきた。
ゼノリスは窓の方角を見た。
石を叩く音が混じっている。手ではない。何かを地面に打ちつけている音だ。それが幾つも続いて、そのたびに声の位置が変わる。何かが割れる音も混じっていた。
誰かが泣いていた。
泣き声は歓声に埋もれない。喉の使い方が違うからだ。悲鳴に近い高さで一度上がり、それから息継ぎのたびに切れて、切れながら続いている。
あの声の主を、ゼノリスは知らない。
知らないまま、この宣言はあの喉まで届いた。
「ゼノ様」
セレナが隣で言った。
それだけだった。次の言葉は続かない。組んでいた両手が解けて、片方が胸の前で止まっている。
ゼノリスは前を向いたまま、頷いた。
「見えていますか」
壇の左手から、明るい声が飛んできた。
セラだった。窓の方へ体ごと向いている。
「石畳の端の方、旗を振ってる人がいます。……あれ、布ですね。上着です」
誰も答えないうちに、セラは首を戻した。
「シルヴァ、いま笑いました?」
「笑っていません」
シルヴァは手を動かさずに答えた。
「術式の維持中です」
「絶対笑いました。口の端が、こう」
「していません」
「じゃあ、なんで指が震えてるんですか」
シルヴァの肩が、そこで一度だけ上下した。
「……維持しているからです」
言い終えて、シルヴァは顔を上げた。目を向けたのは、自分が保っている像の中ほどだった。
「魔術の真理を、全ての人に開きます」
声の高さが変わらない。喜びを乗せるための抑揚が、そこには一つもなかった。
「あれは、才能のある者だけのものではありません。順序を教えれば、誰でも組めます。教えないことで守られていた権威は、今日で終わりです」
セラが口を開けて、閉じた。
それから、窓の方へ耳を戻した。
「……誰もが、自分の力を信じられる世界に」
さっきまでの、飛んでくる声ではなかった。
セラは自分の右の拳を見ている。ひとりでに握られていた指を、ゆっくり開いた。
指が開ききったところで、セラの口の端が上がった。
その隣で、ガルムが息を吸った。
「嬢ちゃん」
白い眉の下から、セラを見下ろしている。
「わしらが守り抜いた世界じゃ」
声が途中で厚くなった。ガルムは咳をひとつして、それを喉の奥へ押し戻した。
「……わしが嬢ちゃんに会うたときには、お主はもう拳で立っておった。それより前のお主を、わしは知らん。知らんまま、隣に置いてもらってきた」
セラが顔を上げた。
「ガルム、いま泣いて――」
「泣いておらん」
ガルムは目元を親指で拭った。拭ってから、その指を握り込んだ。
「泣いていますよ」
柱の陰から、ノアが顔だけをこちらへ向けていた。地図筒を抱えたまま、壁から背を離していない。
「ガルムさんが泣くのは今日で四度目です。僕が数えている範囲でですが」
「数えるな」
「記録は僕の仕事です」
ノアは筒の口を指で叩いた。それから、その手を止めた。
「……ですが、今日のぶんは書きません」
セラが噴き出した。ガルムが唸った。
ノアは二人を見ていない。顔だけが声の来る方角へ据わっている。
「制度が消えた場所には、何もありません。明日、白塔の窓口の前に立つ人がいます。その人に、こちらは何と言うのか」
言葉を切って、ノアは息を継いだ。細い肩が一度上がって、下りた。
「これからが、本当の始まりです」
返す者はいなかった。
外の音はまだ続いている。続いているのに、広間の中だけが静かになった。
その静けさへ、扉の内側から声が入った。
「担架のまま、聖都に置いてきた者がいる」
カイロだった。壁を離れて、一歩だけこちらへ出ている。手にした筒は、まだ脇に立てている。
「名を取り戻せていない者もだ。制度を潰したから片づく話じゃない。俺たちの戦いは、終わらない」
セラが振り向いた。
「カイロ、こんな日にそれ言う?」
「こんな日だから言う」
カイロはセラを見ない。
「浮かれた側から先に忘れる。俺は忘れない側にいる。この世界を守り続ける」
言い切って、それきり口を閉じた。
セラが何か返そうとして、やめた。そのまま、小さく頷いた。
ゼノリスは五人を順に見た。
誰もこちらを見ていない。セラは窓の外、シルヴァは自分の張った光、ノアは抱えた筒の口。ガルムの親指はまだ目元から下りず、カイロは扉の際から動かない。
セレナが半歩だけ詰めた。触れはしない。解いていた手を、もう一度組み直しただけだった。
窓の外では、声の形がまた変わっている。名を呼ぶ声が減って、代わりに歌に近いものが混じり始めていた。誰かが節をつけ、周りが拾い、拾いきれなかった者がずれたまま声を出している。
壇の下で、アドリアーノが指輪から親指を離した。回すのをやめている。
列の後ろで、若い男がまだ立っていた。
握った手は下りていない。周りの者が窓の方へ体を向けても、その男だけが向きを変えなかった。掌の中のものを、放しはしない。放さないまま、顔だけを壇の方へ上げている。
ゼノリスはその目を受けた。
明日、あの男は自分の値を石の色で言えなくなる。代わりに何を言えばいいのかを、こちらはまだ渡していない。
男の拳は、まだ開かない。




