第207話:「各国の服属」
「三通、届いています」
カイロが束を机の上に置いた。光はまだ机の脚まで来ていない。その後ろで、ノアが地図筒を床へ立てた。
ゼノリスは羽根ペンを置いた。聖都が落ちて半月になる。決裁を待つ紙は日ごとに増えていた。
「聖都は」
「白塔区の窓口を閉じました。聖教会の認可は、昨日で全て効力を失っています」
カイロの声に温度はない。
「上に座っていた者から引き取りました。首を落とす者と位を落とす者を、法務長官のユースティンが分けています。審理の順を決めるだけで三日です」
「祈りたい者は明日も祈れます。仕組みだけが無くなります」
カイロが机の縁から手を引いた。
「もう一つ、終わっていないものがあります。魔王軍の者たちと塀の区画から出した人たちです。けがを負った者たちが、まだ聖都から動かせていません。名前の戻らない者も、まだ何人か」
ゼノリスは束の角に指を掛け、カイロを見た。
「聖都ルメナの扱いは」
「魔王国の国土として、手続きに入っています」
頷いた。
窓の外へ目を向ける。空を塞いでいたものは、もうない。雲が流れているだけだ。
「三通の中身ですが」
ノアが束の端を指で押さえ、上から順に並べ替えた。紙の擦れる音が続く。
「西のグランフェル王国、東のアルディア工都連邦、南のマリナス海運王国。三通とも同じです」
指が止まった。
「服属の申し出です」
ゼノリスは一番上の一枚を見た。封は切られている。
聖教会が退いたいま、世界を治めている国は魔王国とこの三国だけになった。
ノアが顔を上げた。目の下の隈が朝の光で濃く見える。
「三国とも、今日の午前に代表の者たちが着きます」
誰が最初に膝を折るかを、互いに見ていたのだろう。
「玉座の間で受けます」
ゼノリスは立ち上がった。
「一人ずつ通してください」
◇◇◇
高い窓から差した光が、磨かれた石の床に長い帯を引いていた。
ゼノリスは玉座を背に立っている。傍らでセレナが両手を身体の前で重ねていた。カイロは壁際にいる。そこにいることは、こちらから探さないと分からない。
扉の向こうで、低い声が短くやり取りされた。
声の高い方が扉を押した。
入ってきたのは一人だった。供も、儀仗もない。黒髪をおかっぱに切り揃えた頭に、教会式の冠が載っている。首から胸へ下がる黄金の穂章が、歩くたびに鳴った。
人族の男だ。穀物を作る国の王でありながら、その手に日焼けの跡がない。
「魔王陛下」
声が天井まで届いた。
「まずは神の導きに感謝を……いや」
言い直した。
「感謝を申し上げるべきは、あなたにです」
エドワード・グランフェルは玉座の手前で足を止め、冠を両手で外して胸に抱えた。抱えたまま片膝を折る。
「グランフェル王国は、魔王国に服属する。食料支配をやめ、民のための農業を」
言い終えて、両手を胸の前で合わせた。施しを配る形のまま、掌が震えている。
この男が恐れているのは、配る側から配られる側へ回ることだ。
「受けます」
ゼノリスの声に、エドワードの肩が下りた。
「ただし、記録を全て出してください。どの街にどれだけ配ったか。配らなかったのはどこか」
下りた肩が止まった。
「……全て、ですか」
「全てです」
抱えた腕に力が入った。金の縁が指の腹に食い込んでいる。
「配らなかった街を選んだのは、私ではありません。教会が」
「あなたの署名が入っているはずです」
言葉が途切れた。
足元を見たまま、エドワードは黙った。冠を胸に押しつけ、顎を引く。
「……承知しました」
立ち上がる時、膝が軋んだ。
◇◇◇
次の男は、扉が開ききる前に喋り始めた。
「魔王国の術式体系について、先に確かめたいことがある」
白衣の裾が石を擦る。片方の腕は肘から先だけが光を返していた。指の関節に継ぎ目がある。魔道具の義手だ。もう片方の手には、刻印を彫り込んだ手袋を嵌めている。
人族だった。背は曲がらず、歩幅も揺れない。だが、瞬きの数が多い。
「筆頭魔導技師ファウストだ。アルディア工都連邦から来た」
名乗りだけが短かった。
「再現性の基準はあるのか。誰が使っても同じ結果が出る、という意味での基準だ。あなた方の魔術兵団は術式を個人の資質から切り離している。切り離せているなら、その保証はどこにある。工房の炉と同じで、同じ手順で同じものが出ないなら、それは技術ではない」
息継ぎの場所が、こちらへの問いになっていない。
「聖教会の基準は魔力量だった。私はそれに合わせて体系を組んだ。合わせなければ認可が下りないからだ。認可の下りる体系と、正しい体系は違う。違うことは分かっていた。分かっていて組んだ」
義手の指が掌の上でゆっくり閉じていった。
「あなた方は、それを正面から壊した」
「壊したのは魔術兵団の団長シルヴァです」
ゼノリスは言った。
「私は、あれを正しく評価しただけです」
ファウストの口が開いたまま止まった。
瞬きが途切れた。それから白衣の裾を握った。握って、離した。
セレナの指が、重ねた手の甲を押さえた。
ファウストが息を吸った。
「……理屈に合わないものは存在しない。私はそう言い続けてきた」
声が下がった。
「存在していたのは、私の理屈の方が狭かったという事実だけだ」
定型を読まなかった。
ファウストは腰から頭を下げた。
「アルディア工都連邦は、教会の基準を捨て、手順で技術を測る」
「受けます」
ゼノリスはその背を見た。腰は折れているが、顎は下がっていない。自分より正しい手順に席を譲っただけだ。
「一つだけ、お願いがあります」
「言ってくれ」
「あなたが正しいと思う手順を、書いて出してください。誰が読んでも同じ結果になる形で」
下げていた顔が上がった。
「……それは」
義手の関節が高く鳴った。
「それは、私が一番やりたかったことだ」
◇◇◇
三人目は、入ってきてから何も言わなかった。
絹の薄い白服が、歩くたびに脚の形を拾う。左手の指に金の指輪。脇に細い筒を挟んでいる。
まず天井を見た。それから窓、玉座、足元。最後にこちらの顔で止まった。
「マリナス海運王国、海商王のアドリアーノです」
声は、商談の席で最初に出す高さだった。口の端が、値を言う前の形をしている。
「マリナス海運王国は、魔王国に服属する。物流独占をやめ、公正な交易を」
脇の筒を抜き、両手で差し出す。背筋は伸びたままだ。
「航路図の写しです。全ての港と、水深と、風待ちの日数が入っています。これで、南の海はそちらのものになる」
カイロが壁から離れ、筒を受け取った。アドリアーノは空になった両手を下ろした。
「そのうえで、一つ申し上げておきます」
アドリアーノが顔を上げた。
「私は、あなたに忠誠を誓いません」
広間の音が消えた。
「船は、得になる方へ行きます。今日はそちらが得だ。明日もそうなら、明日も行きます。そういう取引です」
セレナの肩が上がって、そのまま落ちてこない。
カイロが筒を持ち直した。足は動いていない。それでも壁際の空気が張った。
ゼノリスは首を横に振った。
カイロの気配が壁へ戻る。
「それで構いません」
アドリアーノの目が、値踏みの高さから下りた。
「……聞き間違いですか」
「聞こえた通りです」
忠誠を条件にすれば、この男は今この場で嘘をつく。
「船を出す理由は、あなたが決めてください。ただし、やめる時は先に言ってください。黙って引き上げられると、港で待っている人が死にます」
親指が指輪の縁に掛かった。
「……値のつけ方が違う」
アドリアーノは踵を返した。玉座の間を出ていくまで、頭は一度も下がらなかった。
扉が閉まる。
足音だけが廊下の奥へ遠ざかっていった。
◇◇◇
廊下を渡るあいだ、後ろで三人分の靴音が離れたり近づいたりしていた。
大広間の扉は開け放してあった。
床に紋様はない。術式陣は別の広間へ移してある。柱と柱のあいだが、何も置かれないまま奥まで抜けていた。
壇の左手にセラ、その隣にガルム。ノアは柱の陰で地図筒を抱えている。カイロは扉の内側で、預かった航路図の筒を脇に立てていた。誰も口を開かない。
シルヴァが壇の横で腰を落とし、片手を石へ伏せた。
指の下から線が出た。
線は壇の足元を回り、柱の根を巡り、壁際まで走って切れた。遠映の術式が、天井の下へ光を薄く広げた。その像が窓の枠を越え、外へ出ていく。シルヴァは石から手を離した。
同じ光景が、いま三つの国の空の下にも届いているはずだ。半月前まで塀と祭壇を運んでいた像が、今日はこの床の石を運んでいる。
セレナが隣に来た。
「ゼノ様」
それだけ言って、前を向く。
壇の下に三人が並んだ。エドワードが冠を胸から下ろし、両手で前へ捧げ持った。ファウストは義手を背へ回した。アドリアーノは手を下ろしたまま。
ゼノリスは一歩前へ出た。
「私は、全ての者をその本質で評価する。生まれや種族ではなく、誠実さと努力で」
声が天井を叩いて戻ってきた。その声を、広がった光が拾って外へ運んでいく。
「この世界に、真の平等をもたらす」
窓が鳴った。
外から声が来た。城門前広場だ。石を踏む音と、人の喉が一度に開く音が、窓の桟を震わせて入ってくる。近い方の声が先に届き、遠い方が遅れて重なり、区別のつかない厚みになった。
「魔王様が、世界を変えてくれる!」
誰かがそう叫んだ。
同じ言葉が別の場所で上がり、その数が増えていく。窓枠の埃が浮き、床まで音が下りてきた。
その厚みの切れ目で、女の声が一つ通った。
「勇者様を、殺したのに」
息の途中で押し出された音だった。誰に聞かれるかに、口にしてから気づいたらしい。
言い返す者はいなかった。歓声がすぐに被さって、その一言は聞こえなくなった。
消えたわけではない。
外の匂いがあとから来た。人いきれと、どこかで焚いている煙。足元の石は朝から冷えたままで、匂いだけが温かい。
壇の下で、エドワードとファウストが光の像を見上げていた。
アドリアーノは見上げていない。
その手の中で、金の指輪が回っていた。




