第206話:「決着」
祭壇の段を、赤い法衣が下りてくる。
塀の外の窪みから、カイロはそれを追った。段の裾では、聖騎士の槍がもう下りきっている。法衣は区画の門を使わずに、裏手へ回った。連れているのは側近が一人きりだ。荷はない。抱えているのは革の箱がひとつ。
段の上へは、一度も顔を向けなかった。
影へ入った。
道の脇の岩、枯れた木、崩れた柵。日が高くなるほど影は痩せていく。痩せても、繋がってさえいれば足は置ける。二十歩ぶんの距離を保ったまま、【絶影】の内側を歩いた。
赤い法衣は聖都へ向かっていた。
街道には出ない。荷車の轍を避け、畑の縁を伝い、人の少ない側へ側へと回り込んでいく。逃げ慣れていない足だ。踵が浮いて、爪先ばかりが急いでいる。それでも方角だけは揺れなかった。行き先は朝のうちに決めてある。
城壁が近づくと、道の上に人が増えた。
武器を土へ置いた敵兵の列。担架。味方の騎士団が門の内と外を行き来している。開いた門から、味方の隊列が二列で入っていく。その先頭にライカがいた。
赤い法衣が、その列の脇を抜けた。
誰も止めなかった。門を押さえている味方は、赤が聖都の内側で何を意味するかを知らない。
門の影を渡った。
石畳に変わった。土を踏んでいた足が、乾いた硬さを返してくる。聖都の中は静かだった。窓の板が全部閉まっている。閉めたきり、誰も開けに来ない。
大聖堂前の広場へ続く道に、人の頭が詰まっていた。空を仰いだまま動かない背中が、道幅いっぱいに並んでいる。
ベネディクトはその手前で脇へ逸れた。
人の下を避けて、白塔区へ入る道を選んでいる。
軒の影から影へ跳んだ。
側近が後ろで一度つまずいた。膝を石にぶつけて、それでも主の腕の中へ手を伸ばす。ベネディクトは振り向かない。歩幅が速くなった。裾が石を擦る音が、法衣の内側に隠れきらずに鳴っている。
角の先に、白い塔の下端が見えた。
そこでカイロは影から出た。
道の真ん中に足を置いた。
「そこまでだ」
ベネディクトの足が止まる。革の箱を抱え直す手が、途中で固まった。側近が主の前へ体を入れかけ、カイロの位置を見て、動けずにいる。
白髪が肩の上でずれていた。整えていた形が崩れたまま、直されていない。
「……貴様」
喉から出たのは、それだけだった。
目がカイロの後ろへ動いた。門の方角だ。くぐってくる隊列の足音が、石畳を伝ってここまで届いている。その音が途切れない。前の列が入りきっても、後ろの列がまだ続いている。
「……全勢力を投入したはずです」
声が掠れた。
「……計算が合いません」
答えなかった。
投入した全勢力の内訳なら、こちらの方が正確に知っている。聖騎士団の出撃順も、連合軍が街道へ着いた刻限も、勇者軍の予備がどこで待機していたかも、ノアの紙の上に載っていた。
箱の縁を、指が掴み直した。
「お前の策も、全て見抜いていた」
カイロは言った。
喉が動いた。目がカイロの顔を探る。
「貴様……いつから……」
「最初からだ」
言い終える前に、カイロは間合いを詰めていた。
側近が肩を割り込ませてくる。その腕の下をくぐり、手首を取って外へ捻った。膝の裏を蹴る。側近が石畳へ落ちた。声も上げないうちに、箱はカイロの手に移っている。留め具が、その拍子に折れた。
ベネディクトが後ろへ下がった。
二歩目で、背が壁に当たった。
箱を足元へ置き、右手で法衣の襟を掴んだ。掴んで、前へ引いた。抵抗はなかった。
手首を後ろで揃え、道具袋の紐で二重に巻いた。
終わった。
足元に、白い髪が一筋だけ落ちている。
その男を立たせた。壁を背に、足で立つところまで戻して、そこで手を離した。
ベネディクトは俯かなかった。
息は乱れている。襟は歪み、右手の指輪が緩んでいる。それでも顎は下りていない。目だけが、まだこちらを測っていた。
「……その箱を、どうするつもりですか」
ベネディクトの声が戻っていた。
カイロは足元の箱を持ち上げた。折れた留め具の下から、中の紙の角が覗いている。白塔の判定記録だった。
「証拠として残す」
「残してくださって構いません」
ベネディクトの口の端が上へ引かれた。頬はついてこなかった。
「一枚残らず読んでいただきたい。石がどう光ったか、こちらが何と決めたか。どちらも消していません」
カイロは箱の口を閉じた。
「書いた者を裁く」
「裁いてください。私を吊るしても結構です」
ベネディクトの言葉は途切れなかった。壁に背を預けたまま、まだ喋っている。
「ですが、あの紙の代わりを、あなた方は持っていますか。明日も白塔の窓口は開きます。石に触れた者の前で、誰が何と言うのですか。あなた方は、まだ何も書いていない」
カイロは黙って聞いた。
「秩序というものは、憎まれ役が要ります。誰かが決めなければ、誰も名乗れないからです。私が消えても、その役は残ります。あなた方の中の誰かが、明日そこに座ることになります」
声が高くなった。
箱の留め具を指で押さえた。
この男は謝らない。恐れてはいる。喉が息を継ぐたび、襟の下で肩が細かく上下している。
「そこは埋めない」
カイロは言った。
「潰す」
ベネディクトの目が、初めて揺れた。
揺れて、それから細くなった。
「……できるものなら」
その先は続かなかった。
道の向こうから、味方の兵が二人、こちらへ走ってくる足音がした。捕虜を受け取りに来る側の足取りだった。
顔を上げた。
空の端で、緑が上がっていた。
細い一本が塀のある方角から真っ直ぐに伸びている。風に流されて、途中から斜めになった。
カイロはその色だけを見た。
足元では、壁を背にした男が、まだ口を閉じていない。
◇◇◇
街道からも、同じ緑が見えた。
ゼノリスは城壁の外で足を止め、その一本を目で追った。塀の方から立って、風に押されながら伸びていく。色は途中で薄くならない。上げた者が、火を絶やさずに焚き続けている。
後ろで荷車の軋みが途切れた。
紙を繰る音が近づいてくる。
「ゼノ様」
ノアが地図筒を抱えて横に並んだ。呼吸が整っていない。走ってきた距離のぶんだけ、肩が斜めに落ちていた。
「秘密施設の制圧、完了しました。救出が始まっています」
言い終えてから、ノアは筒を持ち直した。
「リゼットさんが上げています」
頷いた。
道の左右で、音が変わった。歓声は上がらない。空の一点で視線が止まり、そこから下りてこない。それから担架を下ろす音がして、水袋の口が開き、誰かが草の上へ座り込んだ。剣を鞘へ収める金属の擦れが、あちこちで一度ずつ鳴って、それきり続かない。
守護隊の兵が一人、盾を地面に立てかけて、その縁に額を当てた。
肩が上下している。
「もう一件、報せがあります」
ノアが声を落とした。
「勇者が、聖都へ入りました。祭壇を捨てて、大聖堂前の広場へ回っています」
「供は」
「いません」
ノアの指が、筒の口を軽く叩いた。
「連れて行ける者が、もう一人も残っていません」
ゼノリスは門の方角へ顔を向けた。
開いた門の内側に、聖都への石が続いている。
「行きます」
王衣の裾を払い、歩き出した。
◇◇◇
広場は、まだ空だけを向いていた。
石を埋めていた塊は薄くなっている。それでも残った者が、空を仰いだまま立っていた。ゼノリスが石畳へ足を踏み入れると、いちばん近い列の背中が振り返り、それから左右へ引いた。誰も押していない。自分の足で下がって、道を空けた。
空いた先に、白い鎧があった。
勇者が広場の中ほどに立っている。純白の聖鎧は汚れていない。血を吸っても、この鎧には残らない。その白の下で、金の髪が肩に貼りついていた。汗が乾ききっていない。
ゼノリスは足を止めた。
十歩ぶんを置いて向き合う。
頭上で、像の縁が引かれた。
街道を映していた枠が縮み、こちらの頭上へ寄ってくる。広場を映していた枠がその横へ滑り、白い鎧の顔を大きく抱えた。二つが並んだ。
セレナがいた像は、もうそこにはなかった。
ゼノリスは瞳の焦点を変えた。
勇者の頭上に、星が浮かんでいた。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
権能はない。だが、特殊技能の【力の略奪】は、まだある。
あの夜、見たものと一つも変わっていない。何百人の力を掌に入れようと、この男の限界はここで閉じたままだった。
「まだだ!」
勇者の喉が鳴った。
「まだ……俺はまだ終わっていない!」
叫びが広場を走って、大聖堂の壁で跳ね返ってきた。
その右手が持ち上がる。
掌が開き、指がこちらへ向いた。空気が粘つく。力を奪う手つきだった。ゼノリスは動かずに待った。
今度は、掴んだ。
勇者の指が閉じ、握り込んだものを引き寄せる。左手が聖王の剣を鞘から引き出した。刃が日の光を裂いて、頭の上まで上がる。
構えが変わった。
右足を半歩引き、切っ先を下げ、肘を内側へ畳む。私の型だ。何年もかけて体に刻まれた形を、そっくり借りている。
勇者が踏み込んだ。
速い。奪った速さは本物だった。一息で間合いを潰し、白い刃が斜めに落ちてくる。
ゼノリスは剣を抜いた。
落ちてきた刃の腹を、抜き際の一振りで外へ流す。金属が擦れて火花が散り、勇者の切っ先が石を叩いた。
二手目が来ない。
型が続かなかった。斬り下ろした先の足の置き場を知らない。借りた形は一つ目までだ。
勇者が剣を引き戻す。
「――止まれ」
引き戻した腕が、途中で沈んだ。
握力が抜けている。柄の重さに指が開き、慌てて締め直した。奪ったものが掌の内側から出ていく。堰き止める手がない。
「ふざけるな……ふざけるな!」
勇者が二度、三度と刃を振った。
一度目は届かず、二度目は勢いだけで泳ぎ、三度目は自分の重さに引かれて肩から流れた。
ゼノリスは置く足を変えただけだった。
三度とも、刃は直前まで立っていた場所を斬っている。最後の一振りの根元へ剣の峰を当て、片手で返した。
聖王の剣が石の上を滑っていった。
金属が石を打つ音が、広場の端まで届いた。
勇者が膝を折った。
両手が石を押さえる。爪先が滑って、白い鎧の腹が地面に近づいた。それでも顔だけは上げていた。
剣を下げた。
「貴方の格付けは、プラチナ級でしたね」
声を広場へ放った。
枠の中で、勇者の顔が引きつった。
「本当は、ブロンズ級の力しかありません」
勇者の唇が動く。音にならない。
音が消えた。
前の列で、誰かの膝が石に落ちた。誰もそちらを見ない。
「嘘だ」
掠れた声だった。
「嘘だ……俺は勇者だ! 世界最強の……!」
叫んだ拍子に、勇者の腕が石から離れた。
支えを失った上体が前へ落ちる。頬が石に着き、それでも口はまだ動いていた。女神の名を呼んだ。次に自分の名を呼んだ。そのどちらにも、応えるものがない。
白い鎧の肩が、内側から萎んだ。
あの塀の中から吸い上げたものが、その体を素通りして抜けていった。
ゼノリスは一歩前へ出た。
勇者の目がゼノリスを捉えた。
その目に、もう怒りはなかった。奪う相手を探す色もない。ただ、自分が何を失ったのかを掴めないまま、瞳孔だけが揺れている。
斬りたかった。
勇者が奪ったものの数を、ゼノリスは全部言える。言えるからこそ、ここで斬れば私怨になる。
「貴方の罪は重い」
剣の切っ先を、ゼノリスは持ち上げた。
「ですが、……私は誠実に裁きます」
振り下ろした。
一度だけだった。
刃が首を通り抜けた。
白い鎧が、支えを失って前へ倒れた。
汚れない鎧のはずだった。その下から、赤が石畳へ広がっていく。
ゼノリスは刃を返して血を落とし、鞘へ収めた。それから膝を折り、勇者の瞼を指で閉じた。
立ち上がる。
広場は静まっていた。
その静けさの上で、頭上の左の枠が動いた。
塀と祭壇の像の中で、門が内側から開いていく。人が出てくる。一人、二人ではない。列になって、区画の外へ歩いていく。抱えられている者がいる。抱えている者がいる。先頭で腕を振って流れを作っているのは、外套の前を合わせた小柄な背中だった。
ゼノリスは空を見上げたまま、息を吐いた。
あの門から出た者は、生きて出た。
あの門を出なかった者の顔は、この空に一度も映っていない。
「聖都ルメナは、落ちました」
顎を上げ、声を張った。
「勇者アリアスは敗れました。聖騎士団は武装を解いてください。この街に、もう戦う者はいません」
言い終えて、石の上を見渡した。
誰も動かない。
その中から、最初の声が上がった。
「勇者様が……負けた……」
男だった。膝が笑っている。自分で言った言葉に、自分で殴られたような顔をしていた。
二つ目は違う場所から来た。
「殺した」
若い女が、両手で口を押さえたまま言った。
「殺したじゃないか……あの人を、殺した……!」
その隣で、別の女が首を振っていた。振りながら、泣いていた。何に対して泣いているのかは、本人にも分からない顔だった。
広場の東の端では、老人が跪いて石に額をつけている。
北の端では、若い男が二人、掴み合いになっていた。片方が勇者の名を叫び、もう片方がそれを殴った。周りの者は止めない。見てもいない。
列の中ほどで、誰かが手を打とうとした。周りの音とどこも噛み合わずに、二度で止まった。
高くなった日が、そのどれにも同じ角度で差していた。
ゼノリスはその真ん中に立っていた。
空の枠は、まだ世界へ開いたままだ。この石の上で上がった声が、そのまま西の王都へ、北の鉱都へ、南の港へ流れていく。
聞いた者たちが、次に何を言い出すか。
一言目を、ここで受け取るつもりでいた。




