第205話:「連携と圧倒」
足の裏に来るものが、入れ替わった。
鉄が鉄を打つ震えは硬く、細かい。人が土を蹴る震えは鈍くて広い。シルヴァはその二つを朝から受け続けてきた。いまは硬い方が薄れ、鈍い方が増えている。来る方角もずれた。正面ではない。門の左手だ。
右腕を下ろしていない。
頭上の三つが、まだ空を塞いでいる。塀と祭壇。大聖堂前の広場。街道を進むゼノ様とセレナ。指の先に、届いた先の一つ一つが糸で繋がっている。糸は絶えず揺れて、聖都の広場で誰かが息を呑めば、その震えがここまで戻ってくる。
肩から先の感覚は、とうに薄い。
背後の輜重の列で、車輪が土を噛んだ。荷を寄せる声。それらの下から、細かい歩幅の足音が近づいてきて、二歩ぶん手前で急に減速した。術式陣の縁で止まる時の踏み方だった。
「シルヴァ様」
エルネスだった。
息が上がっている。細い指が、外套の裾を握ったまま開かない。
「像の維持は、私が引き受けます」
空へ向けた顔は、そのままにした。
エルネスが何を見て走ってきたかは、足音の入り方で分かる。左へ寄った戦線を、この人も同じ耳で聞いている。
「大変ですよ」
それだけを言った。
「知っています」
エルネスの声が、一段低くなった。
「私が維持します!」
風が二人のあいだを抜けた。
空に据えた右手の指が、少しだけ開いた。糸の束が指の腹から浮く。この構造を言葉にして渡すには、三十に近い節を順に並べなければならない。組んだ本人にしか読めない箇所が、その中に七つある。
「聞いてください。基幹は三本。中心が一本、外へ二本。分岐は端で二十四。端の節は自分から光りませんので、鳴っているかどうかは指の腹で確かめてください。中心の一本を落とすと、残りの二十六が同時に落ちます」
エルネスが左手を上げた。
「七番目の節だけ、組み方が違います。ここは押さえるのではなく、通してください。押さえると割れます」
「――七番目は、通す」
エルネスが復唱した。
糸束を、エルネスの手へ寄せた。
渡す瞬間は一拍もない。持っている側が離し、受ける側が掴む。あいだに空白ができれば、三つの像は同時に落ちる。
指を離した。
エルネスの膝が沈んだ。
片方が土に着く手前で止まり、そこで震えた。上げた左腕が、肘のあたりから外へ流れかける。指の腹が白く光り、光の粒が一つ、二つと散った。細い喉が、息を吸いきれずに鳴った。
だがエルネスは腕を落とさなかった。
肘の角度が戻る。指が空を指し直す。頭上の三つは、揺れもせずにそこにある。
「……行ってください」
声が掠れていた。
シルヴァは右腕を下ろした。
肩から指の先まで、血が一度に流れ込んでくる。腕が自分の重さを思い出して、下がりきったところで止まった。指が痺れている。握れるかどうかを確かめるために、二度開いて閉じた。
杖を掴んだ。
シルヴァは歩き出した。
◇◇◇
門の左手は、押されていた。
守護隊の盾列が、二十歩ぶんほど手前に下がっている。盾と盾の継ぎ目から、敵の穂先が何本も差し込まれ、抜かれ、また差し込まれていた。その後ろで教会連合圏の連合軍が層を作っている。前列が押し、押した分だけ後列が詰め、詰めた重みが前へ返る。人の壁が、そのまま攻城の槌になっていた。
空気に、術式の匂いがあった。
熱が来る前に、空気の方が先に乾く。魔力が編まれるとき、その周りは必ず水気を失う。喉の奥が張りついた。
シルヴァは盾列の内側へ入った。
その先頭に、動かない背中がある。
巨躯が盾を地に据えて立っていた。左右の守護隊が半歩ずつ下がっても、その位置だけが下がっていない。鎧の肩に布が巻かれている。
「ガルム」
振り向かないまま、太い首がわずかに動いた。
「来たか、嬢ちゃん」
声が地面から響いてくる。
「上のは?」
「エルネスに預けました」
「そうか」
ガルムは盾の縁を、掌で一度だけ確かめた。
「なら、こちらは気にせんでよい。わしが守る。嬢ちゃん、思う存分やれ」
ガルムが盾を地から離した。
構えない。持ち上げた縁を横へ倒し、その先で指を止める。指はこちらの盾列を越え、押し合っている敵の頭のさらに向こうを指していた。
「ここから後ろへは、一人も通さん」
声が地面へ落ちた。
音も光も出ない。出ないまま、押し寄せていた厚みが遠くで詰まった。後ろから足される重さが来なくなり、前列だけが盾に取り残された。
前へ出た。
盾列の隙間から、敵陣の奥が見える。連合軍の後方に、赤い外套が一つ浮いていた。宝石杖が高く掲げられている。その左右で、教会の魔導師が十数人、同じ高さに杖を並べていた。
空気の乾きが、一段深くなった。
シルヴァは杖を低く構えた。
【真理の眼】を使った。
視界の上に、構造が重なって降りてくる。
文字だった。前に見たときと同じだ。だが今度は、一つではない。十三の術式が、同時に組まれていた。それぞれが独立した詠唱を持ち、それぞれが独立した核を抱えている。ゼフィルの一本を中心に、左右の十二本が同じ位相へ寄せられていく。
合成だ。
十三の火が一点で重なった瞬間に、盾列の幅ごと消える。ガルムの立っている場所も、その後ろで下がった二十歩も、まとめて土ごと持っていかれる。
一本ずつ分解する時間はない。欠陥を探して一文字だけ書き足す、あのやり方は相手が一人のときのものだ。
だから、探すのをやめた。
十三を一つの面として見る。
合成のために寄せられた位相は、寄せられた時点で共通の骨組みを持つ。十三が同じ向きを向いているなら、軸は一本しかない。ゼフィルはそれを強度だと思っている。束ねるほど強い、と。
束ねるほど、書き換える場所は一か所で済む。
「この術式、私には見えている」
シルヴァは軸へ指を触れた。
共有された骨組みの、向きだけを裏返す。ついでに、飾りで足された節を三つ落とした。落とした分だけ、火は速く、太くなる。
あとは組んだ本人たちの魔力が働いてくれる。
赤橙の光が空中で一度膨らみ、そのまま敵陣の側へ倒れ込んだ。地面が持ち上がる。敵の列の奥で、十三本ぶんの火がまとめて開いた。杖を掲げていた魔導師たちが、その腕ごと押し倒される。土と鉄と布が上へ舞い、盾列のこちら側まで熱が渡ってきた。
乾いていた空気に、焦げた匂いが入る。
崩れた前列の跡へ、盾列が押し上がっていく。その内側を歩いた。
「馬鹿な……」
声が煙の向こうから届いた。
「馬鹿な……私の術式が……」
ゼフィルが、煙の中から出てきた。
赤い外套の裾が焼けている。腕を下ろすことを忘れた男が、自分の手の先を見上げている。
返す言葉はなかった。
その左手側で、白金の聖印が動いていた。
リュシアが、倒れた魔導師の列のあいだに膝をついている。透明な杖を持つ手が、一人目の上で止まり、次へ移り、そこでも動かなくなった。選んでいる。誰を先に起こすかを、この人はいつも先に決める。
助かる見込みの高い者から。魔力量の多い者から。教会に名の残る者から。
だが、ガルムの線がそこを割っていた。
地面に境が一本走っている。土の色は変わらない。ただ、そこから先へは何も通らない。
名の残る者も、残らない者も、同じ側で倒れている。誰を先に起こしても、線の向こうへは運び出せない。
リュシアの手が下りた。
杖の先が、土に触れたまま上がらない。
「なぜ」
その口が動いた。誰に問うたのでもない。
そこへ、足音が入ってきた。
重い。土を掻いて、踏むたび崩れかけている。
分厚い白鉄が、視界の端を横切った。
ブラムだった。斧の柄を握ったまま、味方の残っている方へ走ってくる。誰の号令にも追いつけないまま、門の右手からここまで走り通してきた足だった。
その足が、リュシアとゼフィルの手前で止まった。
こちらを見た。
シルヴァと目が合った瞬間、ブラムは得物を持ち上げた。振りかぶりもせず、体の前へ横向きに構える。二人とこちらのあいだへ、体ごと入り込んだ。
誰も、そうしろとは言っていない。
次の瞬間、敵陣の火が返ってきた。
反転した十三本の熱は、まだ収まりきっていなかった。地面へ潜った分が遅れて上がり、崩れた土を巻き上げて横へ抜ける。その一筋が、立ち塞がった背中を捉えた。
鎧の継ぎ目が、内側から吹き飛んだ。
音はそれだけだった。
手から離れた斧が、土に半分埋まった。柄はそのまま動かない。分厚い鎧が、火の抜けた形に沿って曲がっている。地面に伏した体は、一度も起き上がる素振りを見せなかった。
杖を握る指に力が入った。
狙っていない。
だが、向きを変えたのはこちらだ。
ゼフィルが、初めて腕を下ろした。
伏した背中を見て、それから、宝石杖を取り落とした。石の先端が土に当たって、乾いた音を立てた。拾おうとしない。
リュシアは動かなかった。
膝をついた姿勢のまま、透明な杖を握っている。伏した男の方へ、その杖は向かない。
二人とも、名を呼ばなかった。
そこから目を上げた。
◇◇◇
輜重の列は、出たときと同じ場所にあった。
車輪の陰にエルネスがいる。上げた左腕が、まだ空を指していた。だが膝は両方とも土に着いている。出るときに沈みかけて堪えた方の膝にも、もう力が残っていない。
杖を左手へ移し、糸束へ手を伸ばした。
順だけが逆になる。指の腹が触れた瞬間、重さが肩まで戻ってきた。
エルネスの腕が落ちた。
膝の上では止まらず、そのまま土へ着く。支えを失った上体が前へ傾いて、額が自分の腕へ落ちた。
「……七番目は、割れていません」
伏せた頭が、上がらなかった。
右腕を上げ直した。
門の方角に、白がまだ残っている。
◇◇◇
門の右手で、敵の列が横へ逃げ始めた。
ライカは剣の血を振り、戦線の形を目で追った。団長が正面を割ってから、右と左へ裂けたまま伸びている。団長は裂け目の先端にいて、そこから戻ってこない。左は守護隊が受け持った。
残りは、ここだ。
耳を澄ませた。逃げる足が、門の内側へ向いていない。散っている。まとまる先を、敵はまだ見つけていない。
背後で紙の擦れる音がした。
「ライカさん」
ヴェルナーだった。地図の控えを片手に、姿勢を崩さずに立っている。血の跳ねた土の上で、この人の背筋だけが朝と同じ角度だった。
「敵の退路は三つあります。門の内側、城壁沿いに北、街道を南」
指が控えの上を三度叩いた。
「南は荷車が詰まっていて、通れません。北は聖騎士の詰所があるので、そちらへ流せば数が増えます」
「門の内側だけ、ということですか」
「そこへ集めてください。集めきったところで、閉じます」
頷いた。
体はもう右へ回っていた。
「グラド!」
右の列から、返事より先に長身が抜けてきた。腰の鞘に土がついている。グラドの鞘が汚れているのを見たのは、これで二度目になる。
「右の縁が緩んでる。逃げてるやつを北へ行かせるな」
「押し戻すのではなく、内側へ寄せるのですね」
「そう。斬るのは後だ」
グラドはそれ以上聞かなかった。それだけで列が動いた。騎士団の右翼が、逃げる敵の外側へ回り込み、剣の腹で肩を叩いて向きを変えさせていく。振り下ろす者が一人もいない。
左へ走った。
守護隊の盾列が、門の左手から回り込んできていた。その先頭に、首の太い男がいる。
「バルカさん!」
「聞こえてる!」
バルカが盾を担ぎ上げた。靴底が土を叩く音が、他の誰よりも重い。
「南だな」
「荷車が詰まってます。どかされる前に塞いでください」
「盾列を三段。それで足りるか」
「足ります」
バルカが手の甲で合図した。守護隊の列が二つに割れ、片方が南の街道口へ滑り込んでいく。盾が並び、下端が土へ食い込み、三段が重なって高さを作った。
南が消えた。
北の方角では、グラドの隊が敵の肩を押し続けている。押された兵が横を向かされ、その先に味方の背中があり、押し合いになって前へ出られない。
北も消えた。
残ったのは、門へ続く一本だけになった。
敵が門へ流れ込み始める。
息を吸うと、土と鉄と、焦げたものの匂いが一緒に入ってきた。左の遠くで火の音がしている。あれはシルヴァさんの方角だ。
「騎士団、前へ!」
声が返ってくるのに、一拍もかからなかった。
輪が縮んでいく。
ライカは先頭で走りながら、その形を横目で測った。右にグラドの列、左にバルカの盾列、後ろから魔術兵団の術式が面を押してくる。三つの隊が別々の速度で動いているのに、隙間が空かない。空きそうになった場所には、走り出す前に誰かが入っている。
敵の兵が武器を捨て始めた。捨てて、門の方へ走り、そこで足を止める。門は動かない。押しても、内側から返る音がない。
白の面積が縮んだ。
街道を埋めていた外套の群れが、門の前の一区画に押し込まれていく。押し込まれた分だけ厚みが増し、増えた厚みが自分たちの動きを奪っていた。前の兵が振り返り、後ろの兵とぶつかる。ぶつかった拍子に、また武器が落ちる。
足を止めた。
そこから、輪の全部が見えた。
教会連合圏の連合軍は、もう列の形をしていない。勇者軍の旗は、半分が土に落ちている。
門の前の一団だけが、崩れていない。
肩の幅が変わらない。穂先の高さも揃っている。周りで金属が土を打っても、その音の方を見ようともしない。
聖騎士団だ。
背後でヴェルナーが並んだ。
「閉じました」
息が上がっていない。
「あとは、あの一団だけです」
ライカは剣を握り直した。
あの揃え方は知っている。北西の境界帯で、味方の結界へ何度も同じ位置を叩きに来た列と、一分の狂いもない。
「斬りますか」
グラドが横に来た。血の跳ねた頬を拭いもしていない。
答える前に、白の列が割れた。
◇◇◇
割れた真ん中から、一人が出てきた。
背が高い。純白の外套が土を引きずらない高さで裾を切られていて、歩幅が乱れない。金髪を短く刈り込んだ頭が、こちらの位置をまっすぐに測ってくる。
胸に、聖印の胸章があった。
他の誰の胸にもない。
手には聖槍を提げている。穂先が長い。装飾の彫りが刃の根元まで入っていて、儀礼のための得物にしか見えない。柄の握りの部分だけ、彫りが擦れて消えていた。
聖騎士団長ガブリエル。
男が五歩ぶん手前で止まった。
「異端の軍に問う」
声が張っている。戦場の端まで届かせる出し方だった。
「秩序を破壊して、その後に何を置く」
剣は下ろさない。
答える立場ではない。だが、この男の目はこちらを見ていない。ライカの肩の上を越えて、もっと上を見ている。
三つに割れた青白いものが、まだそこにある。真ん中の枠で、石畳の面積が増えていた。立っている人より、空いた石の方が多い。
ガブリエルは、それを見ていた。
目を逸らさない。
「答えは、要らぬ」
男の喉が動いた。
「私は神意の下に立ってきた。その神意が、今朝あの空で、私の知らぬものになった」
声が途中から張りを失った。
槍の穂先が下がった。
槍を両手で持ち直し、水平にした。それから、腰を落として、土の上へ置いた。石突きが先に着き、穂先が遅れて着いた。
置いた手を離し、腰を上げた。
「聖騎士団は武装を解く」
男が背後を振り返った。
「全隊、槍を下ろせ」
白の列が揺れた。
穂先が一斉に下りる。柄が土を打つ音が重なって、一度に押し寄せてきた。武器を手放した者が膝をつき、膝をついた者の隣がまた武器を落とす。列の輪郭が、外側から内側へ向かって崩れていった。
息が抜けた。
背後で金属が鞘の口を擦る音がした。バルカの盾列が、高さを一段下げた。
勝った。
右手の戦線でも、左手の戦線でも、もう打ち合う音がしない。教会連合圏の連合軍。勇者軍。聖騎士団。今朝この城壁の外に並んでいたものが、全部、土の上に降りている。
ライカは剣を鞘へ戻した。
その手が止まった。
列の端に、下ろしていない者がいる。
三人だ。並んだ位置はばらばらで、互いに離れている。穂先を上へ立てたまま、団長の置いた槍の方を見ようともしない。周りが膝をついても、その三人の膝だけが伸びたままだった。
男はそちらを見なかった。
見ないまま、こちらへ両手を差し出した。手首を揃えていた。
「グラド」
「はい」
「連れていけ。下ろしてない三人は、そのまま見張れ」
「斬らなくてよろしいので」
「団長が戻るまで待つ」
グラドが踵を返した。捕虜の列を作る号令が、後ろで上がる。
その号令の横を、逆向きに動くものがあった。
味方が二人がかりで、騎士団の兵を一人抱えている。肩から下が土で汚れて、片方の脚が地面を探しても見つけられずにいる。抱える側が足を合わせ、輪の外側へゆっくり下がっていった。通り過ぎたあとの土に、引きずった跡が残っていた。
足元に日が差していた。城壁の影に沈んでいた土が、明るい色になっている。
門の方角へ顔を向けた。
門はまだ閉じている。あの内側に何人残っているかは、ここからでは数えられない。
それから、空を仰いだ。
三つとも、朝から高さを変えていない。あれを支えている腕が、いま誰のものに替わっているのかも、ライカには分からなかった。
風が土の匂いを運んできた。焦げた匂いはもう薄い。
空の端まで目で追った。
立ち上がる煙は、緑も赤も、まだどこにもない。




