第204話:「ノアの戦術展開」
ノアは本隊の陣列の中ほどで足を止め、街道の先を塞いでいる聖都ルメナの城壁を見上げた。上端に沿って、白が切れ目なく並んでいる。
石の面が朝の光をまともに返している。白の合間に旗が立ち、その下に門の輪郭があった。日を追って歩いてきた距離が、いま目の高さの中に収まっている。
前の列が止まった。
止まったことは、音で後ろへ伝わってくる。足の拍が抜け、鎧の擦れが薄れ、荷車の軋みが順に途切れていった。ここまで体を揺らし続けていたものが引いて、耳の中に隙間ができる。
その隙間へ、別の音が入ってきた。
壁の手前だ。金属が金属を打つ音が、束にならずに一つずつ届く。騎士団はもう当たっている。
風が街道を横切り、外套の裾を持ち上げた。
ノアは地図筒を抱え直した。革が肘の内側へ食い込む。中の紙はもう開かない。線を引く場所は、今朝から紙の上を離れている。
目の前の景色が、そのまま盤面になった。
城壁の上の数。ここからは見えない門の内側の列も、溜まっている厚みのまま頭の中へ入ってくる。街道の左右へ散った味方の隊と、前で噛み合っている騎士団。硬いところと緩んでいるところの境目に、輪郭がついた。門の右手に寄った敵の一団は、穂先の高さが揃っていない。
左手の列は揃っている。
押すのは右だ。
ノアは息を吸った。冷えたものが肺の底まで落ちていく。
「作戦を始めます」
自分の声が、思っていたより低く出た。
近くの兵が顔を上げる。その顔の向きが伝わって、次の列の背中が動いた。
ノアは一拍置いてから、続きを口にした。
「騎士団、聖都へ入ってください。押すのは門の右手です。そこから押し広げれば、面で崩れます。残りは組んだ線の通りです。各自持ち場へ」
伝令が三方向へ散った。
足音が土を掻いて遠ざかり、そのたびに列の形が変わっていく。魔術兵団の後衛が間を詰め、守護隊の盾が外側へ回り込む。荷車の列は道の脇へ寄って、真ん中を空けた。
誰も声を返さない。ノアの引いた線は、昨夜のうちに全部隊へ渡してある。
列が割れた。
◇◇◇
左の後ろで、布の擦れる音がした。
振り向くより先に、そこに誰がいるかは分かる。足音がない。
「ノア」
カイロの声は、風の下でも輪郭を失わなかった。
「ベネディクト枢機卿の方へ行く」
ノアは筒を持ち替え、門の輪郭へ目を戻した。
「逃がさないためですね」
カイロが顎を引いた。
「開いてからでは、動かれる」
段取りの説明も、戻る時刻の約束もなかった。
「お願いします」
ノアの声に、返事はなかった。
列の縁で、暗色の裾が揺れた。次に目を向けたときには、そこにいた形が周りの影と見分けられなくなっている。さっきまで人が立っていた幅の分だけ、風が抜けた。
入れ替わりに、右手の列の隙間から小柄な体が抜けてきた。
リゼットだった。外套の前を合わせ、後ろに五人ばかり連れている。顔は布の陰に沈んでいて、輪郭しか見えない。
ノアは正面へ向き直った。
「リゼットさん」
「はい」
縦に細い瞳孔が、こちらを向いた。
塀のある方角へ、ノアは顎を向けた。
「塀の内側へ入ってください。区画にいる人を外へ出します。門が開いたら、各部隊が支援に回ります」
「人の流れは」
リゼットが聞き返した。
「こちらの列の外側へ抜けさせてください。中で押し合いになると、そこで数が減ります」
リゼットの顎が下りた。
ノアは筒の口を指の腹で軽く叩いた。
「終わったら、狼煙で報せてください。緑なら成功。赤なら失敗です」
「上げる場所は」
「上げやすいところで構いません。こちらからは色しか見ていませんので」
風が二人のあいだを通り抜けた。
リゼットが胸元へ手を当てた。指が布を握って、そこで止まる。
「承知しました」
声が一度切れた。
「必ず助け出します」
ノアは頷かなかった。
筒を持つ指に力が入る。中の紙に書き込んだ数が、塀の内側の数だ。諜報員たちが数えた数だ。
――もう合っていない。
「赤でも、上げてください」
リゼットの喉が動いた。
「……はい」
胸元に当てていた手が、そこで離れた。振り返らずに歩き出す。
外套が列の向こうへ回り、連れの背中が続いていく。足音は最初から鳴っていない。街道の脇へ下りると、その色が土の色と混ざった。
見えなくなった。
◇◇◇
敵の列が動いた。
セラは腹のあたりでそれを受けた。地面の震えが太くなっている。城壁の裾から溢れた白い外套が、街道の幅いっぱいまで広がっていく。穂先が一斉に水平へ倒れた。
セラは拳を握った。
指の付け根の皮が硬い。潰れては固まるのを繰り返して、そのたびに厚くなった場所だ。
後ろで鎧が鳴った。
魔王軍の騎士団が、セラの背中側で列を詰めている。柄を握り直す音。息を吸う音。誰も、下がっていろとは言わなかった。
セラは半歩前へ出た。
背後で、騎士団の呼吸が揃う。
敵の先頭が間合いへ入った。
セラは地面を蹴った。
敵の穂先が突き出されるより早く拳が胸板へ入った。白鉄の胸が拳の形に沈み、その兵が後ろの列ごと倒れていく。
穴が広がった。
騎士団が左右から敵の列を押し開き、剣の腹で穂先を叩き落としながら、セラの空けた場所を内側から固めていく。
殴るたびに、手首から肘へ衝撃が返ってくる。骨の芯で音が鳴る。
横をすり抜けていく鎧があった。
拳を戻す間に、右手の視界へ剣が二本、滑り込んできた。片方が敵の腕の内側を跳ね上げ、もう片方がその下へ体ごと入る。拳一つぶんだった穴が、人の通れる幅に変わっていた。
鎧の潰れる音が、金属の悲鳴になって前方から次々に上がった。敵の兵が武器を投げて後ろへ逃げ、逃げた背中が味方に当たり、そこでまた列が乱れる。乱れたところを騎士団が突く。
城壁の裾が近づいたところで、背中の音が遠くなった。
セラは振り返った。
味方の列が伸びている。空けた穴が長くなりすぎて、騎士団の先頭がその途中で敵に噛みつかれていた。腹の側から敵の槍が入り込み、味方の兵が二人、それを押さえるために足を止めている。
――速すぎた。
セラは握っていた指を開いた。
息を整える。前へ出たい足を地面へ押さえつけて、後ろの音を数えた。鎧の擦れる拍が近づいてくる。近づききるまで待って、その拍に自分の呼吸を乗せる。
先頭の兵が、セラの真横まで上がってきた。
セラは前を向いたまま声を出した。
「行くよ!」
その速さに合わせて踏み出す。
拳が敵の前列を割り、割れた縁へ味方の剣が入り、剣が押した分だけセラがまた前へ出る。今度は穴が長くならない。旗を掲げていた男が槍を捨てて逃げかけ、その背へ味方の剣が届いて、旗ごと土へ倒れ込んだ。敵の隊列が横へ広がって支えようとするたび、騎士団がその端に噛みついて、支えの手を減らしていった。
押し返してくる力が、急に軽くなる。
残った一人が槍を突き出してくるのを、セラは踏み込みざまに打ち抜いた。白鉄が内側へ折れ、その体が仲間の頭を越えて後ろへ飛んだ。
街道を塞いでいた白が、内側から膨らんで裂けた。
◇◇◇
裂けた列の向こうで、白鉄の塊が動かずにいた。
ブラムだ。
巨斧を提げたまま、セラを正面から見ている。周りの敵兵が下がっていくのに、その足だけが土に食い込んだまま動かない。かつて一撃で沈めた胸の鎧は、新しいものに替わっている。
「今度は、私だけじゃない」
声は届いた。黒い頭が、セラの後ろへ傾く。並んで前を向いている騎士団を、端から端まで追った。
ブラムの口が動いた。
「……なんだ」
声になりきらない音だった。
その口が、もう一度だけ動く。
「……前は、こうじゃなかった」
巨斧の刃先が土へ落ちた。柄にかかった指が、一本ずつ緩んだ。
セラはそちらへ足を向けなかった。
ブラムの目が、また後ろへ流れる。退いていく味方の頭の向こうか、門の内側か。誰かの指示を探している。
探している先には、誰もいない。
◇◇◇
ノアの耳に、前線の音の変わり方が届いた。
打ち合う拍が減り、そのぶん足音が増えている。門の右手に寄っていた一団が最初に割れ、割れた端から後ろへ引いていった。左手の揃った列も、支えを失って幅を保てなくなった。
「全て、計算通りです」
ノアは声に出した。
近くの兵は顔を上げなかった。伝令も戻ってこない。その一言は風に持っていかれた。
声を張り直した。
「守護隊、門の左へ回ってください。押し出された人が、そちらから出ます」
伝令が走った。
腕の中の革は、朝からひとつも重さを変えていない。
空を見上げた。
青白いものが三つに割れて、まだ頭の上にある。右の像では、ゼノ様とセレナが街道を進んでいた。
真ん中は大聖堂前の広場だ。人の塊が薄くなって、石畳が覗きはじめている。
左の像に、塀と祭壇。段の上で勇者が膝に手をついていた。そこから体を起こそうとしている。
膝にかけた手が、震えながら押し下がる。その重さごと、上体が持ち上がった。
「……終わらせるものか」
その声が、聖都の上へも街道の上へも、区別なく届いていく。
ノアはそこから目を離した。
城壁の影が、足元まで届いている。
緑も、赤も、まだ上がっていない。




