第203話:「決着の時」
像の中で穂先が一本下りた。
祭壇へ続く石段の裾だ。白い外套が埋めていたその一列で、突き出されていた穂先が下がり、柄の石突きが石畳に着いた。金属が石を打つ音が、周りのどの拍とも合わずに上がってくる。
ゼノリスは街道からそれを見上げた。
今朝までなら、あの列は乱れなかった。後ろがどれだけ揺れても、段にいちばん近い一列だけは肩の幅を変えず、構えの角度も動かさずにいた。
その一人が、いま槍を手放しかけている。
二人目が続いた。
最初の男の左隣で、構えが崩れた。傾いだ穂先が隣の肩に乗る。乗せられた側は払いのけもしない。前を向いたまま、自分の手の中にあるものへ目を落としていた。
列の形が内側から緩んでいく。
石突きの音が重なり始めた。一つ落ちるたびに、そのすぐ横がつられて下がる。石段の裾に敷き詰められていた白が、一本の線を失って、ばらばらの高さになった。
それでも、下ろさない者がいる。
同じ列の中に、先を上へ立てたままの背中が残っていた。隣が武器を捨てても動かない。何人いるのかは数えられない。数えようとして、途中で境目が溶けた。
靴底の下で、地面が細かく震えていた。
前線の足だ。
日は同じ高さから差している。誰が槍を捨てようと、頬に当たる角度は変わらなかった。
◇◇◇
最初に槍を落とした男が、顔を上げた。
その顎が真上を指した。段の上でも、隣の列でもない。空だ。
あの男が見上げているのは、この街道と同じ空だ。
男の口が開いた。
「お前たちのせいだ!」
喉の奥が裂けた声だった。腹から押し出したのに、途中でかすれて割れている。
声が空を伝って、街道の頭上へ落ちてきた。
セレナの顔へ吐きつけたものが、世界中の空を渡って、ここへ着く。男は自分の声がどこまで運ばれたかを知らない。
「返してくれ」
二言目は低かった。
喚くのをやめた声だ。誰に返せと言っているのかも決まらない。返してほしいものの名前すら出てこない。
男の膝から力が抜けた。そのまま裾ごと崩れて、起き上がらない。隣の男は穂先を握り直しただけで、そちらを見ない。
ゼノリスは言い返さなかった。
呼びかけられてはいない。あの空に映る顔は一つきりで、投げる先がそこしかなかった。
返してやれるものが、こちらには一つもなかった。
その声の下から、別の音が届いていた。
塀の内側だ。
まだ人の声がしている。名前を呼んでいる声が朝からずっと続いていて、応えるものは何もない。門は一度も開いていない。開ける手が、あの中にも外にもいない。
ゼノリスはその音を追い続けた。
頭の上でどれだけ信仰が剥がれても、あの門の内側までは届かない。数は戻らない。
◇◇◇
ゼノリスは顔を前へ戻し、足を前へ出した。
セレナはさっきと同じ場所に立っている。頭を下ろした位置のまま、指は組んだままだった。裾は土についている。あの罵声も、塀の内側の音も、あの人の耳が拾っていないはずがない。
一歩目で土が鳴った。二歩目の途中、後ろでカイロが脇へ寄る音を聞いた。そこから先は自分の呼吸しか耳に入らなかった。
横に並んだ。
証言のあいだ、指一本ぶんの距離を置き続けてきた。
あの人の言葉に私の手の跡をつけないためだ。
もう、その理由がない。
セレナの睫毛が動いた。こちらへは目を向けない。顔は空へ据えたままだ。
ゼノリスは腕を伸ばした。
背に触れた瞬間、掌の下に骨の形があった。細い。立ち続けていたぶんの熱が、布を通して残っている。指先が肩甲骨に届いたところで、体ごと引き寄せた。
抱きしめた。
セレナの額が胸に当たった。
腕の中で震えが始まった。首の付け根から背中へ抜けていく。歌うために作られた喉が、いま音を一つも出せずにいる。押し殺した息だけが、胸元を短く叩いた。
――間に合っていない。
震え出したのは、いまではない。段の上へ顔を向けたときにはもう来ていて、あの人はそれを一人で押さえ込んだまま、最後まで言い通した。私はその後ろで、渡すものを間違えないことだけを考えていた。
腕に力を込めた。折れる、と思った。
頭上で、像の縁が引かれた。
セレナの顔を映していた枠が、外側へ引かれていく。頬の線が下がり、肩が現れ、その横に黒い外套が入った。世界がいま見ているのは、抱き合う二人だ。
構わなかった。
「セレナさん」
名を呼んだ。
「よく頑張りました」
抱いている背が、一度大きく跳ねた。
こらえていたものが、そこで外れた。肩が上下し、腕の中で背骨が丸くなる。支えを失った重さが、掌へ落ちてきた。
「……ゼノ様」
それだけだった。
名前を呼ぶだけで、あとが続かない。父の死まで語りきった喉が、一言のあとで止まっている。
代わりに、布の内側が温かくなった。染みが広がって、胸に張りついてくる。
ゼノリスは力を緩めなかった。
◇◇◇
真ん中の像で、石畳を埋めた人の塊が、真上を仰いだまま前後に押し合っている。真上へ挙がった腕のすぐ隣で、別の手が空へ向けて振り下ろされた。
「歌姫様……!」
女だった。腹から声を搾り出して、そのまま咳き込んでいる。
「言ってくれた!」
その斜め後ろで、男が唾を飛ばした。
「よくもそんな顔ができるな!」
二つが同じ厚みで空を上ってきて、そこで押し合った。
ゼノリスは腕を解かなかった。
「魔王に抱かれておいて、何が真実だ!」
「黙れ! あの人は騙された側だぞ!」
罵りと庇いが、同じ石畳から出ている。隣り合った者が互いの語尾を踏み潰して、どちらも言い終えられない。
塊の外側が剥がれた。
押し出された背が広場を出ていく。空を仰ぎもしない。そのあとから、同じ方角へ抜けていく肩がいくつも並んだ。路地の口へ吸い込まれて、戻ってこない。
腕の中が動かない。
胸元にかかる重さが変わらない。額を押し当てた場所も、指を組んだ形も、さっきのままだ。歌姫と呼ぶ声も、嘘つきと呼ぶ声も、同じ耳へ入っていく。
拍手は来なかった。
降ってきたのは、揃わないままの音だ。この人が喉を削って並べた言葉の上に、それが厚く積もっていく。
◇◇◇
セレナを離さないまま、ゼノリスは顎を上げた。
頭上の枠に、こちらの顔が入っている。世界中の空が、いま自分を映している。
声を上へ放った。
「私はゼノリス・ヴォルガデス。魔王国の魔王です」
言葉が頭のすぐ上を抜けていった。
空が運んでいく。広場へ。塀の内側へ。段の上へ。街道の先で刃を合わせている場所へも、同じ速さで渡っていく。
「今日ここで語られたことは、すべて記録と記憶に残ります」
いったん切った。
吸い直した息が、乾いた土の匂いを連れてきた。
「これより、聖都へ入ります」
広場の音が薄くなった。
「そして、あの塀を開けます。中にいる人を、一人でも多く助け出します」
言い終えた。
後ろで布が擦れた。
「承知しました」
カイロだった。振り返らなくても、声の高さで距離が分かる。
「記録は俺が持っています。ゼノリス様」
少し離れた場所から、二つ目が上がった。
「像は保ちます、ゼノ様」
シルヴァの声は低い。輜重の列の手前から、要る言葉だけを外へ出している。
それから、地面の揺れが変わった。
刻みが速くなり、幅が広がっていく。セラも、ガルムも、ノアも、進みを一段上げた。
あの三人は像に映っていない。返事は、足の下から来た。
ゼノリスは踵に体重を落とした。
◇◇◇
左の像が揺れた。
塀と祭壇だ。段の上で白い鎧が膝を折りかけ、そこで踏みとどまっている。掌は開いたまま止まっていた。指先が空をかく。何も出てこない。
歯の当たる音が空に乗った。
「まだだ」
腹の底から押し出していた。
「……まだ終わっていない!」
叫んだ拍子に上体が前へ泳ぐ。段の縁で爪先が止まった。
その後ろで、赤い法衣が動いた。
ベネディクトだ。朝からあの位置に立ち続けていた男が、紙を脇に下げたまま、初めて足を運んだ。裾が石を擦る音が、勇者の息づかいの下から這い上がってくる。
「勇者様」
抑揚がなかった。
「打つ手はあります」
白い鎧が振り返った。
「言え」
「聖騎士団。教会連合圏の連合軍。勇者軍。まだ動ける者が残っています」
体の脇にあった紙が、胸の高さまで持ち上がった。
勇者が短く息を漏らした。
「……そうだ!」
勇者が背を伸ばした。
「俺はまだ終わらない」
ベネディクトが段の下へ顔を戻した。
白の列が、高さを揃えないまま残っている。武器を置いた者の隣に、置かなかった者が立っている。
枢機卿が息を吸うのを、ゼノリスは像の中に認めた。
その口から出るものが、いまから世界中の空へ出ていく。
「全勢力を投入します。一兵も残さず、出してください」




