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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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202/209

第202話:「信仰の崩壊」

 何も、返ってこなかった。


 セレナが最後の一言を空へ置いてから、段の上も、石段の裾も、広場も、音を一つも寄越さない。空はさっきと同じだけ声を運べる。運ぶものがない。


 シルヴァが空へ張った像が、三つとも止まっていた。


 左に塀と祭壇。右にセレナの顔。真ん中に大聖堂前の広場。像の中の人は立っているし、風で髪も乱れている。それなのに街道から見上げるゼノリスの目には、どれも凍りついて見えた。


 ゼノリスは足の裏へ意識を向けた。


 地鳴りは続いている。前線の音だ。土を通って踵から膝へ上がってくる。この場で動き続けているものは、それだけだった。


 朝の光が右の頬に当たっていた。角度は変わらない。


 数歩先でセレナの背が動かずにいる。裾が土についたままだ。顎を上げた形のまま、まだ下ろしていない。その後ろにカイロが立ち、束を胸の前で閉じたまま前を向いている。二人とも一歩も引かない。


 待っている。


 この沈黙が何に変わるかを、あの二人も待っている。


 ゼノリスは頭上へ目を戻した。


 広場の像だ。数えきれない顔が真上を向いて、口を閉じている。ついさっきまで一つの言葉で埋まっていた喉が、次を出せずにいる。


 誰かが最初の一言を出せば、それが形になる。


 誰も出さなければ、この静けさは元へ戻る。


 肩の上を風が抜けていった。


◇◇◇


「勇者様は嘘つきだ!」


 大聖堂前広場の像だった。


 一人の男の口が開いて、そこから出た。音が空を渡り、街道の上へ落ちてくる。周りの顔がその方向へ動いた。振り返った顔が、そのまま止まった。


 違う声が来た。


「私たちを騙していたのか!」


 今度は左だ。


 二つのあいだで、像の中の並びが崩れた。前へ出ようとした背中が隣の肩を押しのけていく。押された側が体をひねり、その先でまた誰かがよろける。石畳を擦る足の音が幾つも重なって上がってきた。


「姫の父を殺しておいて、救世主を名乗っていたのか!」


 三つ目で、広場が音になった。


 意味の取れる叫びと、ただの音とが、聞き分けのつかない厚みになった。像の中の顔が、真上を向いたまま次々に口を開いていく。人の塊が波の形に動いて、その波が広場の端まで走った。


 音が街道まで降りてきた。


 頭の上に重さが載る。地鳴りとは別の高さで、幾千という喉が同時に鳴っている。それが空一面から落ちてくる。


 セレナの背がわずかに揺れた。


 音を受け止めた分だけ、体が後ろへ押されている。膝には力が入ったままだ。足も動いていない。風が裾を少しだけめくって、また落とした。


 ゼノリスは像を見ていた。


 あの広場で、いま崩れているものがある。鑑定の色で人の値を決め、認可で商いを止め、施しで首を締める。あれが立っていられたのは、頂点の男が本物だと信じられていたからだ。


 その信が抜けた。


――崩れたな。


 声にしかけて、喉の手前で止めた。


◇◇◇


 音の中に、揃っていないものが混ざり始めた。


 最初は分からなかった。空は運べるものをすべて運ぶが、街道へ着く頃には幾つもの声が重なって一つの塊になっている。その中から言葉を拾うのは難しい。


 ゼノリスは耳を澄ませた。


 塊の中に、上がり方の違う声がある。他より低く、長く続く。


「では……」


 それが聞き取れた。


「では、私たちが泣いていたのは何だったんだ」


 広場の中ほどで、男が一人、空へ張り上げずに喋っていた。


 そこに立ったまま、自分の足元へ言葉を落としている。


 勇者へは届いていない。歌ってきた女へも届いていない。あの男は、あの男自身に言っている。正しいと思って泣いてきた年月が、たったいま無駄だったと分かった。


 怒りは、どこかへ出さなければ収まらない。


「魔王が今さら何を掘り返す!」


 音の層を裂いて、その一言だけが真っ直ぐ上がってきた。


 石畳の切れる辺りで、人の並びが揺れている。


 続いた。


「黙っていたのはどこの誰だ!」


「あの女は魔王の妃だろう!」


 ゼノリスは動かなかった。


 言い返す相手がいない。この街道からあの広場へ渡せるものは、シルヴァの術式に乗せた像と声だけだ。乗せたところで、あの人たちは受け取らない。


 掌に汗が浮いた。


 乾いた風が指の付け根を撫でていく。そこだけ引かない。握り込むと、汗が滑った。


 あの怒りには、行き場がある。


 あの広場で泣いてきた人からすれば、いなかった者が急に現れて、信じてきたものを奪ったことになる。


 分かることと、平気でいることは、別だった。


 前でセレナが顎を下ろした。


 この場に立ってから、初めての動きだった。目は空へ据えたまま、角度だけを戻している。それから、胸の前で指を組んだ。


 あの声も、セレナにも届いている。


 ゼノリスは声をかけなかった。


 かければ、こちらを向く。向けば、空の中の顔も同じ方を向く。それを世界が見る。


 地鳴りが一段強くなった。


 前線が動いている。街道の先で、味方の列が聖都へ寄っている。頭上の音とは無関係に、足は前へ出続けていた。


 広場の音は止まらない。


 勇者を呼ぶ声と、魔王を呼ぶ声が同じ層の中で鳴っている。どちらも怒っている。どちらも、誰かに騙されたと言っている。


 ゼノリスは奥歯を合わせた。


 勝ちつつある。


 同時に、恨まれつつある。


◇◇◇


 音の底を、別の質の声が押し上げてきた。


「落ち着いてください! これは魔王の策略です!」


 張り上げてはいる。だが、上から蓋をしにかかる声だ。人を並ばせ、順を守らせることに慣れた喉から出ている。聖教会の職員だろう。


 言葉は途中で呑まれた。


 二度、三度と繰り返しているのが分かる。同じ抑揚が同じ間隔で立ち上がっては、そのたび周りの音に潰されて消える。台に上がったのか、声の出どころが少し高くなった。それでも通らない。


 大聖堂前広場の像は、人の並びが乱れたままだ。


 腕の位置も、顔の向きも、そこかしこで食い違っている。


 その中を、端から順に追った。


 そこで、気づいた。


 音が下がっている。


 石段から遠い広場のその一角だけ、揺れが小さい。頭の高さが揃ったままだ。誰かが叫べば周りが動くはずの場所で、動きが起きていない。


――効いている。


 あの職員の言葉が、あそこでは通った。


 ゼノリスは目を細めた。


 誰が頷いたのかは分からない。像は空の端まで引き伸ばされていて、目鼻の造作までは映るのに、そこに名前がついていない。


 剥がれる者と、剥がれない者がいる。


 同時にはいかない。


 信じてきた年月の長さは、一人ずつ違う。あの中には、勇者に子を返してもらった者もいるだろう。施しのパンで冬を越した者もいるだろう。その一人にとって、いま空にあるものは、自分の冬を否定しに来た何かでしかない。


 数えることもできない。


 どれだけの人があそこに残るのか、この街道からは最後まで見えない。


◇◇◇


「勇者様!」


 塀と祭壇の像だった。


 段の上で、赤い法衣が動いている。ベネディクト枢機卿だ。祭壇の脇にいたはずの位置から、白い鎧の背へ向かって二歩、三歩と詰めていく。裾が石を擦った。


「弁明を。いますぐ弁明をお願いします」


 声が速い。


 語尾は崩れていない。整った丁寧語のまま、息継ぎだけが前へ前へずれていく。


「このままでは、すべて終わります」


 制度を組み、それで世界の首を締めてきた男だ。その男が、勇者を急かしている。


 白い鎧が顔を上げた。


「信じてくれ!」


 空が丸ごと鳴った。


 声が塀の内側から立ち上がり、そのまま世界の端まで押し出されていく。段の上で、白い鎧の口が大きく開いていた。


「私は世界を救うために戦ってきたのだ!」


 そこへ、被さってきた。


「嘘だ!」


 広場からだ。返しの速さが、さっきまでと違っていた。半拍も置かずに来る。


「もう信じない!」


 二つ目が重なった。三つ目が続いた。それから先は言葉にならず、ただ音として空を埋めていく。


 白い鎧が次の言葉を出せずにいる。


 その真上から、拒む声が落ちてくる。一つの空を通って、この街道にもそっくり届く。


「魔王も同じだろう!」


 混ざっている。


 勇者を突き放す声と、こちらを疑う声が、同じ広場の同じ喉から等しい勢いで出ている。


 ゼノリスは動かない。


 この場で分けられるものではない。分けようとすれば、選ばせることになる。それは勇者がやってきた手口だ。


◇◇◇


 塀と祭壇の像で、白い鎧が右腕を上げた。


 その動きを、ゼノリスは知っている。今朝、同じ腕が同じ高さまで上がるのを見た。掌が開き、眼下が白い線に囲われ、その内側の人影が順に落ちていった。


 だから、目を離さなかった。


 掌が開いた。


 地面は光らない。


 白い線は灯らず、区画の輪郭はそのままだ。祭壇の石も震えていない。開かれた掌の下で、何も起きなかった。


 もう一度、腕が動いた。


 一度引いて、突き出し直している。今度は上体ごと前へ傾けた。指を精いっぱいに開いて、掌の面を眼下へ向ける。


 何も起きない。


 次第に勇者の肩から白いものが立った。


 湯気に似ていた。今朝、倒れた人の背から出て段の上へ吸われていったものと、質が同じだ。だが今朝のそれは真っ直ぐだった。行き先を持って、迷いなく一本に伸びていた。


 いま出ているものには、それがない。


 肩から浮き、胸から浮き、上げた腕の外側からも浮いている。どれも真上へ伸びない。伸びかけて途中で崩れ、風もないのに横へ流れ、輪郭を失って薄くなっていく。


 ゼノリスは息を止めていた。


 この一部始終が世界中のどの街の空にも、同じ大きさで映っている。


 白い鎧が自分の腕を見た。


 目の高さまで下ろし、掌を返し、手の甲を見て、また返した。指を握った。開いた。もう一度握った。


 その指の隙間からも、白いものが抜けていた。


「……抜けていく」


 声が空に乗った。


 張り上げていない。誰かに向けてもいない。自分の掌を見たまま漏らした一言が、シルヴァの術式に拾われて、世界中の空へ運ばれていく。


 街道の上でも、それが聞こえた。


 塀の内側でも、大聖堂前の広場でも、白塔区でも、門の外の市でも。この朝、空を見上げているすべての人が、勇者の口からその一言を聞いた。


「なぜだ。待て!」


 もう一度、掌が開かれた。


 何も出てこない。線も、光も、白いものも。開いた掌の下に、ただ人が立っているだけだった。


 赤い法衣は動かなかった。


 段の上、さっき詰めた位置に立ったままだ。紙を持った手が体の脇にあって、そこから先が上がってこなかった。


 白い鎧のまわりに、誰もいない。


◇◇◇


 ゼノリスは息を吐いた。


 止めていたぶんが、一度に喉を通っていく。掌に爪の痕が残っていた。


 勝った、とは思わなかった。


 あの男の腕から何が抜けたのか、それがどこへ行くのか、ここからは分からない。ただ、この耳が拾ったのはあの男自身の一言だ。


 頭上では、音が鳴り続けている。


 広場の音。段の下の音。そして、その二つとは別の高さから降り続けているもの。


 塀の内側だ。


 名を呼ぶ声がまだ続いている。門を叩く音も、途中で切れる息も、朝からずっと同じ場所で鳴っている。あの中の数は今朝からいくつも減った。減った分は、もう戻ってこない。


 勇者の腕が下がっても、あの人たちは立ち上がらない。


 信仰が崩れても、死んだ者は死んだままだ。


 地鳴りは続いている。前線はいまも聖都へ寄り続けていた。


 段の下から上がる音が、朝より薄い。柄で石を叩く拍が方々でずれ、隊列の輪郭が滲み始めている。それでも一列目は動かない。突き出された穂先が、間を空けずに揃っている。


 この戦は、まだ終わらない。


 シルヴァの右腕がまだ上がっていた。肘から先が、一度も落ちていない。


 段の上の腕は下りた。街道の腕は、下りていない。


 数歩先で、セレナが空を見上げていた。


 組んだ指はそのままだ。今日ここで何を言われたかを、セレナはもう全部持っている。忘れられない形で。


 ゼノリスには、かける言葉が一つも出てこない。


 崩したのはこちらだ。そのあとに何が残るのかは、崩した側にも見えていない。


 あの塀は、まだ閉じている。



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