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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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201/209

第201話:「亡国の真実」

 束の音が遠ざかっていく。


 紐が鳴らない。紙を繰る音もしない。閉じたままの厚みが私の左を過ぎて、後ろへ回り込んだ。踵が二つ、土を掻いて止まった。


 カイロさんが下がっていく。


 セレナは喉に手を当てた。


 脈が指の腹を押し返してくる。速い。歌う前より、ずっと速い。


 空はまだ三つに割れたままだ。塀と祭壇の光景。私の顔。その二枚に押し分けられて、大聖堂前の広場が真ん中にある。どれも消えないまま、朝の光の中で青白く滲んでいる。


 塀の内側の音は、まだ降っている。


 いま吸ったこの一息のぶんだけ、あの中の数が減る。


「私は今から」


 声を出した。


 思っていたより低い音が出て、自分で驚いた。


「歌わなかった話をします」


 言い終わる前に、空がそれを掬い上げた。


 返ってくるものがない。段の下の声も、聖騎士の列も、いまは音を足さない。頭上の像の中で、白い鎧が真上を向いたまま動かずにいる。


「記録にはありません。魔王軍の記録の束にも入っていません」


 乾いた息が唇を擦って出ていく。


「私しか、知らないからです」


◇◇◇


 言葉が喉の途中で止まった。


 押し出す形は作れている。息も足りている。それなのに、次の一音が唇の裏に貼りついて、剥がれない。


 風が首筋を撫でた。


 冷たい。汗が乾いて、そこだけ体温が抜けている。


 セレナは指を組み直した。


「私の父……」


 一音ずつ、置いていく。


「エクリール王国の国王は、勇者に殺されました」


 頭上で、白い鎧の肩が一度だけ上下した。


 言い返してこない。


「勇者は私の歌声を欲しがりました。父のところへ来て、娘を差し出せと言いました。父は断りました。一度ではありません。何度も来て、そのたびに断りました」


 言いながら、あの廊下の匂いを思い出していた。石と蝋の匂いだ。


「あの夜、私は寝台を抜け出しました」


 口にした瞬間、体の芯が冷えた。


「父の部屋から声が聞こえてきたので、部屋の前まで行きました。扉は少しだけ開いていました」


 通路側の扉だ。


 指一本も入らないくらいの、細い隙間だった。私はそこに顔を寄せた。片方の目だけが、部屋の中に入った。


「私はそこから見ました……」


 声が細くなる。


「父の背中が見えました。その向こうに、白い服を着た勇者が立っていました。その腕が動いて」


 喉の奥が塞がった。


 肺の口が閉じて、吸ったものが胸に溜まったままになる。


 あの夜の音が勝手に始まった。


 鉄が布を裂いて、そのもっと厚いものへ入っていく音。短い。あっけないほど短い。剣が抜かれるときの音のほうが長かった。それから膝が床を打った音。手のひらが石を探して滑った音。


『……セレナ』


 父の声が、私の名前を呼んだ。


 最後の一音が、途中で息に変わって、消えた。


 あの声を、私は一度も忘れていない。


 いま、この耳の中で、あの夜と同じ高さで鳴っている。街道の風も、頭上の像も、遠くなっていく。石の床が膝の下にある。扉の木目が頬に触れている。私はあの隙間の前にいて、目が離れない。


 声が潰れた。


 途中まで出ていた音が、形を失って喉の中へ落ちる。


 そのとき、後ろで土が動いた。


 半歩ぶんの小さな音だ。それ以上は近づいてこない。声もない。ただ、そこにある重さだけが地面を伝って、私の踵を押し返した。


 ゼノ様だ。


 息を吸った。


 石の匂いが消えて、乾いた土の匂いが戻ってくる。踵の下にあるのは街道の土だ。私は立っている。見上げれば、割れた空がある。


――いまは、あの夜ではない。


 父の部屋の扉の幅しかなかった視界が、また端から端まで戻ってきた。


 涙が落ちた。


 頬を伝って、顎の先で止まる。拭わなかった。手を上げれば、その動きまで空へ運ばれる。


「私は」


 もう一度、喉を開いた。


「剣が父の胸を貫く音を、いまも覚えています。父が倒れた音も。父が最後に私の名を呼んだ声も。一音も欠けていません」


 言い切った。


 それから、間を空けた。


「見たあと、私は怖くなって隣の部屋へ逃げました」


 空が静まっている。


「隠れていました。棚と壁のあいだです。体を押し込むと肩がつかえて、そこが精一杯でした。どれくらいそうしていたかは分かりません。足音が部屋を一つずつ回っていました。扉が開く音がして、また閉まる音がして、それが近づいてきました」


 あのとき私が握っていたのは、寝間着の裾だった。布が汗で手に貼りついて、離れなかった。


「私が隠れた部屋の扉が開きました」


 喉が鳴った。


「足音がまっすぐこちらへ来ました。……棚の向こうから、あの人が覗き込みました。白い服に、赤いものがついていました」


 言葉を置いた。


「それを、この目で見ました」


 風が私の前を横に抜けていった。


 段の上で、白い鎧はまだ何も言わない。


「その翌朝です。私は庭園に連れていかれました」


 あの朝の空気は、湿っていて芝の匂いがしていた。


「あの人は言いました。父を殺したのは魔王だ、と。そして、自分が家族になると」


 自分の声が、当時の抑揚をなぞっていた。


 止めなかった。


「私は違うと言おうとしました」


 喉が動く。当時と同じ形に動いて、当時と同じところで止まった。


「父の部屋にいたのはあなただと、そう言うつもりでした。……でも、口が動きませんでした」


 あの朝、膝の上で私は指を握り込んでいた。


 握っていないと震えが止まらなかったからだ。前の夜に父を斬ったその手が、私の頭のすぐ上にあった。


「怖かったんです」


 言葉が滑り出た。


「言えば、父と同じことをされると思いました。あそこには、私とあの人しかいませんでした」


 息を継いだ。


「そのあとで、私の目は見えなくなりました」


 空へ言葉を渡した。


「私はショックで見えなくなったのだと聞かされました。ずっとそう信じていました」


 セレナは組んだ手を下ろした。


「けれど、違いました。呪毒でした」


 言った瞬間、指が震えた。


「勇者は私の目を封じました。それだけではありません。あの夜を、私の中から取り上げました。残ったのは、あの人の言葉だけです。魔王が父を殺した。あの人が私を救ってくれた」


 あの朝、言葉にできなかった私は、まだ違うと知っていた。その私ごと抜かれたあとに、疑うすべは残らない。


「その毒を、魔王ゼノリス様が解いてくださいました」


 頭上の像の中で、私の顔が動いている。


「私はいま、あの夜を思い出しています」


「違う」


 頭上から降ってきた。


 声を張っていない。段の上で白い鎧が一歩前へ出て、そこで足を止めている。


「お前の父は、魔王の内通者だった」


 言葉だけが残った。


「あの男は魔王軍と通じていた。国を売ろうとしていた。だから……」


 そこで切れた。


 続きが来ない。息だけが顎の下で往復して、言葉にならないまま空へ渡っていく。


「いや」


 言い直しが入った。


「魔王が殺したのだ。私は間に合わなかった。駆けつけたときには、もう」


 二つの話が私の頭の上で並んだ。


 内通者だったから死んだ。魔王が殺した。一呼吸も置かずに、両方が同じ喉から出た。


 自分がどちらを世界に言い続けてきたのか、あの人はもう思い出せずにいる。


 私は覚えている。


 庭園で聞かされたのは後者だ。私の前でだけ言った言葉だから、記録のどこにも残っていない。あの人が自分で作って、自分で私の耳に入れた順番を、私だけが正確に持っている。


「証拠を出せ」


 声が変わった。


 揺れが消えている。腕が上がり、真上を指した。


「その紙束の男に読ませてみろ。お前の話のどこに、書きつけがある?」


 口の中が空になった。


 最初に私が言ったことだ。この人はそれを拾って、投げ返してきた。


 紙はない。あの夜あの部屋にいたのは、父と勇者と私だけだ。父は死に、私は目を封じられた。証人はいない。


「私は聴きました」


 声が細くなるのが、自分で分かる。


「私の耳が――」


「耳?」


 被せてきた。


「耳が何を証明する。お前の頭の中を、誰が確かめられる」


 膝の裏が固くなった。


 筋が通っている側にいるのは、私ではない。私が持っているのは私の中にあるものだけで、それは誰にも開いて見せられない。


 頭の上で、また一つ声が途切れた。


 塀の内側だ。私が黙っているあいだ、あの中は薄くなっていく。


 紙で返された問いに、紙のない私が何を返すのか。指の先にも、喉の奥にも、それが無い。


◇◇◇


 そのとき、耳の奥で音が立ち上がった。


 あの朝の声だ。庭園の石畳の冷たさが膝から上がってくるあいだ、真上で鳴っていた。腹の底から出ていない声だ。それでいて、いちばん奥まで届く。


 私はそれを、そっくり外へ出した。


「魔王がお前の父を殺した。私が家族になろう」


 私の喉から、あの人の声の形が出た。


 空の中の私の口が、あの人の言葉の形に動いている。


 抑揚も、間の取り方も、語尾の落とし方も、あの朝のままだ。作っていない。持っていたものを、そのまま出しただけだ。


 この声を私に渡せた人は、あの庭園に一人しかいない。


 空から音が消えた。


 白い鎧の腕が宙で止まっている。


「私はこれを、あの朝に聴きました。一言も変えていません」


 段の上で、何かが崩れる音がした。


「……なぜ」


 喉から漏れた。


 言いかけて、また止まる。


 それから、勢いよく前へ出た。


「違う。お前は見ていない」


 鎧が段の縁まで来ていた。


「お前はあの部屋にいなかった。隣の部屋にいた。私が見つけたのだ」


 その一言が空の隅々まで行き渡った。


 私の頭の上でも、大聖堂前の広場の上でも、この街道の空でも、同じ言葉が同じ大きさで鳴っている。


 耳の脇を、風が通り抜けた。


 あの人は勝ったつもりでいる。胸を張り、次の言葉を継ごうとしている。自分がいま何を言ったのか、まだ数えていない。


 セレナは空を見上げた。


「なぜ、あなたは私を探していたのですか」


 言葉が真上へ上がっていった。


 問い終えたあとで、喉の奥が鳴った。さっきまで潰れていた場所だ。そこがいま、私の意思と関係なく開いている。


 下りかけていた白い鎧の顎が、そこで固まった。


 開いた腕は上げた高さのまま動かない。肘から先だけが行き先を失って震えていた。


 魔王が父を殺したのなら、あの夜あの城に、あの人はいなかったはずだ。そこにいない人間が、誰がどの部屋にいたかを言い当て、探し回り、見つけた場所まで覚えている。


 それを、この人は一息で三つ言った。


「私が見ていないと、あなたは言いました」


 声が戻ってきていた。


「棚と壁のあいだにいた私を、あなたは見つけた。……そのとき、私は生きていました」


 白い鎧が半歩下がった。


「生きている私に、あなたは何をしましたか」


 踵が石を擦る音が、空を渡って落ちてきた。


 答えれば、あの夜あの部屋にいたと認めるしかない。答えなければ、自分で置いた三つだけが空に残る。


「魔王の傀儡だ!」


 下から声が跳ね上がった。


 石段の裾からだ。聖騎士の列の中で一人が叫び、それに二つ三つが重なっていく。言葉になっているものと、なっていないものが混ざって、一つの厚みになる。


「聞くな!」


「作り話だ!」


 音が押し寄せてくる。


 その中に、途中で切れる声がある。張り上げかけて、そのまま下りてしまう喉がある。揃わないまま、列の上を声が転がっていく。


 前列は動かない。


 段の裾に張りついた一列だけが、後ろの乱れを背中で塞いでいる。穂先の高さが一本もずれていない。この人たちの手前で、私の声は弾かれている。


◇◇◇


 広場の像が音を変えた。


 叫びではない。うねりでもない。数えきれない口が、それぞれ別のことを喋り始めた音だ。


 さっきまで『魔王の声だ』で揃っていたところに、揃わないものが割り込んでくる。隣に何かを尋ねる声。返している声。返されて黙る声。


 言葉は取れない。


 取れないまま、音の向きだけが変わっていくのが分かる。


 いちばん手前で、女の指が連れの袖から抜けた。抜けた手がそのまま口元へ上がる。


 その後ろで、男が一歩下がった。前の人の肩の隙間へ体を入れて、空を見る角度を作った。


 風が来た。


 私の髪を横へ流して、そのまま輜重の列の方へ抜けていく。誰が何を暴こうと、この風の強さは変わらない。光も、朝に決まった角度のまま私の頬に当たっている。


 また目の縁が濡れた。


 拭わない。


 あの人はまだ段の上にいる。腕を下ろせないまま、それでも降りてこない。


 私は顎を上げた。


 向きが変わった。それだけだ。


 いま押し込まなければ、変わった向きは元の位置へ戻る。押し込めるものは、この喉のほかにない。



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