第201話:「亡国の真実」
束の音が遠ざかっていく。
紐が鳴らない。紙を繰る音もしない。閉じたままの厚みが私の左を過ぎて、後ろへ回り込んだ。踵が二つ、土を掻いて止まった。
カイロさんが下がっていく。
セレナは喉に手を当てた。
脈が指の腹を押し返してくる。速い。歌う前より、ずっと速い。
空はまだ三つに割れたままだ。塀と祭壇の光景。私の顔。その二枚に押し分けられて、大聖堂前の広場が真ん中にある。どれも消えないまま、朝の光の中で青白く滲んでいる。
塀の内側の音は、まだ降っている。
いま吸ったこの一息のぶんだけ、あの中の数が減る。
「私は今から」
声を出した。
思っていたより低い音が出て、自分で驚いた。
「歌わなかった話をします」
言い終わる前に、空がそれを掬い上げた。
返ってくるものがない。段の下の声も、聖騎士の列も、いまは音を足さない。頭上の像の中で、白い鎧が真上を向いたまま動かずにいる。
「記録にはありません。魔王軍の記録の束にも入っていません」
乾いた息が唇を擦って出ていく。
「私しか、知らないからです」
◇◇◇
言葉が喉の途中で止まった。
押し出す形は作れている。息も足りている。それなのに、次の一音が唇の裏に貼りついて、剥がれない。
風が首筋を撫でた。
冷たい。汗が乾いて、そこだけ体温が抜けている。
セレナは指を組み直した。
「私の父……」
一音ずつ、置いていく。
「エクリール王国の国王は、勇者に殺されました」
頭上で、白い鎧の肩が一度だけ上下した。
言い返してこない。
「勇者は私の歌声を欲しがりました。父のところへ来て、娘を差し出せと言いました。父は断りました。一度ではありません。何度も来て、そのたびに断りました」
言いながら、あの廊下の匂いを思い出していた。石と蝋の匂いだ。
「あの夜、私は寝台を抜け出しました」
口にした瞬間、体の芯が冷えた。
「父の部屋から声が聞こえてきたので、部屋の前まで行きました。扉は少しだけ開いていました」
通路側の扉だ。
指一本も入らないくらいの、細い隙間だった。私はそこに顔を寄せた。片方の目だけが、部屋の中に入った。
「私はそこから見ました……」
声が細くなる。
「父の背中が見えました。その向こうに、白い服を着た勇者が立っていました。その腕が動いて」
喉の奥が塞がった。
肺の口が閉じて、吸ったものが胸に溜まったままになる。
あの夜の音が勝手に始まった。
鉄が布を裂いて、そのもっと厚いものへ入っていく音。短い。あっけないほど短い。剣が抜かれるときの音のほうが長かった。それから膝が床を打った音。手のひらが石を探して滑った音。
『……セレナ』
父の声が、私の名前を呼んだ。
最後の一音が、途中で息に変わって、消えた。
あの声を、私は一度も忘れていない。
いま、この耳の中で、あの夜と同じ高さで鳴っている。街道の風も、頭上の像も、遠くなっていく。石の床が膝の下にある。扉の木目が頬に触れている。私はあの隙間の前にいて、目が離れない。
声が潰れた。
途中まで出ていた音が、形を失って喉の中へ落ちる。
そのとき、後ろで土が動いた。
半歩ぶんの小さな音だ。それ以上は近づいてこない。声もない。ただ、そこにある重さだけが地面を伝って、私の踵を押し返した。
ゼノ様だ。
息を吸った。
石の匂いが消えて、乾いた土の匂いが戻ってくる。踵の下にあるのは街道の土だ。私は立っている。見上げれば、割れた空がある。
――いまは、あの夜ではない。
父の部屋の扉の幅しかなかった視界が、また端から端まで戻ってきた。
涙が落ちた。
頬を伝って、顎の先で止まる。拭わなかった。手を上げれば、その動きまで空へ運ばれる。
「私は」
もう一度、喉を開いた。
「剣が父の胸を貫く音を、いまも覚えています。父が倒れた音も。父が最後に私の名を呼んだ声も。一音も欠けていません」
言い切った。
それから、間を空けた。
「見たあと、私は怖くなって隣の部屋へ逃げました」
空が静まっている。
「隠れていました。棚と壁のあいだです。体を押し込むと肩がつかえて、そこが精一杯でした。どれくらいそうしていたかは分かりません。足音が部屋を一つずつ回っていました。扉が開く音がして、また閉まる音がして、それが近づいてきました」
あのとき私が握っていたのは、寝間着の裾だった。布が汗で手に貼りついて、離れなかった。
「私が隠れた部屋の扉が開きました」
喉が鳴った。
「足音がまっすぐこちらへ来ました。……棚の向こうから、あの人が覗き込みました。白い服に、赤いものがついていました」
言葉を置いた。
「それを、この目で見ました」
風が私の前を横に抜けていった。
段の上で、白い鎧はまだ何も言わない。
「その翌朝です。私は庭園に連れていかれました」
あの朝の空気は、湿っていて芝の匂いがしていた。
「あの人は言いました。父を殺したのは魔王だ、と。そして、自分が家族になると」
自分の声が、当時の抑揚をなぞっていた。
止めなかった。
「私は違うと言おうとしました」
喉が動く。当時と同じ形に動いて、当時と同じところで止まった。
「父の部屋にいたのはあなただと、そう言うつもりでした。……でも、口が動きませんでした」
あの朝、膝の上で私は指を握り込んでいた。
握っていないと震えが止まらなかったからだ。前の夜に父を斬ったその手が、私の頭のすぐ上にあった。
「怖かったんです」
言葉が滑り出た。
「言えば、父と同じことをされると思いました。あそこには、私とあの人しかいませんでした」
息を継いだ。
「そのあとで、私の目は見えなくなりました」
空へ言葉を渡した。
「私はショックで見えなくなったのだと聞かされました。ずっとそう信じていました」
セレナは組んだ手を下ろした。
「けれど、違いました。呪毒でした」
言った瞬間、指が震えた。
「勇者は私の目を封じました。それだけではありません。あの夜を、私の中から取り上げました。残ったのは、あの人の言葉だけです。魔王が父を殺した。あの人が私を救ってくれた」
あの朝、言葉にできなかった私は、まだ違うと知っていた。その私ごと抜かれたあとに、疑うすべは残らない。
「その毒を、魔王ゼノリス様が解いてくださいました」
頭上の像の中で、私の顔が動いている。
「私はいま、あの夜を思い出しています」
「違う」
頭上から降ってきた。
声を張っていない。段の上で白い鎧が一歩前へ出て、そこで足を止めている。
「お前の父は、魔王の内通者だった」
言葉だけが残った。
「あの男は魔王軍と通じていた。国を売ろうとしていた。だから……」
そこで切れた。
続きが来ない。息だけが顎の下で往復して、言葉にならないまま空へ渡っていく。
「いや」
言い直しが入った。
「魔王が殺したのだ。私は間に合わなかった。駆けつけたときには、もう」
二つの話が私の頭の上で並んだ。
内通者だったから死んだ。魔王が殺した。一呼吸も置かずに、両方が同じ喉から出た。
自分がどちらを世界に言い続けてきたのか、あの人はもう思い出せずにいる。
私は覚えている。
庭園で聞かされたのは後者だ。私の前でだけ言った言葉だから、記録のどこにも残っていない。あの人が自分で作って、自分で私の耳に入れた順番を、私だけが正確に持っている。
「証拠を出せ」
声が変わった。
揺れが消えている。腕が上がり、真上を指した。
「その紙束の男に読ませてみろ。お前の話のどこに、書きつけがある?」
口の中が空になった。
最初に私が言ったことだ。この人はそれを拾って、投げ返してきた。
紙はない。あの夜あの部屋にいたのは、父と勇者と私だけだ。父は死に、私は目を封じられた。証人はいない。
「私は聴きました」
声が細くなるのが、自分で分かる。
「私の耳が――」
「耳?」
被せてきた。
「耳が何を証明する。お前の頭の中を、誰が確かめられる」
膝の裏が固くなった。
筋が通っている側にいるのは、私ではない。私が持っているのは私の中にあるものだけで、それは誰にも開いて見せられない。
頭の上で、また一つ声が途切れた。
塀の内側だ。私が黙っているあいだ、あの中は薄くなっていく。
紙で返された問いに、紙のない私が何を返すのか。指の先にも、喉の奥にも、それが無い。
◇◇◇
そのとき、耳の奥で音が立ち上がった。
あの朝の声だ。庭園の石畳の冷たさが膝から上がってくるあいだ、真上で鳴っていた。腹の底から出ていない声だ。それでいて、いちばん奥まで届く。
私はそれを、そっくり外へ出した。
「魔王がお前の父を殺した。私が家族になろう」
私の喉から、あの人の声の形が出た。
空の中の私の口が、あの人の言葉の形に動いている。
抑揚も、間の取り方も、語尾の落とし方も、あの朝のままだ。作っていない。持っていたものを、そのまま出しただけだ。
この声を私に渡せた人は、あの庭園に一人しかいない。
空から音が消えた。
白い鎧の腕が宙で止まっている。
「私はこれを、あの朝に聴きました。一言も変えていません」
段の上で、何かが崩れる音がした。
「……なぜ」
喉から漏れた。
言いかけて、また止まる。
それから、勢いよく前へ出た。
「違う。お前は見ていない」
鎧が段の縁まで来ていた。
「お前はあの部屋にいなかった。隣の部屋にいた。私が見つけたのだ」
その一言が空の隅々まで行き渡った。
私の頭の上でも、大聖堂前の広場の上でも、この街道の空でも、同じ言葉が同じ大きさで鳴っている。
耳の脇を、風が通り抜けた。
あの人は勝ったつもりでいる。胸を張り、次の言葉を継ごうとしている。自分がいま何を言ったのか、まだ数えていない。
セレナは空を見上げた。
「なぜ、あなたは私を探していたのですか」
言葉が真上へ上がっていった。
問い終えたあとで、喉の奥が鳴った。さっきまで潰れていた場所だ。そこがいま、私の意思と関係なく開いている。
下りかけていた白い鎧の顎が、そこで固まった。
開いた腕は上げた高さのまま動かない。肘から先だけが行き先を失って震えていた。
魔王が父を殺したのなら、あの夜あの城に、あの人はいなかったはずだ。そこにいない人間が、誰がどの部屋にいたかを言い当て、探し回り、見つけた場所まで覚えている。
それを、この人は一息で三つ言った。
「私が見ていないと、あなたは言いました」
声が戻ってきていた。
「棚と壁のあいだにいた私を、あなたは見つけた。……そのとき、私は生きていました」
白い鎧が半歩下がった。
「生きている私に、あなたは何をしましたか」
踵が石を擦る音が、空を渡って落ちてきた。
答えれば、あの夜あの部屋にいたと認めるしかない。答えなければ、自分で置いた三つだけが空に残る。
「魔王の傀儡だ!」
下から声が跳ね上がった。
石段の裾からだ。聖騎士の列の中で一人が叫び、それに二つ三つが重なっていく。言葉になっているものと、なっていないものが混ざって、一つの厚みになる。
「聞くな!」
「作り話だ!」
音が押し寄せてくる。
その中に、途中で切れる声がある。張り上げかけて、そのまま下りてしまう喉がある。揃わないまま、列の上を声が転がっていく。
前列は動かない。
段の裾に張りついた一列だけが、後ろの乱れを背中で塞いでいる。穂先の高さが一本もずれていない。この人たちの手前で、私の声は弾かれている。
◇◇◇
広場の像が音を変えた。
叫びではない。うねりでもない。数えきれない口が、それぞれ別のことを喋り始めた音だ。
さっきまで『魔王の声だ』で揃っていたところに、揃わないものが割り込んでくる。隣に何かを尋ねる声。返している声。返されて黙る声。
言葉は取れない。
取れないまま、音の向きだけが変わっていくのが分かる。
いちばん手前で、女の指が連れの袖から抜けた。抜けた手がそのまま口元へ上がる。
その後ろで、男が一歩下がった。前の人の肩の隙間へ体を入れて、空を見る角度を作った。
風が来た。
私の髪を横へ流して、そのまま輜重の列の方へ抜けていく。誰が何を暴こうと、この風の強さは変わらない。光も、朝に決まった角度のまま私の頬に当たっている。
また目の縁が濡れた。
拭わない。
あの人はまだ段の上にいる。腕を下ろせないまま、それでも降りてこない。
私は顎を上げた。
向きが変わった。それだけだ。
いま押し込まなければ、変わった向きは元の位置へ戻る。押し込めるものは、この喉のほかにない。




