第200話:「矛盾の告発」
「第一の歌」
『勇者様は、星暦1185年、魔王が魔王城で罪なき民を虐殺し、恐怖で支配していたとき、民を解放するために立ち上がりました』
舌が上顎から離れた。喉の奥に息の通り道ができて、覚えたときのままの節が出た。
空の上で、勇者の白い鎧が動いた。顎が下りかけたところへ、私の声が先に乗っていた。
抑揚まで同じだった。旋律を外して言葉だけを並べたつもりでも、節の切れ目が勝手に元の位置へ落ちる。私の喉が、あの頃のまま動いている。
その体をいま、嘘を嘘だと言うために使っている。
乾いた口の中に、砂の味が残った。
塀の内側の音は、まだ頭の上にある。私が一節を置くあいだに、誰かの音が消える。
この一節を、私は広場で何度も歌った。歌い終えるたび、前の方で息を詰める気配があった。抑えきれずに声が漏れることもあった。あの人たちは、魔王城で人が殺されたと信じて泣いていた。
背後で、紙が鳴った。
束の中ほどから一枚が抜かれる音だ。厚みの中を指が探り、目当ての一枚に爪が掛かって、そこから引き出される。カイロさんは手元を見ずにそれをやった。どの位置に何があるかを、すでに指が覚えている。
「旧魔王軍の記録から読み上げます」
カイロさんの声が、私の左後ろから出た。
高くも低くもない。空へ渡ることになる一行を、勘定の数字と同じ置き方で読んだ。
「その年、旧魔王領では民の虐殺は記録されていない。魔王城周辺の住民台帳も残っており、人口の減少もない」
言い終えると、紙を戻す音がした。
空がそれを持っていった。
私の歌詞と、カイロさんの一行が、同じ高さで世界中の空に並んでいる。
殺されていない民を、解放することはできない。
だが、束から指が離れなかった。
束の中で指がもう一段深く入り、別の一枚が浮き上がる。
「むしろ、逆の記録が残っています」
声の置き方が変わらないまま、次が来た。
「勇者が魔王を倒した後、魔王軍の残党とその家族が処刑されています。名簿があります。子どもの名も入っています」
息が止まった。
虐殺は、あった。
私が歌ってきたのは、殺した側と殺された側が逆さになっただけの話だ。あの旋律の中で殺された人たちと、本当に殺された人たちが、頭の中で入れ替わっていく。私はその入れ替えを、自分の喉でやっていた。
セレナは像を見た。
段の下だ。祭壇へ続く石段の裾を、聖騎士団の白い外套が埋めている。整っていた列の中ほどで、肩の線が一つ、隣へ寄った。
寄せた顔が隣の耳元へ近づく。
その隣が首を横に振った。振ってから、自分も反対側へ顔を向けた。動きが列の奥へ、水が滲むように広がっていく。
白い鎧は振り返らなかった。
段の上で、真上だけを見ている。段の下で何が起きているかを、この人はまだ見ていない。
なら、続ける。
◇◇◇
街道に立っているのは、私一人だった。
前にも後ろにも人はいる。だが空を仰いでいるのは私だけで、その頭の上に、塀と祭壇と自分の顔が並んでいる。地面のこの一点と、空一面が繋がっている。
風が右の頬を撫でて抜けた。乾いた土の粒が、靴底の下で細かく砕ける。まだここに立てる。
「第二の歌」
『勇者様は、星暦1190年、旧魔王軍が北方鉱山地帯の村を襲い、罪なき民を虐殺したとき、村に駆けつけて村人たちを救いました』
二節目までを置いた。
この歌には続きがあった。焼かれた家の前で村人が勇者の手を取る、という一節だ。民はその箇所でいつも息を呑んだ。手を取る、という言葉が、遠くの席まで届いていた。
「同じ日の記録です」
間を置かずに、後ろから声が来た。
「その日、旧魔王軍は西方グランフェル国境で作戦を行っています。動員された部隊の名と、補給の受け渡しの記録が残っています。北方鉱山地帯の村への侵攻記録は、一切存在しません」
頭上で、二つが並んだ。
右の空に私の口がまだ動いていて、左の空へカイロさんの声が渡っていく。どちらも同じ大きさだ。歌が上で、記録が下ということもない。並べて置かれて、そのまま世界の端まで運ばれていく。
国境と鉱山は、大陸の端と端だ。
軍を二つに分ければ、両方へ出せる。だが分けた側の名も、食わせた分も、どこにもない。
「その村については、別の記録もあります」
カイロさんが続けた。束へ戻す音がしない。この一枚は、手に持ったままだった。
「聖教会の重税と、鉱山労働の強制で困窮していたと書かれています。徴収の記録は年ごとに残っています」
歌の中では、勇者が駆けつけて救っていた。
頭上で、列が音を立てた。今度は肩ではない。踵だ。並んでいた足の位置が動いて、石を擦っている。
その右隣に、私がいた。
空の端へ寄せられた顔だ。銀の髪が風に流れて、口だけが動いている。声を出しているのに、表情が変わらない。
「第三の歌」
セレナは順を入れ替えた。
「カイロさん」
「はい」
名を呼ぶと、それだけで通じた。紙を繰る音が先に来た。
「星暦1207年。その日、私たちは辺境の街を勇者の支配から解放しました。街には魔族と人族の奴隷がいました。首に縄の痕が残っている者もいました。私たちが救出した者の名を、全員分控えてあります」
その上へ、私が歌を置く。
『勇者様は、星暦1207年、春の満月の夜、辺境の街に侵攻してきた新たな魔王軍を打ち破り、街を守りました』
二つが空で並んだ。
同じ夜、同じ街。片方には解放された奴隷の名簿があり、もう片方には打ち破ったという勝利がある。
「勇者軍が『守った』のではありません」
カイロさんの声が、はじめて一段低くなった。
「私たちが『奪還』したのです。あの街に、私はいました」
息を吸った。肩を上げずに、腰の後ろまで届いた。
三つ並べた。もう戻れない。
「――違う!」
空の全部が鳴った。
白い鎧が顎を上げ、喉から声を押し出している。声は段の下を越えて、真上へ、私の顔がある方へ飛んできた。
「それは魔王が改竄した記録だ! 信じるな!」
最後の一音が、途中で潰れた。
潰れたところへ、別の声が滑り込んできた。
「その通りです!」
段の上だ。細い体躯の男が、退がらされた場所で背を伸ばしていた。そこから一歩も動かないまま、叫んでいる。
「魔王の書いた紙に、何の値打ちがありますか!」
その声に、下から音が被さった。
白い外套の列だ。聖騎士たちの中ほどから声が上がり、それが右へ左へ伝わって、段の裾で一つの塊になる。言葉は取れない。取れないまま、音の厚みだけが増していく。
揃った。
肩を寄せ合っていた顔が上を向いて、同じ方向へ声を出している。
一人が叫んだだけだった。
それが十になり、石段の裾いっぱいになるまで、息を継ぐ間もなかった。
セレナは指を握った。
握った指の中が汗で滑る。第一の歌で肩をずらした者も、第二で踵を鳴らした者も、この中にいる。あの人たちは戻ってしまった。
それでも、まだ二つある。
空を見上げたまま、セレナは唇を開いた。
「ここから先は」
声が届くように、間を置いた。
「私が歌ったものでは、ありません」
段の下の音が、途中で止まった。
塊になりかけていた声が、途切れる。張り上げていた喉が、そのまま行き場をなくす。
それから、笑い声が落ちてきた。
「……歌っていない?」
白い鎧の口の端が、片方だけ上がっていた。
「お前がだ。お前が歌っていない話を、どう読み上げる?」
喉の詰まりが取れている。さっきまで壊れていた音が、演壇に立つときの通り方に戻っていた。
「言ってみろ。魔王のところで誰かに教えられたのか。それとも、あの男が紙に書いて渡したのか」
膝から上が固くなった。
答えが出てこない。
私は歌っていない。あの人は、この二つを私に歌わせなかった。歌わされなかった話は、一度も私の耳を通っていない。
「聞いているぞ、セレナ」
名を呼ばれた。
「お前が覚えているのは、私がお前に歌わせた分だけだ。その先まで語れるなら、誰かがお前に吹き込んだということだ」
冷えが指の付け根まで上がってきた。
この人の言い分は、私の側から見ても筋が通ってしまう。歌っていない話を、なぜ私が知っているのか。それを聞かされた人は、どう思うだろう。
背後の紙が止まっていた。
繰る音が来ない。
「これが魔王の手口だ」
白い鎧が両腕を開いた。
「歌姫を奪い、声を作り替え、私の名を汚す筋書きを覚えさせた。私の知っているセレナは、もうそこにいない」
声が下へ落ちて、段の裾で拾われた。
「そうだ!」
「魔王の声だ!」
白い外套の列から、また声が上がった。今度は言葉になっている。さっきより数が多い。前列も後列も同じ言葉を出して、それが石段に反響して膨らんでいく。
その音が、私の中へ入ってくる。
選べない。私を魔王の声だと呼ぶ叫びが、あの日の拍手のすぐ隣に落ちて、そのまま消えない。
喉が渇いた。
声を出す形に唇を動かした。息が上がってこない。喉まで持ち上げる力が、どこを探しても掴めなかった。
このまま黙っていれば、この人が勝つ。
そして私は、勝った側の声を、一つも落とさずに覚えていることになる。
頭の上では、塀の内側の音がまだ降っている。私が黙り込んでいるあいだにも、あの中の音は欠けていく。
早く言わなければならない。分かっているのに、体のどこにも次の一言がなかった。
◇◇◇
土を踏む音が、背後から来た。
一歩。二歩。それが私の左を追い越して、前へ出た。
暗色の裾が膝の高さを掠めていく。カイロさんが束を抱えたまま、私の前に立った。
「歌っていないものを、セレナさんが語る必要はありません」
息が、喉まで戻ってきた。
私が探していた一言を、この人が背中越しに持っていた。
声が空へ乗った。
張り上げてもいない。段の上へ向けてすらいない。それでも空はその声を落とさなかった。低いまま持ち上げて、世界の端まで運んでいく。
「ここからは、俺が読みます」
カイロさんが紐を解いた。
結び目が緩んで、束が手の中で少し開く。そこへ指が入り、探す前に止まった。
「まず、そちらが何を言っていたかを申し上げます」
白い鎧が口を開きかけて、そのまま止まった。
「星暦1208年、冬至の日。魔王城に侵攻してきた魔王を勇者が迎え撃ち、魔王城を守り抜いた。そちらはそう言い続けています」
カイロさんが一枚を引き出した。
羊皮紙だった。私の歌の束とは紙の質が違う。厚く、縁が波打ち、日に灼けて茶色く変わっている。下の方に、丸い印章の跡があった。
「これは各地の教会が街に貼り出した『聖教会布告』の写しです。同じ文言のものが、他の街で確認されています」
紙が風を受けて反った。カイロさんは指を添えて止め、次を出した。
「勇者の演説の文言は、諜報員が逐語で取っています。商隊と、国境を越えてきた人たちからも同じ話が届いています。どれも符合しました」
紙が束の中へ戻った。指が次の一枚を探す。厚みの半ばで止まり、そこから先へは行かなかった。
「同じ日の、私たちの記録です」
声の速さが変わった。
「その日、私たちは勇者に奪われていた魔王城を奪還しました。門の内側まで、私はこの足で入っています」
段の上で、白い鎧の口が動いた。開いて、形を作りかけて、そこで止まる
空が何も運ばなくなった。
段の上から、返しが来ない。
「これも『守った』話ではありません」
語尾が、そこで重くなった。
「勇者が不法に占拠していた城を、正当な王であるゼノリス様が取り戻された。それだけです」
「星暦1210年、夏至の日」
カイロさんが続けた。
「聖都ルメナに侵攻してきた魔王を勇者が迎え撃ち、聖都を守り抜いた。そちらの布告には、そう書いてあります」
紙をもう一枚。
「その日、魔王軍は魔王領にいました。難民の受け入れと、内政の整備をしています。動員の記録も、糧食の払い出しも、全部この束の中にあります」
紙の擦れる音が、風の中で一度だけ鳴った。
「軍勢は一歩も外に出ていません。聖都ルメナへの侵攻計画は、立案の段階からして存在しません」
カイロさんが束を持ち直した。
「むしろその時期、魔王国は各国と交易協定を結ぼうとしていました。相手国の名も、日付も残っています」
言い終えて、カイロさんは束を閉じた。
風が吹き抜けた。それでも、塀の内側の声だけは止まらない。
攻め込んだことにされた日に、私たちは商いの話をしていた。
白い鎧が言葉を出す形のまま止まっている。さっき私が見たのと、同じ形だった。
そのとき、空が割れた。
塀と祭壇が左へ滑っていく。段の上の白い鎧が、空の中で小さくなりながら端へ寄った。同時に、私の顔が右へ引かれる。顎の輪郭が街道の幅から縮んで、木立の上あたりまで下がった。
その二つのあいだに、隙間が開いた。
開いた場所へ、別の色が下から押し上がってくる。
顔だ。
数えきれない顔が、揃って真上を向いている。
いちばん手前の男が、口を開けたまま閉じるのを忘れている。その隣で、女が連れの袖を握り込んだ。少し後ろ、膝をついた老人が動かない。
籠が倒れた。こぼれた中身が、次々に踏み潰されていく。
大聖堂前の広場だ。
私が何度も歌った場所だった。
音が降ってきた。人の喉から出たものが幾重にも重なって、私の頭の上に積み上がっていく。
セレナは振り返った。
街道の後ろ、輜重の列の手前に、淡い髪が風にほどけていた。上げた右腕はそのままだ。首だけがこちらへ回っている。
シルヴァさんの目が、私を見ていた。
目元の力がふっと緩む。口の端が、ほんの少しだけ動いた。
誰も何も言わない。カイロさんは前を向いたままだ。ゼノ様は半歩後ろで動かない。あの広場を空へ上げたのは、シルヴァさんの判断だ。
私に見せたのだ。
喉の奥が熱くなった。セレナはそれを飲み下して、前へ向き直った。
空の中で、白い鎧が民衆の像を見上げていた。
◇◇◇
「げ、幻術だ」
白い鎧が言った。
「これも魔王の幻術だ! 俺の言葉を聞け!」
――いま『俺』と言った。
演壇の上で、この人はいつも『私』と言うのに、その一音を外した。
その声が、広場の像の上に降りていく。
顔が動いた。空を仰いでいた一人が、隣へ首を回す。回された先が、目を合わせなかった。
「聞け!」
もう一度、上から落ちた。
石畳の上で、後ろの方にいた誰かが背を向けた。人の間を縫って、広場の外へ歩いていく。それを追う手はなかった。
白い鎧の腕が耳の脇まで上がった。そこで止まって、下ろす先を見つけられずにいる。
広場の音は、この人の真上にも降っている。私が浴びたのと同じ音が、段の上にも落ちている。
段の下で、音が減っていった。
さっきまで言葉になっていた声が、途中で切れる。切れたところに次が入らない。白い外套の間隔が、後ろの列から開いた。槍の柄が石を打つ音は、もう揃っていない。
一つ、二つと、音が抜けていく。
抜けたところは、そのまま埋まらなかった。
セレナは肩を落とした。
落とした分だけ、踵が土の中へ沈んだ。
だが、前列は動かない。
石段のいちばん近くに並んだ者たちは、間隔を保ったままだ。顎の位置も、槍の角度も、最初から一分も変わっていない。あの人たちは、まだ段の上を信じている。
私の声は、あそこまでは届いていない。
像の中の白い鎧が、何かを叫んだ。声が裏返って、途中で音にならなかった。
その半端な音まで、空は運んだ。
カイロさんは束を閉じたまま、前に立っている。退がってこない。
セレナは握っていた指を開いた。
汗で湿った掌に、風が当たる。冷たい。この手が乾ききる前に、次を言わなければならない。
五つ並べた。それだけ並べても、あの人は段の上から降りてこない。
塀の内側で、また一つ名前が呼ばれた。呼ばれた側の声が、もう出てこない。
記録では届かない。あそこに届くものを、私はもう一つだけ持っている。
歌にしなかった。誰にも聴かせないまま、喉の奥に沈めてきた。ずっとだ。
セレナは唇を湿らせた。乾いた皮が舌に触れて、そこが裂けた。
それを、いま出す。




