第199話:「証言の開始」
踵が土を捉えて、そのまま体が前へ運ばれた。いま、頭上の像の中では人が死んでいる。
土は乾いていた。轍の縁に足の外側が乗り、少し傾いで、次の一歩でまた平らに戻る。セレナは歩幅を変えなかった。歌う前に舞台へ出るときと同じ速さで、同じ長さで、足を運んだ。そうしなければ、途中で止まってしまう気がした。
二歩目の音が、自分の足の分しか鳴らなかった。
セレナは耳を後ろへ向けた。
ゼノ様の足音がない。カイロさんの、紙の束を抱えた重い足取りもない。二人とも、さっきの位置に立ったままだ。土を踏み替える気配だけがあって、それが前へ来ない。
誰も、並んで歩いてこない。
ゼノ様はさっき、私の名を呼んで、真横に立ってくれた。触れずに、同じ土を踏んで。そのうえで、いまは動かずにいる。
これは、私が言い出したことだからだ。
セレナは前を向いたまま、喉の奥に息を入れた。
私はこれから、自分が歌ってきたものを嘘だったと言う。
長いあいだ、あの人が語った言葉を旋律に乗せてきた。日付を歌い、場所を歌い、救われた村の名を歌った。広場でそれを聴いた人が泣いて、私の手を取ろうとして、兵士に止められた。その人たちに向かって、あれは一つ残らず作り話でしたと、私の口で言う。
あの人が世界に建てたものを、私の声で崩す。
頭上から、声が降り続けていた。
塀の内側の声だ。名前を呼ぶ声。門を叩く音。祈りの言葉が途中で切れて、そのあとが続かない。数えられる範囲を、とうに越えている。その一つ一つが耳から入って、私の中に積まれていく。
いま私が黙っている間も、あそこでは人が減っている。
足が速くなりかけて、そこでこらえた。
速めれば息が乱れる。息が乱れれば声が濁る。濁った声で最初の一言を口にしたら、あの人はそこを掴む。取り乱した女が喚いていると、そう言えば済んでしまう。
数歩先に、シルヴァさんの背中があった。
風を受けた布が、肩の後ろで波を打っている。右腕は空へ伸びたきりで、指の先だけが、糸を手繰るように細かく動いていた。声をかけても、たぶん返らない。シルヴァさんはいま、術式の側へ自分を寄せきっている。
その背中の脇を通り抜けた。
風が後ろから来て、埃と古い紙の匂いを鼻先へ置いていった。カイロさんが持っている束の匂いだ。城の書庫で何年も眠っていた紙が、いま、この街道の風の中にある。
あの束の中に、日付がある。
私の歌の中にも、日付がある。
二つを並べたとき、片方が嘘なら、必ず食い違う。カイロさんはそう言って、旧魔王軍の時代の記録まで運んできた。
セレナは歩みを止めた。
爪先が土を掻いて、そこで揃った。前にはもう誰の背中もない。街道の土が緩く下って、その先の勾配の底から地鳴りが這い上がってくる。膝の裏が細かく震えた。
ここから話す。
セレナは顔を上げた。
◇◇◇
空気が耳の中で薄くなった。
鼓膜の外側を撫でていた風の音が、一瞬だけ遠のいた。潜るときに似ている。セレナは息を止めた。止めた自分の呼吸が、やけに大きく耳に返ってくる。
頭上で、青白いものが割れた。
塀と祭壇の光景が、端の方から押しやられていく。空一面を占めていた区画の輪郭が右へ寄り、段の上に立つ白い鎧が、空の隅へ追いやられた。その空いたところへ、別の像が滑り込んできた。
誰かの顔だった。
銀の髪が風に乱れ、その一筋が頬に張りついている。藍色の目が真上を向いていた。
セレナは自分の頬に手を当てた。
空の中の女が、同じところへ手を当てた。
私だ。
膝から下の感覚が、すっと引いた。倒れる前触れの引き方だった。セレナは足の親指に力を込めて、土を掴んだ。
空の私は大きすぎた。
顎の輪郭が街道の端から端まであって、瞬きをすると、その音がしそうなほどだった。
シルヴァさんが、映すものを一つ増やしたのだ。
塀の内側を映していた術式が、いまは私を運んでいる。その腕の先で、私の顔とあの塀の光景が、並んで空にある。
その二つを、同じ人たちが同時に見ている。
セレナは唇を開いた。
開いた瞬間に、耳が鳴った。
空から降ってくる音が、途切れずに入ってくる。名前を呼ぶ声。喉が擦れる音。誰かが誰かの服を掴んで引く布の音。それが順に内側へ落ちて、そこに私の呼吸が混ざった。吸って、吐いた。その一往復まで、他の音と同じ棚に並んで残っていく。
【超記憶】は、選ばない。いま私が出す声も、あの人たちの声と同じ場所に、同じ重さで置かれる。
だったら、残るものを出す。
セレナは腹の底へ息を落とした。
落ちた。歌う前と同じ深さまで入った。
「私は、セレナ・ヴォルガデス」
声が出た。
「魔王国の魔王妃として。そして、亡国エクリール王国の姫として、勇者アリアスの嘘を語ります」
言い切った。
語尾が風に触れて、街道の斜面の方へ流れていった。セレナは息を吸った。
半拍だけ、空が黙った。
そこへ、上から被さってきた。
『――そして、亡国エクリール王国の姫として、勇者アリアスの嘘を語ります』
私の声だ。一音の長さまで、たったいま置いた形のままだった。
空一面から、いま出したばかりの言葉が同じ抑揚で戻ってくる。頭の上だけではない。街道の左手からも、右手の斜面の向こうからも、勾配の底からも、同じ声が同じ速さで降りてきた。降りてきて、地面の高さで重なった。
爪先が土から離れない。
私の声が、あんなに広いところにある。
自分の声を、自分の耳で拾ってしまう。拾ったものは消えない。私が言った言葉が、私の内側で、聴いた人の数だけ重なっていく。
喉が詰まった。
息は通っている。肺から上がってきて、喉の手前で止まった。声にする場所を、自分自身の声が塞いでいる。
下りかけた瞼を、途中で押し戻した。
閉じれば、音だけになる。音だけになったら、前に立てなくなる。
後ろで、紙の擦れる音がした。
カイロさんが束を持ち直した。腕の位置を変えて、重さを右から左へ移した。何も言わない。近づいてもこない。
その音も、先にあったものと並んで耳へ入った。
入って、そこに残った。
セレナは膝を伸ばした。
◇◇◇
空の中で、白い鎧が動いた。
祭壇の段の上だ。眼下へ向けていた体をこちらへ振り、顎が上がって、視線が真上を捉える。私の顔を見つけたのだと分かった。像の中の男と、街道に立つ私の目が、空の高さで合った。
「何を言っている!」
喉を裂くようにして出てきた。
「お前は私に救われたではないか!」
言葉の端が割れていた。演説のときの通り方をしていない。腹から押し上げる代わりに、喉の途中で音を潰して、その勢いだけで放っている。
この人の声が崩れるのを、私は一度も聴いたことがない。
セレナは膝の力を抜いた。
「私は長年、勇者のために歌を歌ってきました」
自分の声が、地面に落ちる前に空へ持っていかれる。
「しかし、その歌詞は全て嘘でした」
言い終えて、次の息を吸う。吸いながら、像の中を見た。段の下の白い列が乱れている。並んでいたはずの外套の肩が前後にずれて、隣の者へ顔を寄せている。
その向こう、区画の中で、また一人が膝から落ちた。
私が喋っている間も、あそこは止まらない。
石段を蹴る音が、像の中から届いた。
細い体躯の男が、段を駆け上がってくる。上りきる前から口が動いていた。息が足りていないのに喋ろうとして、最初の一言が音にならず、二度目でようやく形になる。
「勇者様。聖都から、大聖堂前の報せです」
白い鎧が振り返らなかった。
「広場の民衆が、一斉に空を指しました。前にいた者が後ろへ向き直って、叫んでいます」
側近が唾を飲む音まで、空から降ってきた。
「『歌姫だ!』と。それから、『勇者様の歌姫が、なぜ魔王妃に?』と」
街道の風が、私の襟足を撫でて通った。
「黙れ」
白い鎧が言った。
声を落としたつもりだったのだろう。空はそれを拾って、そのまま世界へ渡した。段の上で側近が肩を跳ねさせ、体を半分引くのが見えた。
「もう報せは要らん。下がっていろ」
黙らせにかかった姿が、そっくり映っている。
この人はまだ気づいていない。ここで口を開けば、それも運ばれる。黙れと言ったことも、側近が退がったことも、そのまま空に並んでいる。
像から目を離さない。瞬き一つ分も。
白い鎧がこちらへ向き直った。
肩の高さが下がった。剣の柄に置いていた手が、離れた。息を一つ、深く入れたのが分かる。
「……セレナ」
名を呼ばれた。
肩が勝手に強張った。
声が、変わっていた。
「お前を拾ってやったのは誰だ」
低い。重い。悲しみを含んでいる。
庭園の石畳に膝をついていた日に、頭の上から降ってきたものと、同じ声だった。
似ているのではない。高さが、一致している。
【超記憶】が並べてしまう。あの日の一音といまの一音が重なって、境目が消えた。父を失った翌朝の私の頭上にあった声が、あの日からいままで一度も途切れずに、この街道の上に置かれている。
あの声を、私は家族の声だと思っていた。
息が浅くなった。
肋の下までしか入らない。歌う前の深さに届かない。腹に力を入れた。芯になるものが、何もなかった。
あの日、この声に手を引かれて立ち上がった。庭園を与えられ、食事を与えられ、歌う場所を与えられた。与えられたものを数えていくと、返せないものばかりが並ぶ。
――違う。
セレナは奥歯を噛んだ。
与えられたものの中に、父はいない。
あの人が私から取ったものは、あの人が与えたものの、どれとも釣り合わない。
それでも、体が動かなかった。声を出す形に喉が戻らない。二つの声が、まだ重なったまま鳴り続けている。
馬が首を大きく振った。
輜重の列で、誰かが荷の数を短く言った。私の名も、勇者の名も入っていない数だ。街道の風は止まらない。私が何を言おうとしていようと、この場所の音は勝手に鳴っている。
後ろで、紐が鳴った。
結び目が緩んで、重なった紙が乾いた音を立てた。カイロさんが束を開いた。声はかけてこない。ただ、日付の並んだ紙を、いつでも渡せる角度に持ち替えている。
セレナはその音を耳の奥まで通した。
通して、あの日の声のすぐ隣に並べた。
二つは重ならなかった。
紙の音の方が、後から来た。あの声をさんざん聴かされたあとで、いまここで鳴った音だ。私が選んで、私の隣に立ってもらった人が出している音だ。
セレナは息を吸い直した。
今度は腹まで落ちた。
◇◇◇
空の中の男が、返事を待っていた。
顎を引いて、口の端をわずかに上げている。庭園にいた頃、この沈黙だけは何度も浴びた。答えが決まっている問いを投げて、こちらが頷くまで待つときの、あの間だった。
セレナは間を置かずに唇を開いた。
「いいえ」
冷たい音が、自分の耳に届いた。
「私は、あなたに騙されていました」
言い終えた。
最後の一音が街道の斜面を滑り落ちて、その先で聴こえなくなった。
半拍。
空一面から、いまの言葉が降ってきた。あなたに騙されていました、と、私の声が世界の上で繰り返される。
それが済んで、次が来なかった。
白い鎧の口が、開いた。
開いたまま、止まった。喉が動いている。言葉の形に唇が寄って、そこから先へ進まない。一度閉じて、また開いて、また閉じた。
何も出てこない。
セレナは耳を澄ませた。
澄ませる必要などなかった。空はいつでも音を運んでくる。運んでくるものが、いま、無い。
この人が黙っている。
塀の内側の悲鳴も、門を叩く音も、まだ届き続けている。その隙間に、答えの入る場所がぽかりと空いていた。私が何かを言えば返ってくるはずのものが、返ってこない。
拾うものが、無い。
私の耳が、はじめて空振りをした。
いま、あの人の沈黙が、世界中の空に映っている。
言い返さない勇者が、あの大きさで頭上にある。それを見上げている顔がいくつあるのか、私には数えようがない。
セレナの指先が冷えた。
嘘を一つ、嘘だと言っただけだ。それだけのことで、あの人の口が止まった。止まったものが、これから何を引き起こすのか、私には見当がつかない。
右の肩の脇で、土が鳴った。
黒い外套の裾が、視界の下の端に入ってくる。ゼノ様だ。私の半歩後ろで足を止め、それ以上は前に出てこない。触れてもこない。並びもしない。
視線だけが、私と同じ空へ向いた。
「……ゼノ様」
呼んだ。
返事はなかった。頷いた気配だけが、後ろの空気を短く動かした。
それで足りた。
カイロさんはそこにいる。束を開いたきり、音を足していない。私が次を言うまで、この場を離れないつもりでいる。
セレナは空へ顔を戻した。
像の中で、区画の人影がまた一つ、地面に近づいていく。まだ終わっていない。この空の下で、いまも数が減り続けている。
あの人たちに届く言葉を、私はまだ一つしか出していない。
セレナは息を吸った。
次の一つを、口の中に置いた。あの人の口が動き出す前に、置き切る。




