第198話:「歌姫の決意」
カイロが抱えている紙の束は、紐が食い込むほど厚かった。
街道の脇、輜重の列から一つだけ外れた場所に立っている。両腕を体の前で組み、その内側に束を挟んでいる。端の一枚が風に鳴った。
ゼノリスはそちらへ向かった。
土は前線へ向かう車輪に踏み荒らされて、深い轍が二本並んでいる。その轍を踏み越えて歩くあいだ、カイロは束の重みを右へ左へ移しながら、こちらが近づくのを待っていた。
「カイロ。それは」
「軍の記録です」
カイロは束を胸の高さまで持ち上げた。持ち上げると、紐の下から紙の縁が扇状にずれた。
「旧魔王軍の時代のものも入っています」
ゼノリスは束の厚みを見た。
紙は白くない。日に灼けて縁が茶に変わり、角の落ちたものが幾枚も混ざっている。城の書庫に眠っていた類のものだ。近づくと、乾いた紙と黴の混じった匂いが鼻に来た。カイロが片手で紐の結び目を押さえると、その手の甲に埃の筋が残っていた。
――なぜ、旧魔王軍の記録をここに。
「セレナさんに頼まれました」
問う前に、カイロが言った。
「歌詞は全部覚えています。ですが、覚えているだけでは足りません。……そう言われました」
風が街道を舐めて通り、束の端がまた鳴った。カイロは指をそこへ添えて、音を止めた。
「歌には日付と場所が入っています。軍の記録にも入っています。突き合わせられると申し上げました」
ゼノリスは頷いた。
歌が語る一日と、軍が実際に動いた一日。並べたときに片方が嘘であれば、必ず食い違う。
「いつのことですか」
「誓いの朝のあとです」
あの朝から、幾日が過ぎている。
そのあいだ、私はこの戦を一つの列として動かしてきた。
前線を前へ、輜重を後ろへ。ノアが盤面を引き、シルヴァが空を押さえる。そこまでは私の指の届く範囲だ。だがこの束はその外側で組まれていた。私の指が触れないところで、二人が別の戦の形を作っていた。
束の背がゆっくりと沈んだ。
重さに耐えかねて、腕が下がったのだ。すぐに戻したが、戻したときに指の節が浮いた。
「重いのでしょう」
「大丈夫です」
「……そうですか」
ゼノリスは手を出さなかった。
受け取れば、この束は私の手の中で意味を変える。王が携える証拠になってしまう。これはセレナが望み、カイロが揃えたものだ。
「セレナさんは?」
ゼノリスが問うと、カイロは顎で街道の先を示した。
「あちらに。シルヴァの馬の隣です」
銀の色が輜重の列の向こうに小さく見えた。
◇◇◇
街道の土が足の裏を押し返してくる。
馬を降りてから、セレナはそこに立っていた。数歩先でシルヴァの馬が止まっている。鞍の上の背は真っ直ぐで、右腕は空へ向いたままだ。指の差す先に、あの像が広がっている。
地鳴りはまだ続いていた。
前線の音だ。土を通って足へ上がり、膝の裏で震えになる。その震えの上に、別の音が降ってくる。
声だった。
塀の内側で上がっている声が、そのまま街道の上へ落ちてくる。名前だ。誰かが誰かの名を呼んでいる。呼びながら、名の途中で声が細くなって消える。消え方が一人ずつ違う。
セレナは目を閉じなかった。
耳から入ったものは、私の中で消えない。
男の子の名前が呼ばれた。三度。四度目は途中で途切れた。
いまも呼ばれている。私の内側で、さっきの三度が同じ速さで繰り返されている。四度目が途切れる位置も、そのままに。
その上へ、別の声が重なった。
女の人が、やめて、と言った。祈りの言葉を唱え始めた老人がいた。水がほしい、と言った人がいた。そのすべてが同時に鳴っている。
止められない。
セレナは自分の襟元を握った。
――【超記憶】
旋律も、抑揚も、勇者が語った日付も、こうして残った。
いま、その力が数千の喉を抱え込んでいる。
この声は残す、この声は流す、という順序をつけられない。
その中に、混じっているものがある。
セレナは襟を握る指に力を入れた。
声の層の奥で、もっと古い音が鳴り始めた。広場の音だ。手を叩く音。歓声。私の歌に合わせて、誰かが泣いていた。
『勇者様は世界を救ってくださる』
そう歌った。私の声で、日付と場所を並べて、あの人は民を守ったのだと歌った。歌い終えると拍手が起きた。その中に、いま空から届く声と同じ響きのものがあった。
あの日、私の歌を聴いた人が、あの塀の中にいる。
セレナは膝の力が抜けそうになるのを、腿に指を立てて止めた。
そう言い切れる証拠は、どこにもない。だけど私の耳は、あの日の音を残らず持っている。広場の拍手と、頭上の声。二つが同じ場所から聞こえてくる。
私が、あの人たちを、あそこへ運ぶ道の一部だった。
息を吸った。
吸えた。胸まで入った。
言わなければならないことがある。ゼノ様に告げたはずのことだ。全部覚えます、とさっき言った。覚えたものを言葉にして、あの男の嘘を並べ直す。それが私の役目で、あとはその最初の一言を口にすればいい。
セレナは唇を開いた。
喉の奥が動かなかった。
息は通っている。肺から上がってきて、喉の手前まで来ている。声にする場所を、他人の声が埋めている。先に入ってきた者から順に、そこに並んで動かない。
押し出そうとした。
肩が上がった。腹に力が入った。歌うときと同じ形を、体が勝手に作った。
出たのは息だけで、喉の奥で細く鳴って途切れた。
喉の奥で細く鳴って、それきり途切れた。自分の耳がその音を拾った。拾って、他の声と一緒に内側へ収めた。
セレナは口を閉じた。
もう一度、と思った。体が言うことを聞かない。指が襟から離れない。膝が地面に向かって重い。
――出ない。
◇◇◇
セレナは背を向けて立っていた。
輜重の列を回り込んだところで、ゼノリスの足が鈍った。
立っているだけに見えた。だが肩が浅く上下している。吸う形だけを短く繰り返して、吐く音がそこに続かない。さきほど空を仰いだときの、あの深い息とは別のものだった。
ゼノリスは五歩ほど手前で足を止めた。呼びかけようとして、その名が舌の上で止まった。
横顔が見える位置だった。唇が開いたまま止まっている。
ゼノリスは右手を上げかけた。
肩に触れれば届くだろうか。あの日、椅子から立てずにいたセレナの傍らで、私は頷くことしかできなかった。あれから、掛ける言葉が見つかったわけではない。触れて何が変わる。この人の中で鳴っているものを、私は一つも聴いていない。
上げかけた手が、肘の高さで止まった。
そのまま下ろした。指先が外套の裾に触れて、布の縫い目が爪に当たった。
セレナは動かない。
銀の髪が風に乱れ、その一筋が頬に張りついても、払う手が出てこなかった。両手はまだ襟元を掴んでいる。
前線の地鳴りだけが続いていた。
街道の土を通って、蹄と車輪と足音が一つの塊になって伝わってくる。頭上からは、あの塀の内側の声。その二つに挟まれた場所で、セレナだけが音を出していない。
その先にシルヴァがいた。
右腕は上がったままだ。指の先が空を指し、肩から下が微動もしない。あの腕の一本に、世界中の空がぶら下がっていた。
背後で、砂利を踏む音がした。
カイロが、束を腕の中に収めたまま輜重の列の脇に立っていた。ゼノリスの三歩ほど後ろで、それ以上は近づかない。
その靴底が一度だけ土を擦った。
紐に掛けた指が結び目の上でわずかに動き、また止まる。前へ出るでもなく、退がるでもなく、腕の角度だけを直した。人の善意を向けられても、向ける側になっても、この男は同じところで詰まるらしい。
馬が鼻を鳴らした。輜重の車輪が一つ、轍の窪みを越えて跳ねた。誰かが後方で荷を締め直している。
待つことが正しいのか。
声が出るまで横に立っていれば、この人はいつか口を開く。そう思っている。だが、その根拠がどこにある。誓いの朝、あの人を立ち上がらせたものが何だったのか、私は知らない。見ていただけだ。
いま見ているものが、同じものだという保証はない。
セレナの喉が動いた。
ゼノリスはそこから視線を外さなかった。
細い首の真ん中で、皮膚の下の何かがせり上がり、途中で戻った。もう一度せり上がって、また戻る。二度目のほうが浅かった。
届かない。
私はこの人の傍らに立っていて、名を呼ぶこともできる。だが、あの喉の内側にあるものへは、誰の手も入らない。カイロの記録も、シルヴァの術式も、私の権能も、そこでは何の役にも立たない。
セレナの膝から、力が抜けた。
体が前へ傾ぎ、爪先が土を掻いた。倒れる寸前で腰が戻り、そのまま留まる。
ゼノリスは足を進めた。
二歩で距離が半分になり、そこでまた止まった。触れない。触れずに、真横に立った。同じ土を踏み、同じ空の下に、肩を並べて。
「セレナさん」
名を呼んだ。
セレナの睫毛が動いた。
藍色の瞳がこちらへ回り、焦点が合うまでに間があった。合ってから、その目がゼノリスの顔を辿った。額から、顎へ。それが済むと、瞳の縁が震え始めた。
唇が動いた。音は出ない。
ゼノリスは黙っていた。
この人が何を選ぶかを、横で見ているだけでいい。私は先へ行かない。ここに立っている。
セレナの背が伸びた。肩甲骨の間が起き上がり、顎が引かれる。襟を掴んでいた指が離れ、片方の手が自分の腹の上へ置かれた。掌の付け根で、そこを押している。
息が入った。浅い。肋の下までしか届いていない。セレナはその息を止め、腹に置いた手にもう一度力を入れた。
二度目の息がその下まで落ちた。
「……ゼ……」
掠れた。半音下がって、途中で割れた。
それでも、音だった。数千の喉と一緒に、まとめて外へ運ばれてきた音だ。セレナは呑み込んだものをそのままに、その上から自分の息を通した。
「……ゼノ様」
二度目は言葉になった。
喉の奥で何かが擦れる音が、語尾に混じっている。セレナは構わずに続けた。
「聞こえます。……まだ、聞こえています」
「はい」
「消えません。この先も、消えないと思います」
セレナの手が腹から離れ、胸の前へ戻った。今度は握らずに、開いたまま置かれる。
「私の歌を聴いて、あの人たちは勇者を信じました」
そこから、声の高さが落ちた。
「私が歌わなければ、信じずに済んだ人がいます。いま、あそこにいる人の中に」
「セレナさん」
「違うと言わないでください」
ゼノリスの言葉が、そこで折られた。
「違うと言われたら、私はもう立てません」
ゼノリスは息を吸った。
「言いません」
ゼノリスは答えた。
「あなたが運んだものは、あなたのものです。誰も引き取れません」
セレナの目から、涙が一粒落ちた。
拭わなかった。頬を伝って顎の先まで来て、そこから足元へ落ちた。跡は残らない。土がすぐに吸った。
「……はい」
セレナは頷いた。
「だから、私が言います」
声はまだ整っていない。それでもその一言は、街道の地鳴りの上を渡って、ゼノリスの耳に届いた。
カイロが動いた。
束を胸の高さへ上げ、セレナの斜め後ろで足を止める。何も言わない。ただ、記録を持った腕を、いつでも開ける角度に組み直していた。
少し先で、シルヴァが振り向いた。
上げた右腕はそのままに、首だけをこちらへ回している。淡い髪が肩の上を滑り、目元が覗いた。その瞳がセレナの上で止まる。
「セレナさん」
シルヴァが呼んだ。
「セレナさんの声を、世界中に届けます」
すでに術式の準備は出来ているのだろう。指の先の空がほんのわずかに色を変えた。
セレナが空を仰いだ。
像はそこにある。塀と祭壇の下に、区画へ分けられた人が並んでいる。倒れた者はそのままだ。まだ立っている者は、互いの肘を掴んで支え合っている。
あの中で口を開いている者の数だけ、この人の中に音が入っている。
ゼノリスは傍らの横顔を見た。
まつ毛はまだ濡れている。唇の色は失われたままだ。息を吸うたび、細い首の真ん中が小さく引き攣れる。
「行けますか?」
ゼノリスは訊いた。
「はい」
セレナが答えた。
そして、足が上がった。
爪先が土を離れ、前へ運ばれていく。踵が下りて、乾いた土を捉えた。
セレナが、前へ出た。




