第197話:「揺らぐ信仰」
「魔王の幻術に惑わされるな!」
アリアスは吼えた。
声を張るとき、腹の底から押し上げるのだと教えられたことがある。誰に教わったかは忘れた。その通りにすれば民は静まった。演説の壇で、凱旋の広場で、この声はいつも通った。
「私は世界を救うために戦っている! この身を削り、この手を血に染めてでも、女神様が託された使命を果たしてきた!」
塀に囲われた空気が、その声を吸って震えた。
石を積んだ壁が音を跳ね返し、返ってきたものが足元の石を撫でていく。眼下の区画では、立たされたままの民が顔を上げている。何百という顔が、段の上のこちらを見ていた。
それでいい。
声は届く。まだ届く。
「魔王は私を貶めるために、あのような絵を空へ描いた! 目の前のものより、あの男の作り話を信じるのか!」
言い終えて、待った。
半拍が過ぎた。
降ってきた。
『――目の前のものより、あの男の作り話を信じるのか!』
自分の声だった。
頭上の像の中で、白い鎧の男が口を動かしている。動きに寸分の遅れもなく、同じ言葉が同じ抑揚で、空から祭壇の上へ落ちてくる。アリアスは仰いだまま動けなかった。
あの絵の中の男が、俺の言葉を先に持っていく。
いや、違う。俺が先に言った。あれは後から追いかけてきているだけだ。
だが聴いている者にとって、どちらが先かなど分かるまい。
掌が汗ばみ、そして乾いた。
乾いた皮膚が引き攣れて、指を曲げると突っ張った。アリアスはその手を、腰の剣の柄へ滑らせた。握り込むと、革の巻きが軋む音だけが耳のすぐそばで鳴った。
塀の内側は、静かだった。
数千の人間が立っているのに、咳ひとつ落ちない。
◇◇◇
馬の背で、ゼノリスは空を見上げていた。
街道は緩く傾いで南東へ伸び、その勾配の下から地鳴りが這い上がってくる。手綱を握る掌に、革の縫い目が食い込んでいた。冷えた朝の空気が首筋を撫でていくたび、遠い鉄の音が耳へ届く。前方の列はもう見えない。この位置から見えるのは、街道の土と、前を行く輜重の背と、頭の上にある一枚の空だけだ。
その空が、青白い。
端から端まで、雲も朝焼けも押しのけて、あの塀の内側が敷き詰められている。祭壇。段の上に立つ純白の聖鎧。そして、区画ごとに分けられ、肩を寄せて並ばされた人々。顔が見える。年老いた者の落ちた頬も、母親の腕を掴む子どもの指の形も、この街道から見上げるだけで数えられる。
少し前を、シルヴァの馬が進んでいた。
右腕を上げたまま、外套の背を風に打たれている。あの腕は払暁からずっと下りていない。その隣にセレナの馬が並び、銀の髪が朝の光を弾いていた。セレナも空を見ている。見えるようになった目で、あの光景を最後まで見ている。
ゼノリスは像へ目を戻した。
あの中の一人ひとりに、名前がある。畑を持っていた者がいる。荷を担いで日銭を得ていた者がいる。それが、あの塀の中へ集められた。そして今、数千という塊にされて、あの段の上の男の掌の下に置かれている。
私は、この街道にいる。
馬の脚では届かない。剣を抜いても届かない。この距離を詰める頃には、あの区画の人影は全て倒れているだろう。ノアの盤面もそう告げていた。正しいからこそ、逃げ道がない。
救えないと分かっている者たちを、私は今、見ている。
背後から、蹄の音が近づいてきた。
伝令が馬を寄せ、鞍の上で背筋を伸ばした。息が上がっている。喉を鳴らして一度飲み込み、それから声を出した。
「ノア様から、前線の報せです」
「聞きます」
「敵の戦列が、三か所で乱れました。中央が退がり、左翼が追随できずに離れています。セラ様の隊が、開いた間へ入りました」
伝令はそこで一度息を継いだ。
「押しています。想定より速く」
「そうですか」
伝令が一礼し、馬首を返して前方へ駆けていく。蹄の音が遠ざかり、また地鳴りだけが残った。
勝っている。この街道の先で、味方が敵の列を割り、聖都への道を開きつつある。数か月前なら、この報せを聞いて拳を握っていた。国が退ける側だった日々を思えば、これは望んできたものだ。
それなのに、腹の底は冷えたままだった。
ゼノリスは手綱を握り直した。
空の中で、区画の民が身じろぎをする。誰かが隣の者の袖を掴み、誰かが空を見上げている。まだ生きている。今この瞬間は、まだ。
勝利が近づく速さと、あの人たちが失われる速さは、別のものだ。
◇◇◇
石段を打つ足音が、下から上がってきた。
「勇者様!」
側近だった。今度は最上段まで駆け上がり、膝に手をついて息を整えている。細い体躯が、外套ごと上下していた。
アリアスは眼下から目を離さなかった。
「言え」
「聖都の、大聖堂前の広場です。……先ほどまで、幻術だと唱える声が広場を埋めていました。ですが、その中から」
側近が唾を飲んだ。
「こう叫ぶ者が出ました。『幻術だというなら、あそこに映っている顔は誰だ』と。『俺は前に、あの中の男と酒を飲んだ』と」
アリアスは答えなかった。
「一人が言い出すと、周りが黙りました。それから、別の場所で同じことを言う者が出て、今は……何と申しますか、割れております。信じる者と、問う者と」
「それだけか」
「いえ」
側近が背を伸ばした。
「街道の第二陣です。命令に従わない兵が出ています。剣を下ろした者、持ち場を離れた者。数は、まだ多くありませんが」
「聖騎士か?」
「はい」
アリアスは首を回した。
聖騎士。教会が鍛え、教義で縛り、女神の名で戦わせてきた兵だ。その手が剣を下ろした。教義が、剣より軽くなった。
ベネディクトは何をしている。
段の上へ目をやると、赤い法衣は同じ場所に立っていた。手元の紙も見ず、塀の向こうの空を眺めている。
「もう一つ、聖騎士団長より伝言がございます」
側近が懐から紙片を取り出し、両手で開いた。読み上げる声が、少しだけ硬くなった。
「『勇者様へ。空に映る光景について、我々は説明する言葉を持ちません。あの施設で何が行われているのか、指揮系統として説明を求めます。兵からも問われております。我らが守っているものは何なのか』」
紙を持つ側近の指が、震えていた。
風が塀を越えて吹き込み、紙の端を鳴らした。アリアスはその音を聞いていた。
『説明を求めます』
――俺に。この俺に、聖騎士団長が説明を求めている。
「あれは徴用だと伝えてある」
アリアスは言った。
「労働力を集めた。国境の防衛のために。教会の認可を添えて、領主にもそう通した。何も変わっていない」
「……その通りに、伝えます」
側近が紙を畳んだ。畳む手つきが、ひどく丁寧だった。
だが空には、徴用された者が地面に倒れ、体から白いものが抜けていく光景が映っている。あれを見た兵に、徴用だと伝えて、通るのか。
「勇者様」
ベネディクトが口を開いた。塀の向こうを見たままだった。
「語り続けてください」
「語っている」
「足りません!」
赤い法衣が、ようやくこちらを向いた。
「先ほどから、あなたは同じことを繰り返しているだけです。『魔王の幻術だ』、『私は世界を救う』と。二度、三度と重ねるほど、人は言葉ではなく像を見ます。言葉は像に勝てません」
「ならば何を語れと?」
「それを考えるのが、あなたの役目です」
アリアスは奥歯を噛んだ。
「――ならばお前が語れ!」
声が塀に当たって返ってきた。眼下の区画で、いくつもの顔が段の上を仰ぐ。
ベネディクトは顎を引いただけだった。
「私が語れば、私の言葉になります」
法衣の男は、それきり口を閉じた。
アリアスは剣の柄を握った。抜けば、この赤い布ごと段の下へ落とせる。落としたところで、空の絵は消えない。柄から指を離すと、革の目が掌に赤く残っていた。
唾を飲もうとした。口の中が乾ききっていた。
言葉では、届かない。
何を言っても、あの絵が上にある限り届かない。ならば、言葉ではないもので示すしかない。
魔王軍を潰す。聖都の前で叩き伏せ、勝った姿を空に映してやればいい。
民は常に、勝った者を信じてきた。
勝つには、力が要る。
アリアスは眼下へ目を落とした。
区画の民が、まだそこに立っている。数千。この塀の内側だけで。掌を向けて術を通せば、一息で入ってくる。街道を押し返し、あの黒い列を蹴散らせるだけのものが。
右の指が、ひとりでに開いた。
肩が動き、肘が浮いた。
肘が、肩の高さを越え、止まらなかった。
見られている。
それは分かっている。今この腕が伸びきる先を、大聖堂の前の広場が見ている。白塔区の窓という窓が見ている。教導区の子どもが、机から顔を上げて見ている。
それがどうした。
見せてやればいい。
この手に力が入れば、街道の黒い列は消える。魔王も、あの術を組んだ奴も、まとめて土に還る。そうなった後で、俺が何をしたかを覚えている者がいるか。
いない。
歴史は、勝った側が書く。
掌が、開いた。
地面に伏せていた白い線が、下から順に灯っていく。区画の輪郭をなぞり、人と人の隙間を這い、閉じていく。祭壇の石が震え、足の裏から膝へ、震えが上がってきた。
眼下で、悲鳴が起きた。
いままで咳ひとつ落とさなかった数千の喉が、一斉に開いた。逃げようとした者が輪の内側で足をもつれさせ、隣の者にぶつかって倒れた。倒れた者を跨いで、別の者が門へ走った。門は閉まっている。
「――やめて!」
誰かの声が、はっきりと段の上まで届いた。
女の声だった。
構わずに、アリアスは指を開いたままにした。
熱が掌に入ってきた。
夜明け前に受け取ったものと、寸分違わぬ熱だった。腕を遡り、肩の付け根まで来る。アリアスはそれを、体の内で受け止めた。
白い柱が、視界の端で立ち上がる。
その一本を目で追い、そのまま頭上まで視線が上がった。
空に、自分が映っていた。
右腕を上げ、掌を開いた白い鎧の男。その男の眼下で、人が順に崩れていく。倒れた体から白いものが抜け、男の掌へ吸い込まれていく。空一面の大きさで、それが映っていた。
俺が、映っている。
いま、この瞬間を、世界中が見ている。
喉の奥が鳴った。
幻術だと言った。俺は世界を救うために戦っていると言った。その口が閉じてから、いくつも数えないうちに、この手が同じことを始めた。空の中の男は、自分が何を言ったかなど忘れた顔をして、掌を開いている。
あの男が、俺だ。
視界の端で、赤いものが動いた。
ベネディクトが、段の縁へ一歩寄っていた。眼下を見ていない。空も見ていない。手にした紙の上へ、指を走らせている。
「記録が残ります」
平らな声だった。
アリアスは腕を上げたまま横顔を見た。
「何だと?」
「あの像は、聖都のすべての空にあります。誰の手元にも紙はない。ですが、見た者の数だけ記録が残ります。ここで起きたことは、今日以降、なかったことにはできません」
ベネディクトは指を止めた。
「私は、そのように処理する術を持ちません」
「お前が集めた民だ」
「集めたのは、あなたのためです」
初めて、法衣の男の声に速さが混じった。
「勇者様。私は数を揃えました。塀も積みました。名目も通しました。空を塞ぐ手立てだけが、こちらになかった。それだけです」
「それだけだと?」
「それだけです」
紙を畳む音がした。
アリアスは腕を下ろさなかった。下ろせば、途中で止めたことになる。途中で止めれば、この手が何をしていたかを認めることになる。
熱はまだ入ってきていた。
指の先まで満ちて、拳を握れば脈を打つ。夜明け前は、これが入ってくるだけで足の裏まで熱かった。
同じはずだった。
だが、腹の底に落ちてこない。熱は腕を上がり、胸まで来て、そこで止まっている。その先へ行かない。
あのときは、ここで足の裏が熱くなった。
いまは、足が冷たい。
石の冷たさではない。この体の内側から冷えている。力を受け取っている腕は熱く、その力を使う足は冷たい。同じ体の中で、二つが混ざらない。
アリアスは眼下を見た。
白い線の内側に、まだ膝を折っていない頭が並んでいる。数は残っている。取れる。もっと取ればいい。取り切れば、この冷たいところにも届くはずだ。
その数のなかで、また一つ頭が沈んだ。
◇◇◇
空の中で、人が減っていく。
ゼノリスは馬を止めていた。街道の脇へ寄せ、鞍の上から頭上を見上げている。像の中で、区画の輪郭が白い線に囲われ、その内側の人影が順に落ちていく。倒れた者の上を、逃げ場を探す者が越えていく。
声が、降ってきた。
地を這う地鳴りとは、まるで別の高さからだった。幾百もの喉が重なった音が、街道の上をそのまま覆っている。名を呼ぶ声。門を叩く音。息の途中で切れて、続かなくなる声。あの塀の内側で立っている者の一人ひとりが、いま何を口にしているかまで、この街道へ運ばれてくる。
段の上の男は、腕を上げていた。
自分の口で、幻術だと言った。世界を救うために戦っていると言った。その言葉が渡っていったばかりの空で、同じ男が掌を開いている。
この男は、選んだのだ。
見られていると知りながら、力を取ることを選んだ。
ゼノリスは手綱を握る指の力を抜いた。抜いてから、力が入っていたことに気づいた。
少し前で、シルヴァの背が動かずにいた。
右腕は上がったままだった。外套の肩が、風を受けて細かく震えている。あの腕の先に、世界中の空がぶら下がっている。空の像が消えれば、この光景は誰の目にも入らなくなる。
シルヴァは下ろさない。
ゼノリスは馬を降りた。
土を踏むと、脚の裏に地鳴りが直に伝わってきた。前線はまだ動いている。数歩でシルヴァの馬の横に立った。
「シルヴァ」
名を呼ぶと、白い横顔がわずかにこちらを向いた。淡い髪が風に流れて、目元の縁が見えた。指の先だけが、まだ空を指している。
「よくやった」
言って、次の言葉を探した。
礼を言うべきだった。この術がなければ、あの塀の内側は誰の目にも触れず、あそこで死ぬ数千は明日には無かったことにされていた。それを世界へ引きずり出したのは、シルヴァの腕一本だ。
だが、その腕に引きずり出させたのは、私だ。
あの中で人が死ぬところを、家族の目の前で映し続けろと、私が求めた。子が親の死ぬところを見る。それを止めるなと、私が言った。
ゼノリスは口を閉じた。
「……ゼノ様」
シルヴァが言った。
「言わなくて、大丈夫です」
それだけだった。腕は上がったままで、視線は空へ戻っていた。ゼノリスも空へ目を向けた。像の中で、抱き合った二人が同時に前へ倒れた。
右の視界の端に、銀の色が入った。
セレナが馬を降り、こちらへ歩いてきていた。裾を土につけたまま、真っ直ぐに空を見上げている。藍色の瞳が、あの光景を映していた。逸らしていない。ゼノリスが見上げてから、一度も。
「セレナさん」
「はい」
「……無理に、聞かなくていいです」
セレナは空を見上げたまま、少しだけ首を傾けた。音を聴き分ける時の癖だった。
「聞きます」
「聞かなければ、私はあの人たちを、数でしか覚えられません」
セレナの指が、胸の前で組まれた。
「名前を呼んでいます。あの人たちは、みんな、誰かの名前を呼んでいます。……私も、そうしていましたから」
ゼノリスは横顔を見た。
まつ毛が濡れていた。だが涙は落ちていない。落とさずに、そこで止めていた。歌う者の呼吸だ、とゼノリスは思った。息を乱せば声が濁る。
「……次は、セレナさんの出番です」
ゼノリスは言った。
「あの男は、自分の口で言ったことを、自分の手で壊しました。世界がそれを見た。ですが、見ただけでは足りない。人は見たものを、後から言葉で塗り替えられてしまう。塗り替えられない形にするには、あの男が何を語ってきたかを、初めから並べ直す必要があります」
「……はい」
間があった。
その一拍のあいだに、セレナの指が組み直された。関節が白くなるまで力が入った。
「私が勇者の嘘を暴きます」
息継ぎの位置が、いつもより浅かった。
ゼノリスは何も言わなかった。大丈夫かとも、無理をするなとも言わなかった。あの日、椅子から立てずにいた人が、自分の足で前を向いている。
セレナが空を見上げた。
空の中で、まだ人が倒れている。その一人ひとりの声が、この街道まで降りてくる。
「……全部、覚えます」
組んだ指が、ほどけた。




