最終話:「仲間たちの幸福と、誠実なる新世界」
荷馬車が街道の継ぎ目で跳ねた。
積み荷を縛った縄が緩んだのだろう。御者が飛び降り、荷台の側面を回って結び直している。その後ろで次の一台が止まり、さらに後ろに二台が詰まった。四台とも城下へ向かっている。
麻袋を重ねたもの、木箱を並べたもの、布を掛けただけのもの。積み方が揃っていない。去年の街道で、荷馬車がこんなふうに詰まることはなかった。
ゼノリスは欄干に両手を置いた。指の下の石は、まだ日の熱を持っている。城下の屋根がその向こうまで並んでいる。
城下の方角から声が上がってきた。市場だ。何を言っているかは取れない。押し合う声の重なりだけが、ここまで届いてくる。日暮れが近いのに、まだ畳む気配がない。
南では、穂が風に倒れて戻った。
風は緩い。この高さでも、頬に当たる空気に刺すものがない。一年前、宣言をした大広間の石は、日が傾いても靴の底を冷やし続けていた。季節が一巡して、いま手の下にある石は温い。
階段を上がってくる音がした。
二人分だ。片方は歩幅が狭く、絹の裾が石を撫でる音を伴っている。もう片方は、聞こうとしなければ気づかない。
「ゼノ様」
セレナが屋上へ出て、額に掛かった前髪を耳へ流した。藍色の瞳が、まず街道を追った。
カイロは入り口の内側で足を止めている。いつも小脇に抱えている報告の束が、今日は手にない。
「珍しいですね」
ゼノリスが言うと、カイロは自分の空の手を見た。
「今日は要りません」
そこで言葉が切れた。カイロは壁際へ寄り、いつもの位置に収まった。
風が一度、強く抜けた。
次の足音は四人分だった。まとめて上がってくる。声の方が先に階段を越えてきた。
「だから、二段飛ばしは危ないと言っているんです」
「何回も上がってるんだから、危なくないって」
「回数と安全は別の話です」
「ガルム、いま何段飛ばした?」
「……わしは一段ずつじゃ」
セラが先頭で屋上へ躍り出て、勢い余って欄干の手前で足を止めた。すぐ後ろにシルヴァ。その二人を追い越さないまま、ガルムが最上段を踏んだ。ノアは四人目で、地図筒を抱えたまま、肩で息をしている。
「……階段は、僕の敵です」
セラが振り返った。
「毎回言ってるよね」
「毎回そう思うからです」
セラが笑った。ガルムの喉から、低い音が漏れた。
ゼノリスは欄干から手を離し、六人の方へ体を向けた。
揃うのは、ひと月ぶりだった。カイロは聖都との往復で城を空けている。セラは南の街道へ騎士団を連れて出たきりで、シルヴァは研究室から出てこない日が続いた。ノアに至っては、机の上で夜を越している。全員の予定が今日の夕方に空いたと知らせてきたのは、カイロだった。
「集まってもらって、すみません」
ゼノリスは言った。
「一年になります」
誰も答えない。セレナだけが、こちらへ半身を向けた。
「あなたたちのおかげで、ここまで来ました。心から感謝します」
言い終えて、ゼノリスはセラを見た。
「うわ」
両手が顔の前に上がり、そのまま後ろへ一歩下がった。踵が石を強く打って、鈍い音が鳴った。
「うわ、待ってください。心の準備が」
「一年ありましたよ」
ゼノリスがそう返すと、セラの声が裏返った。
「そういう問題じゃないんです。急に正面から言われると、その、頭の中の言葉が全部落ちるので……」
セラは両手を立てたまま、指の隙間からこちらを見ている。
「落ちたままで構いませんよ」
そう言うと、セラは口を開けたまま固まり、それから欄干に額を打ちつけた。
「セラ」
「大丈夫です。冷やしてるだけです」
ガルムの息が短く切れた。
眉の下で、目の縁がもう光っている。厚い掌が顔へ上がりかけて、途中で止まった。
「ガルム、泣いてる」
額をつけたまま、セラが言った。
「泣いておらん。まだ何も始まっておらんぞ、わしは」
「今日で五度目です」
ノアが地図筒の口を指で叩いた。
「前の四回は、書きませんでした」
「なら今日も書くな」
「書きません。ですが、五度目だと言うことは止められていません」
セラが額をつけたまま笑い出した。肩が跳ねている。
笑いながら顔を上げたセラが、壁際へ目を向ける。カイロはそこで背中をこちらへ向けていた。耳の先が、日の色より濃くなっている。
「カイロ、こっち向いて」
「向いている」
「壁を向いてるでしょ」
「壁もこっちだ」
ゼノリスはその全部を見ていた。
一年前、この六人はここに揃わなかった。カイロは塀の外にいた。セラの拳は城壁の外にあり、シルヴァの腕は空を支えたまま下りなかった。ガルムとノアの立っていた場所は、互いに見えない。セレナは、城で空を見上げていた。
いま、六人ぶんの靴が同じ石を踏んでいる。
「南の街道、荷馬車が増えました」
セラが欄干から身を乗り出して、下を指した。
「先月から護衛の要請が減ってるんです。夜も走るようになったって、商隊の人が」
ゼノリスは荷馬車の列の先へ目を移した。
「夜に走れるのは、道を信じているからです」
「そう、それです。私が言いたかったのは、それです」
セラは指を下ろし、その手を胸の前で握った。
「私は騎士団を率いて、民を守ります。誰もが安心して暮らせる世界に」
言い切ったあと、セラは自分の声の大きさに驚いたらしい。首をすくめて、シルヴァの方を見た。
「……私、いま格好つけた?」
「つけていました」
「正直か」
「事実を言いました」
ガルムの掌がようやく目元へ届いた。一度だけ拭って、そのまま顎の下へ下ろす。
「嬢ちゃん」
「なに?」
「よい台詞じゃ。わしには真似できん」
「真似しなくていいよ」
ガルムは欄干の縁に手を掛け、下の城壁へ目をやった。石の面が、傾いた日を返している。
「わしは、次の世代に渡すまで守護隊におる。それだけじゃ」
声が最後まで低いままだった。喉が詰まる気配がない。ガルムは自分でもそれに気づいたらしく、喉に手を当てた。
「……おかしいのう。今日は出んわ」
ノアが筒を抱え直した。肩の力が抜けている。
「南の街道の護衛が減った分を、僕は別の場所へ回しました。半年前の話です」
言いながら、視線は動かなかった。
「兵をどこへ置くかは、もう戦の計算ではありません。人がどこで困るかの計算です。戦術ではなく、統治の戦略を立てます。この世界を、より良くするために」
「ノアさんが『より良く』って言うの、初めて聞きました」
セレナがそう言うと、ノアは目だけを動かした。
「……語彙が、貧しいもので」
「いいえ。とても良い言葉です」
セレナは両手を前で重ね、風にとられた裾を膝の高さで押さえた。それから、ゼノリスの隣まで来て止まった。
「私は、魔王妃として民を支えます。ゼノ様と共に、この世界を見守ります」
ゼノリスは頷いた。言葉を返す前に、壁際から声が入った。
「俺は引き続き、補佐長として支えます」
カイロだった。顔はまだ半分だけこちらを向いている。
「新世界の裏で、平和を守ります」
セラが眉を寄せた。
「裏、って言い方やめてよ」
「表を歩く役はもう埋まっている」
セラの唇が動いて、音にならずに閉じた。
シルヴァがそこで初めて欄干へ近づいた。
外套の裾が孕んで、一度膨らんで戻る。銀に近い淡い髪が肩から流れた。シルヴァは顎を上げ、西の空へ目を向けた。
「魔術の真理を、全ての人に開きます。才能を持つ者全てに、学びの機会を」
抑揚がない。この人の声は、喜びでも上がらない。去年もそうだった。
シルヴァの外套の裾が下りた。石に触れる音はしなかった。
誰も次を続けなかった。城下の声が遠くで一度うねって、また平らになる。ノアが筒を持ち直す。革の擦れる音が、いやに大きく響いた。
シルヴァは西を向いたままだった。日はもう屋根の線に触れている。
三日前、研究室の灯りが朝まで消えなかったという報告が上がっていた。
「間に合っていません」
声はさっきと同じだった。
「一年で、学び舎を六つ開きました。城下に三つ、それ以外に三つ。どこも定員が埋まっています。……埋まったままです」
セラが首を傾けた。
「それ、いいことじゃないの」
「埋まったまま動かないという意味です」
シルヴァはこちらへ体を回さない。
「入りたい者が扉の前で待っています。入れないのは席が足りないからではありません。教える者が足りないからです」
外套の背に、日が横から当たっている。
「順序を教えれば誰でも組める。そう言いました。訂正はしません。ただ、順序を教えられる者を育てるのに、数年はかかります。私が一人で全員を見ることはできません」
言い終えて、シルヴァは息を吸った。吐くまでに一拍あった。
「三十九人です」
シルヴァの顎が少し下がった。
「去年、私のところには数人しかいませんでした。いまは三十九人が、教える側へ回る訓練を受けています。それでも全員ではありません。それでも、残った者が六年後に教え始めれば、そこから先は私が数えなくてよくなります」
ガルムが顎を引いた。低い息が、鼻から漏れる。
「六年か」
「もっとかかるかもしれません」
「わしは、そこまで立っておるかのう」
「立っていてください」
シルヴァが初めて振り向いた。
「私の計算に、あなたの分が入っています」
ガルムの喉が動いた。今度は咳では戻らなかったらしい。厚い掌が顔の上半分を覆って、そのまましばらく下りてこない。
カイロが壁から背を剥がした。一歩だけ前に出て、足を止める。
「聖都の件だ」
誰へ向けたものでもない言い方だった。セラが振り向き、ノアが顔だけを寄せる。
「担架で運んだ者は、半年でほとんど帰した。残っているのは四人。動かせない怪我じゃない。ただ、帰る先がない」
言葉が途切れた。カイロは自分の空の手を、もう一度見た。
「名の戻らない者は七人になった。四人ぶんは台帳の突き合わせで見つかった。残りは、どこの台帳にも載っていない。生まれた場所の記録ごと消えている」
「消したのは」
ノアの声だった。
「向こうの制度だ。誰か一人が悪いわけじゃない。だから、直す相手がいない」
カイロはそこで口を閉じた。言い終えた足が、また壁の方へ半歩戻る。
七という数が、胸の中に残った。呼ぶための音が、そこにない。
「白塔の窓口のことですが」
ノアが筒の口から指を離した。
「あの日、僕は『こちらは何と言うのか』と言いました。答えは、まだ出ていません」
声が下がった。階段を上がってきたときの調子から、二段落ちている。
「向こうでは、鑑定の代わりを求める声が出ています。何でもいいから、自分が何者かを示す何かが欲しいと。作れば楽になります。作った瞬間、また同じものになります」
ノアは肩を上げて、下ろした。
「僕は作りませんでした。作らないという言葉を、この一年で四回しました。四回とも、その場にいた人が困った顔をして帰っていきました」
風が屋上を渡って、抜けていった。
沈黙が思ったよりも長く続いた。下から上がってくる音だけが途切れない。市場はまだ畳んでいない。
ゼノリスは渡していないものを数えた。
「すみません」
数え終えたものは、一つも言わなかった。
「解決策を、私は持っていません」
セラが顔を上げた。シルヴァを見て、それからガルムを見た。誰も先に口を切らない。
「知っています」
言ったのはセレナだった。
「ゼノ様が持っていないことは、みんな知っています。だから、それぞれが持ち場にいるんです」
◇◇◇
日が屋根の線を割った。
光が横から入ってきて、屋上の石を端から染めていく。ゼノリスの影が長く伸びて、六人の影と重なった。重なった先は、欄干の柱に当たって折れている。
ゼノリスは下を見た。
荷馬車はもう見えない。城下へ入ったのだろう。市場の声が一段高くなって、それから緩んだ。
城壁の外へ目を移す。南の農地、北と南へ抜ける街道、その先で霞んでいく地面。国土の広さは一年前と変わっていない。増えたのは、そこを走るものの数だ。
膝に、泥の冷たさが戻ってきた。
あの森で、名を呼ぶより先に決めたことがある。世界がこの男を『ゴミ』と呼んで道の脇に置いていくなら。
――私だけは『至宝』と呼ぼう。
口の中だけで言った。あの耳は、まだ何も聞いていなかった。
いま、その相手が壁際に立って、消えた名を数えている。
「ゼノ様」
セレナが隣で言った。組んでいた手が解けて、片方が胸の高さで止まっている。
「あなたが信じてくれたから、私たちはここにいます」
頷いた。返す言葉を探しているあいだに、セラが一歩前へ出た。
「私、まだ強くなります」
「聞いておらんぞ、そんな話は」
「いま言った」
ガルムが目元から掌を下ろした。濡れたままの親指を、鎧の脇で拭う。
「わしは、まだ退かん」
「六年は立っていてください」
「八年でもよいぞ」
ノアが筒の底を石に着けた。
「僕は、答えが出るまで考え続けます。出ないかもしれませんが」
「出なかったら」
セラが訊いた。
「出なかったと書きます。それも記録です」
カイロが壁から一歩出た。今度は顔ごとこちらを向いている。
「七人を探す」
それだけだった。
シルヴァは西の光の中に立っている。淡い髪の輪郭が、光を透かして細く縁取られていた。
「三十九人を、五十人にします」
ゼノリスは六人を順に見た。
どの顔も、まだ次を持っていた。
「ええ」
石の熱がまだ靴の底に残っている。
「この世界を、共に守り続けましょう」
日が沈んでいく。
光は誰の顔も選ばずに、屋上の石と、城壁と、その向こうの土の上を同じ色で撫でていった。城下の市場は、まだ声を上げている。明日もあの声の中に立つ人がいて、その誰かは、こちらの名を知らない。
だから明日も、ここへ上がる。
最後の光が七人の影を石の上でひとつに伸ばした。
【終】
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ここまで『「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
世界に「無能」と呼ばれた者たちの記録でした。
追われた日も、拾い集めた日も、戦った日も、国を組み上げた日も。どれか一つだけが物語だったのではなく、どれもが彼らの歩いた道でした。
最終話で、ゼノリスは何も解決していません。渡せていないものを数えて、すみませんと言って終わります。
全部が片づいた世界を書くこともできました。ただ、それを書いてしまうと、この物語が否定してきたもの――誰かが勝手に決めた「正しさ」に、自分から戻ってしまう気がしました。
だから彼には、明日も屋上へ上がってもらうことにしました。
そして皆様の中にも、誰かを正しく測るまなざしが残ってくれることを願っています。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
ぼん




