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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第195話:「真実の暴露」

 声が、消えた。


 アリアスは祭壇の上段から、それを聞いた。正確には、聞こえなくなったことを聞いた。


 塀の内側に集められた民は、夜通し騒いでいた。名を呼ぶ声、子をあやす声、門を叩く音。それが今、区画の手前から順に、一つずつ拭い取られていく。残ったのは、湿った土の匂いと、汗の匂いだけだった。


 夜明け前の空は、まだ濃い藍色をしている。


 いい朝だ、とアリアスは思った。


 塀は高い。門は一つきりで、内側から兵が固めている。ここは世界のどこからも切り離された箱だ。この中で何が行われようと、外の誰にも見えはしない。見えないものは、起きていないのと同じだ。歴史とは、見えたものだけで編まれる。アリアスはそれを、誰よりもよく知っていた。


「区画三まで、位置固定が完了しました」


 段の下から、側近の声が上がってきた。細い体躯が、石段の途中で止まっている。


「魔王軍が街道を上がってきています。昨夜の斥候の報せでは、聖都の手前まで半日と」


「それがどうした」


 アリアスは振り返らなかった。


「あいつらは、間に合わない。門を叩いた時には、俺はもう別のものになっている」


 側近は答えなかった。一礼し、足音を残さずに段を下りていく。


 祭壇の脇に、赤い法衣が立っていた。ベネディクトは空も、眼下の民も見ていない。手元の紙の上だけを見て、数を数えている。


 アリアスは右腕を持ち上げた。


 掌を、眼下へ向ける。


 術式が、応えた。地面に刻まれた線が、白く滲み始める。線は区画の輪郭をなぞり、人と人の間を這い、閉じた輪をいくつも作っていく。輪の中の民が、初めて何かに気づいた顔をした。だが、遅い。輪はもう閉じている。


 最初の一人が、崩れた。


 最前列の、痩せた老人だった。膝が折れ、上体が前へ落ちる。地面へ伸ばした手が、届く前に止まる。老人は口を開けた。息が、入ってこない。喉が震え、音にならない。目だけが、まだ何かを探していた。列の後ろの方を。誰かの名を呼ぶための息は、すでに体の中から抜き取られていた。


 老人の指先から、白いものが立ち上った。


 それは煙に似ていたが、煙よりも重く、ゆっくりと昇った。老人の体がそれを見送って、静かに前へ倒れた。


 同じ煙が、区画のあちこちから立ち上り始める。低い音が、地の底から湧いた。何百もの喉が同時に立てる、引き剥がされる音だった。悲鳴を上げるための息すら、その喉にはもう残っていない。


 アリアスは掌を開いたまま、それを受け取った。


 熱が来た。


 掌から手首へ、手首から肘へ、腕を遡って胸へ。熱い泥が、血管の中を逆流してくる。アリアスは奥歯を噛み、その熱を体の中へ迎え入れた。


 力だった。


 誰のものでもない。俺のものだ。


 女神が俺を選んだ。だから力が集まる。集まるべきところへ集まっているだけのことだ。世界には、力を持つべき者と、持つべきでない者がいる。その仕分けを、女神は俺に委ねた。この者たちは、俺という器に注がれるために生まれてきた。ならばこれは、殺害ではない。回収だ。


 熱が、指先まで満ちた。


 アリアスは掌を握った。


 握った拳の中で、力が脈を打っている。かつて奪ったどの力よりも太く、確かだった。この腕を振れば、城壁が割れる。この足を踏み込めば、大地が裂ける。俺は強くなっている。今この瞬間も、一息ごとに。


 白い柱が、幾筋も天へ伸びていく。


 アリアスは天を仰いだ。藍色の空に、白がゆっくりと溶けていく。誰も見ていない空だ。


「……足りん」


 アリアスは呟いた。


 まだ足りない。魔王を潰すには、まだ全然足りない。


「残りの区画を、急がせろ」


 段の下で、側近が一礼した。


 赤い法衣は、動かなかった。紙の上で、指が次の数へ進んだ。


 アリアスは、拳をもう一度ひらいた。


◇◇◇


 シルヴァは目を閉じて立っていた。


 魔王軍本隊の最後尾。天幕も張らない土の上で、外套の襟を風に叩かれるまま、動かずにいた。


 前方から、地鳴りが届く。数千の足音が土を打ち、立っているだけの体を絶え間なく揺らしている。膝を通り、腰を通り、胸の奥で鈍く響く。街道を埋めた列が、聖都へ向かって進み続けている。


 その音を、シルヴァは体で聞いていた。


 背後には、ゼノ様とセレナがいる。振り返らずとも分かる。馬の蹄が土を掻く音が二頭分、一定の間隔で聞こえていた。ゼノ様は何も言わない。この数刻、一言も。それでいい、とシルヴァは思う。


 城の大広間の床に引いた紋様は、すでに私の指を離れた。あれは今、誰の手も借りずに、あの静かな広間で息をしている。


 最後に組み込んだのは、この場から操れるようにするための術式だった。国境を越えて、私の指とあの紋様が繋がっている。ここで合図を送れば、陣は独りでに立ち上がる。


 風が、外套の裾を鳴らした。


 シルヴァはその音の向こうを探った。


 空気には、術式の匂いがある。魔力の流れが編まれる時、世界には必ず皺が寄る。私の眼は――と、そこまで考えて、シルヴァは思考を切った。


 遠く、南東。


 皺が寄った。


 シルヴァの瞼の裏が青白く灼けた。


 構造が、見えた。


 中心に一点、周囲に輪。輪は幾重にも入れ子になり、その隙間に無数の小さな線が走っている。線は生きている。脈を打ち、内から外へ、外から中心へ、何かを送り続けている。送られているものの正体を、シルヴァの眼は正確に読み取った。


 人だ。


 人が、線の中を流れている。一つ、また一つ。中心へ向かって順番に。


 シルヴァの呼吸が、一度だけ止まった。


――始まった。


 閉じていた目を、開く。


 夜明け前の空は、まだ暗い。だが東の端が、わずかに白んでいた。あと数呼吸で、払暁(ふつぎょう)が来る。


 シルヴァは右手を持ち上げた。


 持ち上げて――止まった。


 肘の高さで、指先が宙に浮いたまま動かない。風はその指の間を構わず抜けていく。


 あの構造の中を流れている人たちを、私は一人も助けられない。


 構造は、こんなにもはっきり見えている。もっと近くの場所にあるなら、線の一本を断つだけで済む話だ。だが、遠すぎる。


 読めても、この距離では届かない。


 私にできるのは、その像を世界中の空へ運ぶことだけだ。あの人たちは死ぬ。死んで、その死に様を、晒す。家族の前で。子の前で。逃げることも、隠すことも許されずに。


 私は今から、数千人が殺される瞬間を、見世物にする。


 その一線を、私は自分の手で引く。


 風は吹き続けていた。世界は、私のためらいを待ってはくれない。


 シルヴァの指は、まだ動かない。


――それでも。


 嘘は、誰にも見えない場所でしか生きられない。あの塀は、そのために建っている。塀の内側を外へ引きずり出さない限り、あの人たちの死は、明日には『無かったこと』になる。無かったことにされた死は、二度目の死だ。


 私は、二度目を許さない。


 だから、見せる。醜いままに。目を背けたくなるままに。それが、私にできる唯一の弔いだ。


 シルヴァは、腕を上げきった。


「――遠映の術式」


 声は、風にさらわれるほど静かだった。


 だが、応えは大きかった。


 遠く、北西。国境の彼方の魔王城で、床の紋様が一斉に光を吐いたのが、指先を通して伝わってきた。銀白の線が脈を打ち、円環が回り、南東へ――塀の内側にいる、誰かの眼へ繋がっていく。


 払暁の光が、東の空を裂いた。


 その同じ空に、青白いものが滲み出した。


 滲みは、広がった。


 空の一角に生まれた青白い染みが、みるみる縁を伸ばし、雲を呑み、朝焼けの赤を押しのけて、視界の端から端までを覆っていく。シルヴァは腕を上げたまま、それを見上げていた。


 同じことが、いま、どれだけの空で起きているのか。


 術式の経路が、シルヴァの指先に返してくる。聖都の大聖堂前。街という街の広場。市の立つ辻。井戸の周り。人が集まるあらゆる場所の頭上で、同じ染みが、同じ速さで広がっている。届いた先の一つ一つが、細い糸の様なもので私の指に繋がっている。


 そして、像が結ばれた。


 塀。祭壇。区画に分けられ、地面に縫い留められた無数の人影。段の上に立つ、純白の聖鎧。


 空一面が、その光景になった。


 像の中で、人影の一つが崩れた。その体から、白いものが立ち上り、掌を向けた聖鎧へ吸われていく。


――糸が、一斉に張り詰めた。


 経路の彼方、その先のすべてで、数えきれないほどの人が同時に息を呑んだ。そう感じ取れる震えだった。悲鳴の前に必ず来る静けさが、糸を伝って指先まで一息に駆け上がってきた。


 そこから先は、揃わなかった。


 糸が、一本ずつ別々に揺れ始めた。突き上げるような震えがある。悲鳴だ、とシルヴァは思った。細かく波打つ揺れがある。誰かが泣きながら、届くはずのない名前を呼んでいるのだ。ふいに重みの抜ける揺れがある。膝から崩れた者が、地面に手をついたのだろう。


 そして、遠ざかる者がいた。


 一本の糸の先で、気配が像に背を向けた。足早に離れ、糸の届く際から、すっと消える。戸を閉め、閂を落とすように。同じ消え方が、あちこちで続いた。一つ、また一つ。糸の先から、人の気配が引いていく。


 消えた者たちは、これから壁の内で言葉を探すのだろう。今のは幻だった。何かの見間違いだった。見てしまったものを、見なかったことにするための言葉を、一つずつ。


 人は、真実を見せられた瞬間に目覚めたりはしない。


 まず、逃げる。


 シルヴァはそれを、糸越しに何十、何百と感じ取った。像は消せないから、自分の目を消す。それが、いちばん多い反応だった。


 そして、撥ねつける者がいた。


 どこかの広場に繋がる糸が、一本、硬く突っ張っていた。震え方が、怒りに似ていた。空へ向かって、何かを叫び続けている。言葉までは、糸は運んでこない。だが、拒む響きだけは指先に残った。見たものを、認めない者もいる。


 シルヴァは目を細めた。


 揺らいでいる。信じたい者と信じられなくなった者、見ることをやめた者に、いま世界が割れていく。


 これでいい。


 整った反転など、来るはずがない。


◇◇◇


 前線が、動いた。


 そこに繋がる糸も、揺れていた。聖都の手前、街道を塞いでいた敵の戦列。その方角の糸が、一斉に上を向く気配で満ちた。像を、見上げたのだ。直後、張り詰めていたものが緩み、ほどけ、乱れていく。


 その乱れに、地鳴りが重なった。


 糸ではない。シルヴァ自身の足の裏に、前方から伝わってくる震動だった。魔王軍が、動いたのだ。鉄と鉄のぶつかる響きが、遠い雷鳴のように土を伝ってくる。崩れかけた戦列に、味方が食い込んでいく。


 だが、崩れない気配が一つあった。


 乱れの真ん中で、動かないものがある。退きも、進みもしない。ただ、上を向いたまま立っている。やがて、手から何かが滑り落ちるような細い揺れが、一度だけ糸を走った。それきり、その糸は静かになった。


 あの気配は、あの空に、誰の顔を探しているのか。


 シルヴァには、分からなかった。分からないまま、糸はその静けさを運び続けた。


◇◇◇


 空が、光った。


 アリアスは掌を眼下へ向けたまま、眉を寄せた。


 払暁の光にしては、色がおかしい。赤ではない。青みがかった、冷たい光だ。それが塀の上の空を端から浸していく。


 視界が、覆われた。


 塀の内側の空一面に、何かが映っていた。


 塀があった。石を組んだ祭壇があった。地面に縫い留められた無数の人影があった。段の上に、純白の聖鎧が立っていた。右腕を上げ、掌を眼下へ向けて。


 俺だ。


 アリアスは自分の右腕を見た。上がっている。掌が開いている。空の中の男も、同じ形をしている。同じ形のまま、眼下の人間から白いものを吸い上げ続けている。


 喉が、鳴った。


 空の中で、最前列の男が崩れた。膝が折れ、前へ倒れた。その一部始終が、朝の空いっぱいの大きさで映っていた。倒れた男の顔まで、はっきりと。


 これは……。


 外から、見られている。


 塀の外から、門の外から、この箱の外側から、誰かが今、俺を見ている。見ているだけではない。この空は俺の空ではない。俺の空は、俺の頭の上にしかない。この光がここまで届いているなら、同じものが、あの街の空にも――


 アリアスの手が、腰の剣へ動いた。


 柄を掴んだ。掴んで、握り直した。指が滑った。掌が濡れていた。いつからそうなっていたのか、アリアスには分からなかった。


「何だ、これは!」


 声が、裏返った。


 自分の声とは思えない高さだった。段の下で、術式を維持していた魔術兵が肩を跳ねさせ、初めてこちらを振り仰いだ。


「魔王の仕業か!」


 誰も答えなかった。


 答えられる者が、この場にいなかった。


 アリアスは空を睨んだ。空の中の男も、顔を上げて空を睨んでいた。聖鎧が、朝の光を受けて鈍く光っている。血の一滴もついていない、汚れひとつない、白。


 その白が、いま、世界中の空に映っている。


 口の中が、干上がっていた。


「……勇者様」


 段の下から、声が上がってきた。


 ベネディクトだった。赤い法衣の男は、空を見上げていなかった。塀の向こう、街のある方角へ、じっと目を据えていた。


「聖都の空にも、これが出ています」


 その声には、驚きがなかった。


 あるのは、勘定だけだった。


 アリアスは、答えなかった。探す言葉が、一つもなかった。


 掌の中で、まだ力が脈を打っている。さっきまで、あれほど心地よかったものが、いまはただ熱い。


 空の中で、また一人が崩れた。


 それを、世界が見ていた。



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