第194話:「進軍と準備」
地図の一点で、ゼノリスの指が止まっていた。
執務室の卓いっぱいに、聖都ルメナを中心とした街道図が広げられている。指の先、都から半日ほど外れた名もない窪地に、密偵の記録が小さな朱の丸を残していた。塀に囲われた施設。人が入り、戻らない場所。
卓を囲んで、五人が立っていた。ノア、カイロ、セラ、シルヴァ、ガルム。誰も口を開かなかった。朱の丸が何を意味するのか、問う声は一つも上がらなかった。
ゼノリスはその丸を指の腹でなぞった。
塀の内へ歩かされた者たちの顔は、記録にはない。だが、まぶたの裏には、勝手に浮かんでしまう。列に並ぶ老人。母に手を引かれた子ども。門の前で押し戻された女。数千という数が、一人ひとりの顔を持って、頭の中で膨れ上がっていく。
指先が、地図の紙を強く押した。
紙が皺を立てて沈む。爪の先が白くなるまで、ゼノリスはそれに気づかなかった。喉の奥で、熱い塊がせり上がる。息が一段浅くなった。
「勇者は……」
声が、震えていた。
自分でも意外なほど、それは低く、割れていた。卓の向こうでセラが息を呑む。ゼノリスは言葉の続きを、そのまま吐き出しそうになった。
――あの男を、いますぐ引きずり出して、この手で。
だが、そこで止めた。
目を閉じる。一度だけ、深く息を吸った。膨れ上がった熱を、腹の底へ押し戻していく。ここで激すれば、盤の目が曇る。曇った目で人を動かせば、死ぬのは前線の兵だ。数千の民を生きて連れ戻すのに、王の怒りは要らない。要るのは、冷えた頭と正確な一手だ。
目を開けたとき、声はもう平らに戻っていた。
「……ノア。作戦を」
ゼノリスは地図から手を引き、卓の主の位置をノアへ譲った。
ノアが前へ出た。
地図筒から抜いた図面を、街道図の上へ重ねる。聖都を囲む同心円とそこへ向かう幾本もの矢印。すでに描き込まれた線は、迷いなく引かれていた。この数日、ノアの盤面ではとうに軍が動いていたのだ。
「聖都ルメナへ、全軍で進軍します」
細い指が、南東の街道をなぞった。
「目標は、勇者とその一行。聖騎士団。そして教会連合圏が寄せ集めた連合軍と勇者軍。これらを一つの盤の上へ追い込み、逃げ道を塞いだうえで包囲殲滅します」
声は静かだった。だが、その静けさが、かえって凄みを帯びていた。ノアは矢印の一本ずつに、部隊の名を当てていく。前衛、後衛、遊撃、補給。盤上の駒のように、言葉だけで軍が並び替わっていく。
「三方から圧をかけ、退路を東の一本に絞ります。そこは、こちらが先に塞ぎます」
「そこへ追い込んで、どうする」
ガルムが低く問うた。
「追い込むだけです。殲滅と言いましたが、狙いは勇者たちの首だけです。集められた民は、施設の中にいる。戦端を街に持ち込めば、その数千が巻き添えになります。だから、外で終わらせる。街へ一歩も入れずに」
ノアは即答した。
ガルムの喉が、低く鳴った。太い顎が、ゆっくりと引かれる。
ノアが顔を上げ、一同を見た。目の縁は、まだ先の戦場の疲れを残している。それでも、その奥の光は冷たく研がれていた。
「僕は、一人も死なせるつもりはありません。味方も、民も。……そのために、この盤を組みました」
誰も、異を唱えなかった。
◇◇◇
城門前広場は、鉄と革の匂いで満ちていた。
夜明けの光がまだ城壁の上にしか届かない時刻、広場を埋めた軍勢は、影の底で息を潜めている。整列した騎士の列。その後ろに、外套を羽織った魔術兵団。荷を積んだ輜重の列が、城門の内側まで続いていた。馬のいななき。金具の触れ合う音。無数の呼吸が、一つの塊になって朝の冷気を温めている。
ゼノリスは城門の上の城壁に立ち、その全体を見下ろしていた。
石の欄干に手を掛けると、掌に冷たさが刺さる。眼下では、各隊の長が持ち場へ散っていくところだった。
カイロが、先頭の一隊の前で足を止めた。
「先行します。街道の罠と伏兵は、俺が先に消しておきます」
振り返りもせず、それだけを言い残す。応えを待たず、細い背が城門をくぐり、朝靄の中へ溶けていった。足音は、最後まで聞こえなかった。
「私は右翼!」
セラの声が、広場の空気を明るく叩いた。剣を肩に担ぎ、駆け足で自隊の前に立つ。城壁の上のゼノリスを見上げた顔に気負いはない。ただ、まっすぐな熱があった。
「先陣、いつでもいけます! ゼノ様、号令をください!」
その隣で、大地が低く震えた。守護隊の列の前へ、ガルムが進み出たのだ。巨躯を鎧で固め、大盾を背負い、殿と本隊の守りに就く。肩に残る負傷を隠しもせず、胸甲を一つ叩いて背筋を伸ばした。零さぬと決めた者の立ち方だった。
魔術兵団の列では、ドルンが荷車を顎で示しながら、補給と術式の暴発止めの持ち場を割り振っていた。「事故だけは俺が殺しますよ」と物騒な一言が飛び、近くの若い魔術師が肩を跳ねさせる。ドルンはそれを見て、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
ノアは地図筒を抱え、本隊の陣列へ歩いていく。盤面は、ここからは紙の上ではなく、大地の上で動く。
持ち場が、埋まっていく。
ゼノリスは高い石壁の上で一度、大きく息を吸った。冷えた朝の空気が、肺の底まで満ちる。眼下の無数の顔が、こちらを見上げていた。号令を待っている。
ゼノリスは、右手を高く掲げた。
「進軍!」
声が、朝の空へ抜けた。
次の瞬間、広場が揺れた。
鬨の声が、地の底から突き上げて湧き起こる。数千の喉が一斉に開き、その響きが城壁を叩き、足元の石まで震わせた。城門が両開きに軋み、先頭の騎馬が地を蹴る。蹄が石畳を打つ音が、幾重にも折り重なって空へ立ち上った。
旗が、風を孕んで翻る。
軍勢が城門を抜けていく。騎士、魔術兵、輜重。列は途切れることなく、朝靄の街道へと吸い込まれていった。足の裏から背骨を伝って、地鳴りが上ってくる。
ゼノリスはその流れが尽きるまで城壁を降りなかった。
最後の一隊が門をくぐり、揺れが遠ざかっていく。広場に残ったのは、踏み荒らされた土と、まだ消えない熱気だけだった。
南東へ。聖都ルメナへ。
国が退ける側だった日々は、この朝、終わった。
◇◇◇
皆が去った城は、静かだった。
ゼノリスは大広間へ足を運んだ。天井の高い広間は、いま調度のすべてが運び出され、磨かれた石の床が、鏡のように広がっている。
その床に、シルヴァが座り込んでいた。
膝をつき、白墨を握った手で、床へ紋様を描いている。中心から放射状に伸びる線。それを幾重にも囲む円環。細かな文字が、円と円の間を埋めていた。すでに広間の半分近くが、その銀白の紋様で覆われている。
残った魔術兵団の数名が、床の縁に沿って術式の触媒を並べていた。誰も、口をきかない。白墨が石を擦る、乾いた音だけが、高い天井へ吸い込まれていく。
ゼノリスは入り口で足を止めた。
声をかけるのが、憚られた。シルヴァの周りの空気が、張り詰めている。近づけば、指先で触れられそうなほどに。
シルヴァが顔を上げた。
「ゼノ様」
白墨を置き、膝の埃を払って立ち上がる。淡い髪が、窓の光を受けて銀色に沈んだ。
「見ての通り、術式陣の下地はほぼ組み終わりました」
「これが、あの日の術式ですか」
ゼノリスは床の紋様へ目を落とした。国内へ宣言を届けた、あの日。国中の空に映像を映し出した、遠映の術式。あれと同じ紋様が、今、この床にある。
「はい。ですが、あの日とは規模が違います」
シルヴァが紋様の外周を指でなぞった。
「あの時は、国内に届けば済みました。今度は、教会連合圏領の主要な場所すべてに、同時に映し出します」
指が、円環の一つで止まった。
「街という街の広場。聖都の大聖堂の前。人が集まる場所の、空という空すべてに。民の一人残らずが、否応なく見上げる形で」
静かな声だった。それでいて、そこには一分の緩みもなかった。
ゼノリスはその横顔を見た。
シルヴァはいつも、感情を面に出さない。だが、床に膝をついていた時間の長さが、その白い指の擦り傷が、言葉より雄弁だった。誰にも任せず、自らの手で一線ずつ、この紋様を引いてきたのだ。
「無理をさせています」
「いいえ」
即座に、シルヴァは首を横に振った。
「これは、私にしか組めません。私の眼だからこそ、術式の綻びを一つ残らず読み取れる。……ゼノ様。この紋様の一線が狂えば、映像は歪みます。歪んだ真実は、嘘に負ける。だから、私が引きます。一線も狂わせません」
その瞳の奥で、青白いものが揺れた。
紋様の細線が、ほのかに光を帯び始める。銀白の線が、脈を打って明滅する。石の床そのものが、ひそやかに息づいていた。
ゼノリスはその光をしばらく見ていた。
やがて、光は静かに引いていった。シルヴァが、細く息を一つ吐いた。
「……仕上げは、進軍の間に終わらせます」
シルヴァが窓の外へ目を向けた。空はもう、高く昇った陽で白んでいる。
「陣が完成し次第、私も残りの兵団と共に前線へ発ちます。発動は、勇者が儀式を始めるその瞬間に」
「頼みます」
ゼノリスはそれだけを言った。
多くを語る必要はなかった。玉座の間で交わした誓いが、この床の紋様に、すでに刻まれている。
シルヴァが再び膝をつき、白墨を取った。乾いた音が、また高い天井へ昇っていく。ゼノリスはその背をひとつ見届けて、広間を後にした。
◇◇◇
執務室に、一人の男が滑り込んできた。
聖都に潜り込んでいた諜報員が、危険を冒して戻ってきた。土と汗にまみれた外套の下から、折り畳んだ紙を取り出す。
「聖都の、内側の動きです」
声を潜め、諜報員は報せを読み上げた。
「例の施設。生贄の儀式の準備が、最終の段に入りました。祭壇が組まれ、集めた民が、区画ごとに分けられています。……いつ始まってもおかしくない状態かと」
ゼノリスの指が、紙の端を握った。
間に合うのか。喉元までせり上がった問いを、奥歯で噛み殺す。ここで焦れば、進軍の速度に無理が出る。無理な速度は隊列を乱し、乱れた隊列は勇者につけ入る隙を与える。ノアの盤面を、自分の焦りで崩すわけにはいかない。
「続けてください」
「もう一つ。枢機卿ベネディクトが、聖騎士団を前に、こう申したそうです」
諜報員の声が、わずかに低くなった。
「『魔王が兵を挙げたのは、こちらの計画を嗅ぎつけたからです。ですが、遅い。儀式さえ成れば、勇者様は神々の力を取り戻される。そのうえで魔王を討てば、こたびの戦は聖戦として歴史に刻まれるでしょう。……これで、魔王軍を潰す』と」
ゼノリスは目を閉じた。
あの男の考えることは、いつも同じだ。人の命を並べ、天秤にかけ、より多く積んだ側を『正義』と呼ぶ。数千の民は、その天秤の、ただの分銅にすぎない。
「聖騎士団は」
「聖都の全門を閉ざし、防衛の陣を敷き始めました。城壁に射手を並べ、街道の要所に兵を伏せています。……我らを、聖都の手前で食い止める構えです」
報告は、そこで終わった。
諜報員が一礼し、来た時と同じ静けさで部屋を出ていく。ゼノリスは手の中の紙を静かに畳んだ。
敵は、こちらの動きを読んでいる。防壁を固め、儀式を急いでいる。時は、向こうに味方するのか、こちらに味方するのか。まだ、わからない。
◇◇◇
その日の夕刻、シルヴァが残りの魔術兵団を率いて城を発った。ゼノリスとセレナも、その一団に加わった。隣に馬を並べたセレナの銀の髪が、暮れかけた光の中で淡く揺れていた。
魔王軍は国境を越え、聖都までの街道を南東へ進んでいた。ゼノリスとセレナは、シルヴァたちと共に本隊に向け馬を進めている。前線からの報せは、進むほどに一つずつ手元へ集まってきた。
街道の先に、目を向ける。地平の彼方、まだ見えぬ聖都の方角。あの空の下で、今この瞬間も、祭壇に民が並べられているのだ。
風が、街道の土埃を巻き上げて過ぎていく。
背後では、行軍の列がなお南東へ流れ続けていた。無数の足音が、乾いた大地を叩いている。その音の一つ一つが、聖都へ、あの施設へと、確かに近づいていた。
まだ、間に合う。
そう信じる以外に、進む道はなかった。




