第193話:「諜報と決意」
小会議室の空気は、まだ夜明けの冷たさを残していた。
あの誓いの朝から、数日が過ぎていた。今朝、諜報省から先触れが入った。
ゼノリスはカイロを伴い、卓に着いて待った。
扉が音もなく開いた。
戸口に、暗色の外套が立っていた。朝の部屋にあってなお、輪郭だけが薄暗がりに沈んで見える。諜報長官ノクティスだった。
ゼノリスは目で先を促した。
「緊急の報せです」
声は低く、起伏がなかった。ノクティスは卓の前まで進むと、薄い紙を一枚、ゼノリスの手元へ滑らせた。
「聖都ルメナの近郊に、勇者の手の者が秘密の施設を設けています。そこへ、数千人規模の民が、集められています」
ゼノリスは紙を取った。
密偵の文字は短い。日付、場所、おおよその人数。飾りのない数行が、事実だけを並べている。読み進める目が、人数の行で止まった。
――数千人。
背筋を、冷たいものが這い上がった。崩れ落ちた遠征拠点の土の色と、治療室の寝台に並んだ五人の姿が、一瞬よみがえる。あの日、魔王軍を呑んだあの力も――もしや、これと同じだったのではないか。その勇者がいま、また民を一か所に集めている。
集められた民が何に使われるのか。この大陸でそれを知る者は、ほとんどいない。だが、ゼノリスは知っていた。
「報せの確度は」
「現地の密偵からの第一報です。確証は、これから取ります」
ノクティスの答えに迷いはなかった。ゼノリスはその一枚を卓に伏せ、扉の脇に控えるカイロへ顔を向けた。
「カイロ。皆を呼んでください。セレナさんもです」
カイロの目が、一瞬だけ主の顔色を確かめた。
「……はい」
短い応えを残し、影のような背中が部屋を出ていった。
◇◇◇
六人が卓を囲んだとき、窓の外の物音はまだ朝のものだった。
セラ、シルヴァ、ガルム、ノア。戻ったカイロが扉を背にして立ち、セレナはゼノリスの右隣に浅く腰を下ろしている。ノクティスは卓から一歩引いた壁際に控え、気配を薄くしていた。セラが何かを問いかけようとして、口を閉じた。それより先に、ゼノリスが密偵の報せを卓の中央へ置いたからだ。
「今朝、諜報長官のノクティスさんから急ぎの報せが届きました」
ゼノリスは目を落とし、紙の縁を指の背で叩いた。
「勇者がルメナ近郊に施設を構え、数千人の民をそこへ集めています」
紙へ手を伸ばしかけたノアの指が、途中で動きを失った。
「目的の確証は、まだありません。ですが……私には、一つしか思い当たらない」
一拍、言葉を切る。口にすれば、この部屋の空気ごと変わる。それでも、ゼノリスは告げた。
「勇者は『供犠の簒奪』の準備を進めています」
空気が変わった。
「先の戦いで君たちを呑んだ、あの力――おそらく、同じものです」
最初に音を立てたのはセラだった。椅子の脚が床を擦り、浮きかけた腰が、ぎこちなく戻る。
「……あれが、そうだったの……?」
声の先が掠れていた。ガルムは何も言わない。卓の上で組まれた両手の、太い指の背だけが白く強張っていく。ノアは目を閉じ、長い息を吐いた。吐き切るまでが、いつもより長かった。
五人は皆、あの力に呑まれた側だった。それが同じ術だったのなら、その重さを誰よりも知っている。シルヴァの静かすぎる瞳が、卓の一点を見据えたまま動かない。瞬きが止まっていた。
「……あの」
細い声がした。
セレナだった。膝の上で、両手の指先が固く重なっている。
「ゼノ様。供犠の簒奪とは……何なのですか」
その問いで、ゼノリスは気づいた。この術の名を、セレナはまだ知らない。
「……禁忌の術式です」
ぼかすことはできた。だが、ぼかせばこれから始める戦いの意味までぼやける。ゼノリスは静かに、事実だけを置いた。
「捧げた生贄の数に比例して、奪える力が大きくなる術。勇者はかつてこの術で神々の力を手にしました。あの施設に集められた数千の民は、そのための供物です」
セレナの唇が薄く開いたまま、止まった。
重なった指先が小刻みに震えだす。震えは手首を伝い、細い肩へ広がっていく。見開かれた藍色の瞳が、ゼノリスから動かない。歌うために生まれてきた人の喉が、いま、音の出し方を見失っていた。
窓の外では、城下の朝の物音が遠く続いている。荷車の軋み。人の呼び声。いつもと同じ日常の音が、卓の沈黙をかえって深くしていた。
その沈黙を破ったのは、ゼノリスだった。
「シルヴァ、君の魔術で勇者の罪を暴く時です」
名を呼ばれたシルヴァは、すぐには答えなかった。卓の一点に据えられていた瞳が、ゼノリスへ向く。その縁で、青白い光の粒が一つだけ瞬き、消えた。
「……はい」
返事はそれだけだった。それで足りた。誓いなら、もう玉座の間で交わしてある。
ノアが目を開いた。
「魔王軍の進軍作戦を立案します。聖都ルメナへ進軍し、勇者たちを追い詰めます」
細い指はすでに卓の端の地図筒へ伸びている。言葉より先に、ノアの頭の中では盤面が動き始めているのだろう。
「諜報省の密偵を現地に増派し、情報の再確認と勇者の動きの監視に当たらせます」
扉の前のカイロが続けた。声の調子はいつもと何も変わらない。その変わらなさが、頼もしかった。
セラとガルムが、短く目を見交わした。二人の役目はまだない。それでも、その背はもう戦支度の構えだった。
ゼノリスは席を立った。
「では、始めよう。世界に真実を示す時だ」
セラがまっすぐ顔を上げ、誰より先に立った。ガルムが深く頷いて続く。ノアは地図筒を取り上げ、シルヴァは袖の内の術式札を確かめている。カイロはもう、扉に手を掛けていた。
動き出した部屋の中で、セレナだけが椅子から立てずにいた。
膝の上の指はまだ解けていない。ゼノリスはその傍らで足を止めた。掛ける言葉を選び終えるより先に、セレナが小さく首を横に振った。
「……大丈夫です。私のことは、お気になさらず」
大丈夫ではない、と分かる声だった。それでも、ゼノリスは頷くにとどめた。いま必要なのは慰めではない。あの施設から民を、生きて連れ戻すことだ。
散会の足音が廊下へ流れていく。ゼノリスは卓の上の報せを、もう一度だけ見下ろした。紙一枚の軽さが、いまは何よりも重い。
◇◇◇
待つ日々は長い。
それから数日、続報は途絶えた。執務の合間にも、ゼノリスの目は幾度となく窓の外へ流れた。聖都までの道のりを、密偵の足がいま往復している。頭ではその日数を数えられても、胸の内は数えてくれなかった。
夕暮れが執務室の壁を赤く染め始めた頃、戸口の影が一つ増えた。
ノクティスだった。手にした書状を、何も言わずに卓へ置く。封の上で、ゼノリスとカイロの目が合った。
「確証です」
ノクティスの声は、あの朝と同じ高さのまま揺れなかった。
ゼノリスは封を割った。
今度の報せは一枚ではなかった。潜伏する密偵が日を分けて書き溜めた記録が、細かな文字で連なっている。目で追ううちに、紙の上の文字は風景へ変わり、ゼノリスの目の奥で像を結んでいった。
『聖都ルメナの近郊、人の往来から外れた一帯に、高い塀に囲われた施設がある。出入口は一つ。昼夜を問わず、武装した兵が門を固めている』
『幌付きの馬車が、日ごとに列を作って門をくぐる。降ろされるのは人だ。老いた者。幼い者。粗末な身なりの、どこにでもいる民』
『降ろされた者は塀の内へ歩かされ、そのまま戻らない。門を出た者は、まだ一人も確認できていない』
『門の前で、泣きながら引き返そうとした女がいた。兵に押し戻され、列へ戻された』
『純白の聖鎧の一行が現れた。先頭は勇者アリアス。傍らに、ベネディクト枢機卿の姿もあった』
記録はそこで終わっていた。
ゼノリスは顔を上げた。西日は卓の端まで退き、部屋は薄い赤に沈んでいる。手の中の紙の薄さと、そこに記された中身が、釣り合っていなかった。紙の縁をつまむ指に、知らず力がこもる。ゼノリスは息を一つ置いて、その力を解いた。
「勇者は、まだ民を犠牲にするつもりか……」
自分の喉から出たとは思えないほど、低い声だった。
卓の向かいで、ノクティスは身じろぎもしない。扉の脇のカイロも、言葉を挟まなかった。
怒りは炎の形をしていなかった。腹の底に冷たく沈んで、動かない。あの敗北の日からずっとそこにある怒りへ、今日の記録がまた一つ、重さを足した。
――間に合うのか。
その問いを、ゼノリスは喉の奥で止めた。口にすれば、答えのなさだけが、暮れた部屋に残る。
城下の屋根から、夕餉の煙が立ちのぼっている。この同じ空の下、遠い聖都の近郊で、いまも門は開いているのだ。
列はまだ、終わっていない。




