第192話:「折れない力」
夜が明けても、魔王城の玉座の間に、祝いの声はなかった。
高い窓から朝の光が斜めに差し込み、磨かれた石の床に長い帯を引いている。ゼノリスは玉座を背に、その光の手前に立ち、入り口までの石床を黙って見ていた。人の声で温まる前の広間は冷える。靴底を通して、石の冷たさが足の裏まで上がってくる。
昨日、城門前広場は歓声で揺れた。今日この広間に呼んだのは、五人だけだ。祝宴のためではない。次の戦いの最初の一歩を、ここから踏み出すためだった。傍らには、セレナが両手を身体の前で重ねて立っている。
扉が内側へ開いた。
最初の一人に、足音はなかった。気配だけが先に届き、ゼノリスが目を向けた時には、カイロが扉の内に立っていた。一礼の所作にも音がない。ただ、頭を上げた目だけが、まっすぐ主を捉えた。
二人目の足音は、廊下の奥から迷いなく近づいてきた。一定の歩幅、揺れない調子。セラは入る寸前で半歩速くなり、それを自分で抑えるように顎を引いて、カイロの隣に並んだ。
シルヴァは光と一緒に入ってきた。開いた戸口から差す朝日が、銀に近い淡い髪を白く縁取る。静かすぎる瞳が広間を一度だけ見渡して、ゼノリスの上で止まった。
四人目は床を低く震わせて現れた。だが、その歩幅は昨日より狭い。ガルムの肩には鎧の下から布の厚みが覗き、巨体がそれを庇って傾いている。それでも入り口で、巨躯は丁重に頭を下げた。
最後に、細い息の音が届いた。ノアが地図筒を提げ、薄い肩を上下させながら扉をくぐる。歩くだけで音を上げる身体は、昨日と何も変わらない。
五人がゼノリスの前に横一列に並んだ。
誰の身体にも、まだ昨日が残っていた。厚く巻かれた布、動きを庇う足、ひと晩の眠りでは拭いきれない疲れの色。それでもセラの目は、痛々しいほど真っ直ぐにゼノリスを見上げていて、ゼノリスは一度息を整えた。
胸の内側で、熱が静かに膨らんでいる。
この五人が、誰一人欠けず、自分の足でここに立っている。込み上げるものを、奥歯で噛んで押し戻す。ゼノリスは王の顔の下にその昂ぶりを畳み、ゆっくりと口を開いた。
「皆、折れないほど強くなった」
声が広間の石に響いた。
「これは、君たちが己の本質を解放した証だ」
短い言葉だった。準備してきたのは、もっと長かった。労いと、感謝と、誇り。どれも用意してあったのに、五人を前にした喉は、その一番固い芯だけを通した。
最初に動いたのは、セラだった。
「ゼノ様……!」
一歩踏み出し、何かを言いかけ、言葉が喉で詰まる。結局、セラは腰を深く折った。下げた頭の下から、絞った声が落ちる。
「私、強くなれました。……ゼノ様が、見つけてくれたから」
「……一つだけ」
カイロが片膝を落とした。
「俺の力は、初めからゼノリス様のものです。強くなっても、使い道は変わりません」
淡々とした声だった。だが、伏せた目元だけが、声より雄弁だった。
「ゼノ様」
シルヴァが続いた。
「私たちはあなたの言葉で、限界の壁を超えました。ならば、この力の振るい先を定める理も、あなたの誠実さの内にあります。……私は、それを正しいと判断します」
理屈の形をした、忠誠だった。
応えが途切れた。
ガルムが口を開かなかったからだ。
大きな手が腰の前で固く組まれ、岩の輪郭をした顔が暗く翳っている。その沈黙の重さが、広間の空気を低く引き下げた。
「ゼノリス様。……わしは、この力を誇る資格を持ちませぬ」
低い声が石の床へ落ちた。
「昨日、広場で崩れ落ちた母御がおりました。わしが守りきれなんだ、あの若い兵の母御です。覚めたこの力が、もっと早う来ておれば、と……それを思わずには、おれませなんだ」
セラが目を伏せた。セレナの重ねた指に、力がこもるのが見えた。歓声の裏側で、帰らなかった者がいる。その事実が、広間の冷えた空気の底に、まだ生々しく横たわっていた。
「……僕も、です」
ノアが自分の指先へ視線を落とした。
「この力は、いまも怖い。盤の上で人の命を並べ替えられる力なんて、本当は誰も持つべきじゃない。覚めてから日が経っても、その怖さは薄れるどころか、増しています」
悼みと、怯え。
二つの影が、五人の誓いの場に差していた。だが、ゼノリスはそれを遮らなかった。最後の一言まで受け取ってから、二人へ向けて告げた。
「ガルム、ノア。――その重さを、捨てないでください」
ガルムの顔が、上がった。
「折れないとは、傷を負わないことではありません。怯えを知らないことでもない。守れなかった重さを負ったまま、明日もう一度、盾を持って線の前に立つ。力の冷たさに震えながら、それでも誠実な一手を選び続ける。……君たちは、戦場でそれをやり遂げた。だから私は、君たちを『折れない』と呼ぶのです」
言い切って、ゼノリスは五人を見渡した。
「その傷ごと、その怖さごと、私は君たちを誇りに思います」
ガルムの組まれた手が、ほどけた。
厚い背筋が伸び、戦傷の刻まれた顔が、逸らさずに王を見る。
「……はっ。この老骨、いまのお言葉を盾に刻みますぞ」
ノアが顔を上げた。目の縁が赤かった。
「ずるいですよ、それは」
泣き笑いの形に口元を歪めて、ノアは続けた。
「そう言われたら僕は……怖がったままで、戦えてしまうじゃないですか」
五人が膝をついた。
誰が先というのでもなかった。カイロの膝はすでに床にあり、セラが続き、シルヴァが衣の裾を払い、ガルムの巨体が低く屈み、ノアが筒を床に置いて加わった。五つの影が、冷えた石床に低く並んだ。朝の光の帯は、五人から少し外れた床を白くしている。
ゼノリスはその一つ一つを、目に焼きつけた。
傷も、怯えも、悼みも、消えてはいない。何一つ拭われないまま、それでも五人の背は、誓いの低さで揃っている。――これが、折れない側に立った者の姿だ。
ゼノリスが労いを継ごうと、息を吸った。
その時、傍らで衣擦れの音がした。
セレナが進み出ていた。
ドレスの裾が床の上を滑り、五人の正面で止まる。深い藍の瞳が、膝をつく五人をひとりずつ順に辿っていった。
「皆さま、ありがとうございます」
声は柔らかいままだった。それでいて、響きは広間の隅々まで通った。
「ゼノ様のお傍で、皆さまが立ち上がっていく音を、ずっと聴いてまいりました。傷の痛みを呑み込む音も、それでも前へ出る足音も……全部です」
跪いたまま、五人がセレナを見上げる。
セレナが浮かべたのは、怯えも悼みも知った上で、なお前を向く微笑みだった。
「次は、私たちが世界に真実を示す番です」
ゼノリスは傍らで、空気の張りが変わるのを感じた。誓いの静けさが、次の戦いへ向く熱に、ゆっくりと裏返っていく。
最初に腰を上げたのは、シルヴァだった。
「私から、申し上げます」
瞬きの少ない瞳に、青白い光が一筋走った。感情が昂ぶると、シルヴァの周りでは魔力が勝手に共鳴する。
「ゼノ様の演説を映した、あの遠映の術式。あれを、世界の空まで届く形に組み直します。勇者が隠してきたものを、聖教会が偽っていたものを、誰の目にも見える場所へ引きずり出す。私の『力』で、勇者の罪を世界に映し出します」
「なら、術を組むシルヴァは私が守る!」
セラが床を蹴って立った。
「世界中の敵が来たって、指一本触れさせないから」
「それなら、後ろは任せてもらおうかの」
ガルムが胸を一つ叩いて、続いた。
「国と、ここにいる皆の背は、わしが守り抜く。……今度は、誰ひとり零さぬ」
最後の一句だけ、声が低くなった。昨日の重さが、その誓いの芯に埋め込まれていた。
「裏方は俺の領分です」
カイロが音もなく身を起こした。
「ゼノリス様の道筋を塞ぐものは、先に消しておきます。表で真実が示される前に、足元の罠は残らず俺が外します」
「では、盤面は僕が」
ノアが地図筒を抱え直した。
「今度の戦場は、剣の届く場所じゃありません。世界中の人の、心と目です。どこで、何を、どの順で見せるか。勝ち筋は、もう探し始めています」
声が重なるたび、広間の温度が上がっていく。
窓の日差しは、広間の熱とは関わりなく角度を変えて、床を這っていく。朝はただ進んでいる。誓いの場が、そのまま軍議の入り口に変わりつつあった。
ゼノリスは六人を見渡した。
昨日までは、退ける側だった。国境で、防衛線で、押し寄せる波を受け止める日々。それがいま、この広間で反転した。傷を抱えた五人と、嘘を知り尽くした一人の歌姫が、自分たちの足で世界へ向かおうとしている。
「カイロ。セラ。シルヴァ。ガルム。ノア」
名を、ひとりずつ呼んだ。呼ばれるたび、それぞれの背筋が伸びていく。
「そして、セレナさん」
セレナが小さく頷いた。
「私は長いあいだ、奪われた側でした。名誉を、歴史を、君たちという至宝を踏みつけた世界を、ただ憎むこともできた。……ですが、君たちが教えてくれました。奪い返す必要はない。示せばいい。真実は、それだけで嘘より強い」
ゼノリスは一呼吸を置いた。
さっき喉の奥で止めた、労いと、感謝と、誇り。その全部を、最後の一言に束ねた。
「世界を救いましょう」
歓声は上がらなかった。
代わりに、セラの固めた両の拳が小さく震えた。シルヴァが目礼し、カイロが胸に手を当てる。ノアが大きく息を吸い込んで、止めた。セレナの唇が、声にならないものをなぞる。最後に、ガルムの顎が深く引かれた。
その中で、ガルムの目だけが一瞬、窓の外へ流れた。
城下の屋根が連なる方角。昨日、帰らない息子を待ち続けた母親が、あの屋根のどこかの下で朝を迎えている。ゼノリスはその視線の先を思い、あえて何も言わなかった。あの重さを置いていかない。抱えたまま、進む。六人は、そう選んだ。
窓の明かりは、宣言の前と変わらない速さで、床を渡っていく。
誓いの朝は、もう戦いの最初の一日だった。




