第191話:「5人の輝き」
白い旗が、南の地平へ崩れていくのを、ガルムは一本道の口から見ていた。
一度退いた勇者軍が、態勢を組み直して攻め寄せた二度目の波だった。それも、ガルムの前でまた崩れた。我先にと、味方の背を踏み越えてでも逃げていく。
さっきまで束になって押し寄せていた教会連合圏の軍勢が、いまは互いの背を踏みながら後ろへ流れていた。前へ出ようとする者を、後ろの者が引き戻す。逃げ場のない細い口へ押し込まれた敵が、自分の数の多さに足を取られている。ガルムには、その有り様が手に取るように見えた。
ガルムの正面に、ただ一人、踏み止まる影があった。
巨斧の重戦士ブラム。さきの波で、覚めたばかりのガルムに弾き飛ばされ、土の上を転がった男だ。その黒い巨体が、第二波の先頭でも、性懲りもなくガルムの前へ立ち戻っていた。分厚い白鉄の鎧の肩が、上下に荒く揺れている。
「使えねぇ盾が……まぐれで一発、効かせただけだろうが!」
ブラムが巨斧を担ぎ直し、地を蹴った。
まっすぐ、ガルムの脳天へ。覚醒前のガルムなら、損耗した右腕では受けきれなかった一撃だった。
ガルムは動かなかった。
地に引いた見えぬ境の手前で、ブラムの刃が止まる。鉄と鉄がぶつかる音すら立たない。空間そのものが岩になって、斧の重みを呑み込んでいた。
「な……っ、また、これかよ……!」
ブラムの声が裏返った。
全身の重みを乗せた斧が、虚空に縫い止められて、びくとも動かない。引き抜こうと踏ん張る足が、土を掻いて後ずさる。斧にしがみつく腕が、無様に痙攣していた。格上と見れば吼え、敵わぬと知った途端にこれだ。ブラムという男の中身が、その一点に剥き出しになっていた。
「下がれ。ここは、わしの守る線じゃ」
ガルムは巨盾を、軽く前へ突き出した。
ただそれだけで、宙に縫われていた斧が、主の手ごと弾かれた。たたらを踏んだブラムが、退きかけた味方の列へ背中から突っ込む。鎧と鎧のぶつかる鈍い音が連なって、黒い巨体は仲間を巻き添えに地へ沈んだ。
ガルムは前へ、一歩を踏んだ。
その一歩のぶんだけ、地に引かれた境が前へ進む。敵兵がどれだけ刃を振るっても、その境の内側へは、もう誰の足も入れなかった。土煙の奥で起き上がったブラムが、巨斧を引きずったまま、後ろの味方の波へ紛れていく。担いだ刃を、もう一度振り上げようとはしなかった。
「隊長の盾の前へ出るな!」
守護隊の兵たちが、ガルムの左右で盾列を詰め直す。覚めた力がどこから湧いたのか、兵たちは知らない。ただ、隊長の引いた一線が破れぬことだけを肌で察して、その背に従っていた。ガルムの前で、敵の前列が後ろへ後ろへと押し戻されていく。やがて、退き鉦の音が、一本道の彼方で鳴りはじめた。
目の前の敵が、崩れた。
ガルムは前へ出した足を、そこで止めた。
退いていく敵を、追わなかった。
盾を下ろし、ガルムは戦場の足元へ目を落とした。
押し返した地面に、主を失った得物が散らばっていた。
ひしゃげた盾。柄の折れた槍。持ち手のいなくなった具足が、土の上に転がっている。第一波で払った代償だった。倒れた兵は、戦の合間に後方へ運ばれていったが、その得物だけが、まだ戦場に残されていた。
覚めた力は敵の波を退かせた。だが、その力が湧くより早く倒れた者までは、何一つ取り戻せなかった。
ガルムは、足元に転がる一つの得物の傍らに膝をついた。
まだ十代の半ばの兵が握っていた盾だった。志願してきた日、ガルムの前で背筋を伸ばしていた、あの若者のものだ。大きな掌で、その盾についた土を払う。守りきれなかった、という言葉を、ガルムは胸の底に沈めた。守る力を得てなお、こぼれ落ちるものがある。その重さごと負って立つのが、盾の務めだった。
◇◇◇
別の戦線で、最後の崖が崩れ落ちる音を、ノアは聞いていた。
ノアが任されたのは、東の隘路だった。圧倒的な物量の奇襲を、地形と術式で組み伏せて、たったいま敵の退路を岩塊で塞いだところだ。土煙の彼方で、白い旗が一本、また一本と引いていくのを、ノアは確かめた。ここは、抑えた。
ノアは荒い息のまま、河沿いの戦線へ目をやった。
離れた一本道の口でも、土煙が薄れていく。耳を澄ますと、ガルムの守る河沿いからも、退き鉦の音が届いてきた。あちらも、ほぼ同じ刻に押し返したらしい。ノアはそう読み取った。
「ノアさん」
副官のヴェルナーが、地図筒を抱えて駆け寄ってきた。魔人族の青白い頬が、興奮にわずかに紅潮している。
「東の隘路、制圧。敵は退却に入りました。河沿いも、ガルム隊長が押し返したと伝令が、来ています」
「……そうですか」
ノアは短く応じた。声に、勝った高揚は乗らなかった。
◇◇◇
ノアとヴェルナーは、ガルムの戦線へ歩いた。土と血の匂いの中を、ノアの足は浅い息を引きずって進む。河沿いの口で、ガルムが膝をついていた。倒れた兵の傍らだった。
「ガルムさん」
ノアが声をかけると、ガルムは膝を起こし、振り向いた。
「ノアか。東は、片付いたか」
「はい」
ノアはガルムの隣に立ち、退いていく敵の背を見た。
「ガルムさん。僕は今日、自分の力が変わったのを、はっきり感じました」
「わしもじゃ」
ガルムは、自分の両掌へ目を落とした。
「この盾の前に、線を引いた。そこから先へは、誰の刃も通さぬ――そう念じただけで、本当に通らなんだ。長年、どれだけ望んでも届かなんだ力よ。それが、今日、ここに来た」
「僕もです」
ノアは自分の手のひらを見下ろした。
その指は、たった一本立てるだけで、味方を勝利へ動かした。だが、誇らしさは湧かなかった。代わりに、背筋を冷やすものが、まだ胸の奥に居座っている。
「ガルムさん。僕は戦いの最中に、一つわかってしまったんです」
ノアの声が低くなった。
「この力は……誰かを捨てれば、誰かが助かる。その答えを、指一本で正確に弾き出せる力です。今日は、誰も捨てずに済んだ。でも、それは僕が誠実でいられたからだ。もし僕が、いつか誠実さを手放したら……この力は、味方を数字に変える刃になる」
ガルムはすぐには答えなかった。
ノアの言葉を、厚い胸の奥で受け止めてから、低く返した。
「わしの盾も、同じよ」
ガルムは倒れた兵へ、もう一度目を落とした。
「守る力は、守れなんだ者を、いっそう重くする。覚めたこの力で、この子を立たせてやれなんだ。力が強くなったぶん、守れなんだ後悔も、重なる」
ノアはその横顔を見た。
「持て余すのが、嫌ですか」
「いや」
ガルムは首を横に振った。
「持て余してよい。この力の重さに怯えておるうちは、わしらはまだまともだ。怖さを忘れた力こそ、いちばん危うい」
ノアはその言葉を、しばらく地面に置いていた。
「……そうですね。怖いと思えるうちは、まだ大丈夫です」
退いていく敵の隊列の中ほどに、聖布の一団が見えた。負傷兵の列を選り分けながら、銀髪の聖女リュシアが下がっていく。救う者と、見捨てる者。この退却の最中でさえ、その手は怪我の重さではなく、兵の値打ちで動いていた。少し離れて、赤い外套の魔導師ゼフィルが、宙に組みかけた術式を解いて踵を返す。魔力で組み伏せられるはずの相手に組み伏せられた、という現実をその背がまだ呑み込めずにいた。
ノアはその退き際を、最後まで目で追わなかった。聖女と魔導師の背が、揃って南の地平へ遠ざかっていく。倒すべき相手ではあった。だが、いま追い縋って討つより、守りきった味方の顔をこの目で数えておきたかった。
◇◇◇
城門前広場に、帰還を告げる角笛が鳴った。
ゼノリスはセレナと並んで、城門の前に立っていた。広場の石畳の先、城下へ続く街道の方角から、土埃を上げて隊列が近づいてくる。北西の戦線から退いた騎士団と魔術兵団。そして、少し遅れて、南の国境を守りきった守護隊が、その後ろに連なっていた。
民が広場の両脇に集まりはじめている。
戦が終わったと聞きつけた者たちだろう、と、ゼノリスは見て取った。帰ってくる兵の顔を探して、母親が背伸びをする。子供が父の名を呼ぶ。隊列が広場へ入るたび、あちこちで声が上がった。一人が見つけて駆け寄り、その隣でまた一人が見つける。歓声が、広場の端から少しずつ満ちていくのを、ゼノリスは聞いていた。
ゼノリスはその先頭に立つ二人へ目を向けた。
巨大な盾を背に負ったガルム。その隣に、地図筒を提げたノアが、浅い息で歩いている。二人とも、まだ傷の癒えきらぬ身体だった。鎧の上から布を巻いた肩。引きずるような足の運び。それでも、二人は自分の足で、ここまで帰ってきた。
ゼノリスは二人へ【至極の理】を向けた。
ガルムの頭上に、星が浮かんだ。
【黄金の星。☆☆☆☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【不動の盾】
ゼノリスの喉が、小さく鳴った。
南へ発つ前のガルムは、☆5だった。世界の理が許す、限界の数だった。それが、いま、☆6。到達できる限界と、いま立っている実力とが、同じ高さで重なっている。老いた盾は、自分の足で、世界の定めた限界を踏み越えていた。
ゼノリスは隣のノアへ視線を移した。
【黄金の星。☆☆☆☆☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【盤面の支配者】
日頃は息一つで音を上げる細い身体の頭上に、誰よりも研ぎ澄まされた星が、六つの光を放っていた。
ゼノリスは静かに息を吐いた。
これで、五人すべてだ。
北西から戻ったカイロとセラ、シルヴァの☆6は、すでにこの目で見ている。そしていま、南から帰ったガルムとノアの頭上にも、同じ六つの星が灯った。あの治療室の寝台で天井を見上げていた五人が、いま、ゼノリスの前に、一人残らず、世界の定めた天井の向こう側に立っている。
――皆、折れないほど強くなった。
ゼノリスはその確信を、胸の奥で噛みしめた。
もう、誰にも折られない。勇者が何を仕掛けようと、この五人は、二度と膝を屈しない。あの日、見抜いた輝きが、いま、それぞれの手で完成されていた。
「ゼノ様」
隣で、セレナの声が震えた。
見ると、セレナの藍色の瞳から、涙が一筋、頬を伝っていた。拭おうともせず、セレナは帰還する二人を見つめている。
「ガルム様も、ノア様も……ご無事で」
セレナの声は、途中で詰まった。
「五人とも……本当に、立ち上がられたのですね」
ゼノリスは何も言わずに頷いた。
言葉を継げば、自分の声も揺れる気がした。送り出した五人だった。動かない身体のまま戦場へ歩いていく背を、止められなかった五人だった。その全員が、いま、強くなって帰ってきた。
◇◇◇
歓声が広場に満ちていく。
だが、その歓声の輪の中に、加わらぬ者がいた。
守護隊の隊列の脇で、一人の女が立ち尽くしていた。帰ってくる兵の顔を、一つずつ確かめている。確かめて、また次の顔へ移る。探している顔は、いつまでも、隊列の中に現れなかった。やがて女は、声を上げて喜ぶでもなく、その場にゆっくりと膝を折った。
ガルムがその女に気づいて、足を止めた。
南の戦場で、ガルムが盾の土を払ってやった、あの若い兵。その兵の名を、ガルムは女の口の動きから読み取ったらしかった。厚い肩が、一度、深く沈んだ。限界を超えた力を手にしたその同じ掌が、一人の若者の死だけは、どうしても覆せなかった。
歓喜と、哀しみが、同じ広場の、同じ陽の下にあった。
ゼノリスはその両方を、目から逸らさなかった。勝った。五人は強くなった。だが、その強さが帰ってきた広場の隅で、帰らなかった者を悼む膝が、地に折れている。どちらも、この日の真実だった。
広場を、風が一度よぎった。
歓声のただ中も、膝を折った女のかたわらも、風はかまわず通り抜けていく。星が六つに増えたことも、ひとつの命が戻らなかったことも、風はついぞ知らないままだ。城門の石を撫でて、城下の屋根のほうへ、ただ流れて消えた。
◇◇◇
帰還した五人が、城門の前で揃った。
北西から戻ったカイロ、セラ、シルヴァ。南から戻ったガルム、ノア。五人が、ゼノリスとセレナの前に並び立った。誰も、勝ち誇った顔はしていない。それぞれが、戦場に置いてきたものの重さを、その表情の奥に残している。
「皆、よく帰ってくれました」
ゼノリスは五人を見渡した。
「私が止めようとしたのを、振り切って、あなたたちは立った。そして、自分の手で、限界の向こうへ届いた。……その輝きが、いま、私には見えています」
五人は、それぞれの仕方で、その言葉を受け取った。セラが拳を握り、シルヴァが目を伏せる。カイロは無言で頭を垂れた。ガルムが低く息を吐いた。
ノアが一歩、前へ出た。
「ゼノ様。一つだけ、お伝えしたいことがあります」
ノアの声は、勝利の報告の調子ではなかった。
「この力の冷たさは、戦場で思い知りました。だからこそ……誓わせてください。僕たちの力は、ゼノ様の誠実さの下でしか振るわない。五人、全員でです」
その言葉に、五人が静かに頷いた。
すぐには、誰も口を開かなかった。広場の歓声が遠く聞こえる中で、その誓いだけが、五人とゼノリスのあいだに、静かに置かれていた。
ゼノリスはその誓いを受け止めた。力に怯えを残したまま、なお折れない。それこそが、五人が手にした本当の強さだった。
誓いの余韻が、まだ場に残っている。そのなかで、シルヴァが淡い髪を風に揺らして、口を開いた。
「ゼノ様。私たちは、もう、守られるだけの存在ではありません」
シルヴァの瞳が、まっすぐにゼノリスを捉えていた。
「勇者は、私たちを倒せませんでした。……ならば、次は私たちの番です。勇者が世界に重ねてきた嘘を、一つ残らず解き明かします。真実を、証明します」
その声は、高ぶってはいなかった。
歓声に紛れて消えそうなほど、静かな声だった。だが、その静けさの底に、決して退かぬものが据わっていた。広場の歓喜が、いつか外へ広がっていくのか、ここで途切れるのか――それは、まだ誰にもわからない。わかっているのは、五人が、次の戦いへ目を向けているという、それだけだった。
ゼノリスは城下の方角へ目を向けた。
その遥か先に、勇者のいる聖都がある。嘘で塗り固められた、偽りの神の都が。守られる側だった五人が、いま、その嘘へ刃を向ける側に回った。
「ええ」
ゼノリスは静かに応じた。
「次は、真実を世界へ。――その戦いを、始めましょう」




