第190話:「ノアの覚醒」
角笛が鳴るより先に、最初の矢が降ってきた。
南の国境を貫く隘路。左右からせり出した岩肌が、頭上に細い青を残すだけの、底の見えない裂け目だ。その狭い底に、ノアは約五十の騎士団と魔術兵団を布陣させていた。敵が来るのはまだ半日先――斥候はそう報せ、前衛は半数が腰を下ろして武具を手入れしていた。その頭上から、岩棚の縁を越えて、矢の束が音もなく落ちてきた。
「敵襲! 上だ、上っ!」
騎士団の一人が叫び、悲鳴に呑まれた。
岩肌の上から、教会連合圏の侵略軍が、白い旗を掲げた勇者軍を先頭に立てて、束になって雪崩れ落ちてくる。来るはずのない方角、来るはずのない刻限。ノアが地形で殺すつもりだった『数の利』は、頭上を取られた瞬間に裏返った。崖は味方を守る壁ではなく、敵が見下ろして射かける足場に変わっていた。
ノアは岩棚を駆け登ろうとして、二歩で膝をついた。
肺の奥がひゅうと鳴る。脇腹に巻いた布の下が、動くたびに鈍く疼いた。遠征拠点で受けた手傷は、まだ塞がりきってはいない。最弱の天才――走れば喘ぐ体しか持たない男が、五十人の命を預かって、この崖の底に取り残されている。
戦況図を広げる暇もなく、ノアは地面に指を突いた。
敵の射点はどこか。味方の逃げ場はどこか。岩肌の血と砂の上に、指先でそれらを一本の線で繋ごうとする。どこを締めれば敵の足が止まり、どこを開ければ味方が動けるか。盤面を読むのは、ノアの仕事だった。剣も振れず、魔術の出力も並みでしかないノアが、五十人に差し出せる唯一のものだ。
けれど、いま引こうとした線は、どこにも繋がらなかった。
◇◇◇
「ヴェルナーさん。前衛の損耗は」
ノアは傍らで戦況図を支える副官に問うた。ヴェルナーが、魔人族の青白い指で、図の一点を示す。
「四割。岩棚の崩れた箇所から、敵の弓が射点を取りました。前衛はもう、半刻も保ちません」
ノアは図を睨んだ。
待てば、前衛が削り尽くされる。崩れた岩棚を抜かれれば、底の布陣は背を取られて壊滅する。なら、退くか。だが、この隘路を抜ければ後ろは開けた平地だ。崖の底という蓋を失えば、五十人は数万の波に呑まれて消える。待てば無駄死に、引けば壊滅。どちらの線を引いても、その先は同じ場所に落ちていた。
ノアは小石を一つ拾い、図の上に置いた。味方の前衛を示す石だ。
その石を、どこへ動かしても、敵の石に囲まれて取られる。盤面を見通すノアの目が、見通せるがゆえに、出口の無さだけを正確に映し出していた。読めなければ、まだ希望を抱けたかもしれない。だが、ノアには見えてしまう。この盤面に、勝ち筋が一本も残っていないことが。
「策は」
ヴェルナーの声は静かだった。問い詰めるのではなく、ただ、副官として答えを待っている。その静けさが、かえってノアの喉を締めた。
答えがなかった。
指先が、図の上で止まったまま動かない。ここまで、ノアはいつも一本の線を見つけてきた。誰も死なせずに勝つ線を。けれど今は、何度なぞっても、その線が指の下で千切れていく。
◇◇◇
ふと、一つの線が、図の上に浮かんだ。
崩れた岩棚の下――そこに十数人を残し、敵の弓の的として釘付けにする。その間に、本隊は逆側の斜面を駆け上がって射点を奪い返す。残した十数人は、ほぼ確実に死ぬ。だが、残りの三十数人は生き残り、隘路を保てる。
数字は合っていた。
十数の命と引き換えに、三十数の命と防衛線を買う。盤面の上では、それが最も損の少ない手だった。指が、図の上の十数人を示す石へ、すっと伸びていく。この石を、囮として置けばいい。そうすれば線が繋がる。勝てる――
指先が、石に触れる寸前で止まった。
腹の底から、冷たいものがせり上がってきた。
いま、自分は何を計算した。背筋を伸ばして志願してきた顔。昨夜、芋を分け合って笑った顔。その十数人を、盤面の石として、囮の数字として、本気で勘定に入れた。一瞬、確かに『それが最適だ』と頭が結論を出した。出してしまった。
ノアは図から手を引き、岩肌に手をついた。
吐き気がした。指が震えている。剣を握れぬこの指で、ノアは人を殺さない。そう決めてここまで来た。けれど今、この指は誰よりも冷酷に、味方の命を秤に載せた。盤面が読めるということは、こういうことなのか。誰を捨てれば誰が助かるか、それを正確に弾き出せてしまうということなのか。
「ノアさん」
ヴェルナーの声が、遠くに聞こえた。
ノアは答えられなかった。岩肌に額を寄せ、浅い息を繰り返す。崖の底では、まだ味方が盾を並べて凌いでいる。彼らはノアの線を信じて、そこに立っている。その信頼に、ノアが返せるものは、誰かを囮に捨てる数式だけだった。
「正しく勝つ方法なんて……」
声が喉の奥でかすれた。
「正しく勝つ方法なんて、最初から無いんだ……」
ヴェルナーが、膝を折ってノアの傍らに並んだ。
その手には、前線から駆け戻った伝令の紙片が握られている。崖の底で凌ぐ前衛、盾を並べた騎士団と、岩陰から術式を撃ち上げる魔術兵団。その彼らが、持ちこたえながら寄越した言葉だった。ヴェルナーは紙片に目を落とし、それを読み上げた。
「『勝てます』と、前衛は言っています」
ノアは岩肌に額を寄せたまま、答えられなかった。
「『ノアさんなら、必ず勝たせてくれる』。皆、そう言って持ち場を守っています」
その一言が、ノアの胸の奥を打った。
顔を上げる。ヴェルナーが、青白い頬をわずかに緩めて、ノアを見ていた。
「あなたが、ずっと言ってきたことですよ。勝つことで、救う。皆、それを信じて、あなたの線の上に立っているんです」
――勝つことで、救う。
その言葉は、もともとノアのものではない。牢の底で、ゼノ様がノアに差し出した言葉だ。勝つために捨てるのではなく、勝つことで救う――誰も見ようとしなかったノアの知略に、あの方はそう言って手を伸ばした。ノアはその一言を背骨にして、ここまで戦ってきた。
その背骨が、いま、五十人の声になって返ってきた。
彼らは知っている。ノアが誰も見捨てない男だと信じて、この崖の底に立っている。囮の数式を弾き出したノアの指の冷たさなど、彼らは知らない。知らないまま、なお『勝てます』と言った。あなたなら、と。
ノアはゆっくりと目を閉じた。
崖を駆ける足音も、岩を打つ矢の音も、遠ざかる。閉じた瞼の裏で、ノアは問い直した。誰も捨てずに勝つ。それは甘い夢だったか。違う。甘いのではない。それを諦めた瞬間、自分はもう、ゼノ様の隣に立つ資格を失う。
誠実に勝つ。その一点だけは、絶対に折らない。
◇◇◇
ノアは目を開けた。
折らないと決めた瞬間、腹の底で凍えていたものが、まっすぐな熱に変わって突き上げてきた。出口の無かった盤面が、初めて裏返って見える。詰んでいるのは、自分ではない。
「……詰みだ」
声が、自分でも驚くほど静かに出た。
「お前たちの正義は、最初の一手から間違っていた!」
その咆哮が、崖の底を貫いて駆け上がった瞬間――視界が、変わった。
地面の戦況図が、消える。いや、図を見る必要がなくなった。岩肌に突いていた指から、力みが抜けていく。ノアは戦況図から手を離し、ただ顔を上げただけだった。
なのに、見えた。
まるで、空のずっと高い場所から崖の底を見下ろしているように、戦場の全てが一望できた。岩棚に陣取った敵の弓兵が何人で、どの角度を射ているか。崖の底で踏ん張る味方の盾が、あと何呼吸保つか。逆側の斜面に、敵がまだ気づいていない死角があること。敵将がどこで指揮を執り、その心がいま何に傾いているか。配置も、心理も、弱点も、一つ残らず、指で数えるより速く頭の中へ流れ込んでくる。
これまでは、線を一本ずつ、苦労して手で辿っていた。
いまは違う。盤面の全てが、最初からそこにある。勝ち筋は、探すものではなくなった。ノアが『ここだ』と思った場所に、勝利へ至る道が、すでに引かれて待っている。
指を、一本立てる。
それだけで、頭の中の盤面で、味方の石が数倍の重さを持った。号令一つで、五十人のひとりひとりが、数倍の働きで噛み合う位置へ流れ込む絵が見える。見えるのではない。そう動かせる。必然として、勝利が、ここに生産される。
これが――詰みの盤面か。
◇◇◇
「魔術兵団、斜面の死角へ回れ。崖の上の弓兵を、下から焼く」
ノアの声は、もう震えていなかった。
敵がまだ気づいていない逆側の斜面の死角を、魔術兵団が低い姿勢で駆け上がる。岩棚の縁に陣取った敵の弓兵は、足下の谷底ばかりを見下ろしていて、足元の斜面から這い上がる味方に気づかない。その背へ、術式がいっせいに撃ち上げられた。炎が岩棚を舐め、敵の弓兵が悲鳴とともに崖下へ崩れ落ちていく。頭上の脅威が、根こそぎ消えた。
「騎士団、前衛と入れ替わって押し返せ。敵を、隘路の細い口へ呼び込む」
崖の底で疲弊した前衛が退き、入れ替わりに後詰の騎士団が前へ出る。ノアの号令どおり、敵の侵略軍を、隘路の最も狭まった一点へ、じりじりと引き込んでいく。敵は数の利を信じて押し込んでくるが、その数こそが、狭い口では身動きを奪う枷に変わる。前へ出た敵兵が、後ろの味方に押されて退けない。横へ逃げる岩壁の隙間もない。
盤面の上で、敵の石が、自分から詰みの形へはまっていく。
「いまだ。敵将を獲れ!」
ノアが指した一点へ、味方の騎士団の精鋭が、楔のように突き込んだ。混戦の岩壁づたいに、敵の本陣まで一直線。指揮を執っていた敵将が、騎士団の刃に喉を貫かれて崩れ落ちる。命令の声を失った敵の軍が、一拍遅れて、ばらばらと後ずさり始めた。
敵の一隊が、なお踏み止まろうと隊列を組み直す。だがその動きさえ、ノアの読んだ盤面の内側だった。組み直した列は、そのまま次の崩しの的になるだけだった。
「最後だ。崖を落とす」
ノアは岩棚のヒビへ目を向けた。
先刻、敵が崩した岩棚の縁。そこには、まだ崩れきっていない大岩が、不安定に残っている。魔術兵団がノアの示した一点へ術式を撃ち込んだ。鈍い震動が崖を走り、ヒビが一気に裂ける。退路へ殺到していた敵の頭上へ、崩れた岩塊が雪崩れ落ちた。砕けた岩が逃げ道を塞ぎ、土煙が隘路の口を呑み込む。
まともに斬り結ぶことすらなかった。
数の利が効かぬ状況を、ノアは盤面の上で組み上げ、そこへ敵を流し込んだだけだった。気づいたときには、敵軍は、戦う形を失って崩れていた。白い旗が一本、また一本と、土煙の彼方へ退いていく。
◇◇◇
崖の底に、静けさが戻った。
矢の音も、喊声も、もう聞こえない。残ったのは、味方の荒い息と、岩肌を伝う風の音だけだった。
ノアの膝が、そこで限界を迎えた。
膝から力が抜け、岩肌に背を預けて、ずるずると座り込む。手が震えている。さっき盤面を動かしていた指が、いまは自分の意思とは無関係に小刻みに揺れていた。覚めた力の余韻が、体の芯から抜けていかない。呼吸は浅く、喉の奥が掠れて鳴り続けている。脇腹の傷が遅れてずきずきと痛みを訴え出した。最弱の天才の体は、勝った後になって、ようやく悲鳴を上げていた。
ヴェルナーが、水を差し出した。
「お見事でした」
ノアは受け取る力もなく、ただ谷を見渡した。
味方が、立っている。盾を構えていた騎士も、術式を撃った魔術兵も、誰も欠けていない。あの瞬間――囮の数式を弾き出した、あの瞬間に捨てかけた十数人は、いまも息をして、そこに立っている。
一人も、捨てずに勝った。
その一点だけが、ノアの震える胸を、かろうじて支えていた。盤面を読む力は、誰かを捨てれば、誰かが助かることを正確に弾き出す力でもある。その冷たさを、ノアは知ってしまった。けれど、今日その力で誰一人として秤に載せずに済んだ。
ノアはまだ揺れている自分の指を見つめた。
この指は、たった一本立てるだけで、五十人を勝利へ導いた。それは、剣を握れぬノアが、生まれて初めて手にした圧倒的な力だった。だが、誇らしさより先に、別の感覚が背筋を冷やしていく。これほどの力を、もし誠実さを失った者が握ったら。盤面の上の石は、いとも容易く、囮の数字に変えられてしまう。
「僕は……こんな力を、手にしてしまったのか」




